第十話 それでは新郎の入府です(前)
知親たちが長見を出発して、およそ一か月後。
江戸城からもほど近い、長見藩上屋敷の奥。
腰元の菊野は、静かに襖を開けた。
「千代姫様。先ほど、殿が江戸にお着きになったそうですよ」
「き、菊野! 大変よ、目が覚めたら『古事記』の端が折れてしまっていたの!」
「……それは大変ですが、先ほど殿が」
「どうしましょう、お葉が牛嶋神社の神主様に貸していただいたものなのに!」
「姫様!! 『古事記』の話は後です! 殿が江戸にお着きになりましたよ!」
菊野の怒鳴り声に、千代は「古事記」を抱えたまま、ぱちくりと瞬きをした。
「……父上が?」
「そうです! ほらほら、早くお出迎えの支度をなさってください」
菊野は櫛を手に取って千代の髪をとかし、正装の打掛を整える。打掛は夏らしい薄水色の、さっぱりとした色合いだ。
「まったく、上屋敷にまでそんな本を持ち込んで……。殿が見たらなんとおっしゃるか」
「だって、いつもと違う部屋でなかなか寝付けないんだもの。そういうときには本を読むのが一番よ」
千代は、言わずと知れた長見藩藩主・日浦明重と、その側室・綾瀬の方との間に生まれた一人娘。
幼くして母を亡くしてからというものずっと江戸郊外にある下屋敷で暮らしてきたが、今回、明重の入府にあたってこの上屋敷まで呼び出されていた。
打掛を床に引きずって、千代は鈴廊下(奥の玄関口)まで歩いて行く。見れば何人もの女中が、忙しなく廊下を行き来していた。
「良いですか。殿がお着きになったら、『父上様、ご無事の御帰り恐悦至極にございます』、ですよ。そして、」
「父上が通り過ぎるまでは、絶対に顔を上げてはいけない、でしょう? 上屋敷は変わってるのね。いつもは父上にそんなことしないのに」
「これがしきたりですよ、姫様。もうすぐご正室様となられるのですから、しきたりも覚えてゆかねばなりません。『古事記』など読んでいる暇があったら!」
千代はこっそり苦い顔をする。
やはり、今回上屋敷まで呼ばれたのはそれが理由なのだろう。
「今日はその……青木様もいらっしゃるのかしら」
「いいえ、まさか! 殿だけですよ。他の方は長屋にお帰りになるはずです」
「そう……」
それを聞いて、千代は少し安心した。
青木知親は、千代の許嫁である。千代は今年数えで十七、あちらは二十。まさに適齢といえば適齢だ。
変なのは、彼が下級武士の次男ということである。
「お着きー!!」
表の方から響いた大声に、千代は思わず肩をすくめた。そこに、穏やかな顔つきの老女が近づいてくる。
「姫様、殿が表にお着きになったようです。お出迎えのご準備を」
「あ、お葉! 大変なの、さっき『古事記』が……」
「姫様! 『古事記』の話は後でと申しましたでしょう!? お葉様も、あまり姫様に本ばかり差し上げないでくださいませ」
菊野が困り果てた顔でお葉に言うと、彼女は「ごめんなさい、ついね」と口に手を当てて上品に笑った。
お葉は御年寄という、奥では千代の次に権力のある女性だ。菊野は自分が何を言ったところで、どうにもならないだろうと悟った。
千代が冷たい廊下に座ると、表の方から足音が聞こえてきた。周りの者が皆平伏するので、千代も指をつき、額を床に近づける。
何度か台詞を頭の中で繰り返しているうちに、襖が開いた。
「父上様、ご無事のお帰り恐悦至極にございます」
すると、「うむ」と明重の声が頭上から返ってくる。
千代はなんだか笑ってしまいそうだったが、ぐっとこらえて父が通り過ぎるのを待った。
そして向こうで襖が閉まる音を聞いてから、ゆっくりと顔を上げる。
「ああ、なんだかくたびれたわ。お武家って大変なのね」
「何を他人事みたいにおっしゃっているんですか。ご正室様になれば、もっと大変なことばかりにございますよ」
「ご正室ご正室って言うけれど、まだ婚礼の日取りも決まっていないじゃない。そんなことより、折れてしまった『古事記』をなんとかしないと!」
「ああもう、姫様!」
重いであろう打掛も何のその、自室まで早足で歩く千代を、菊野は追いかける。
菊野はああ言うが、千代は結婚のことなど考えたくもなかった。本でも読まねばやってられないというものだ。
すると、後ろから「姫様」と凛と上品な声が響く。
千代が立ち止まって振り返ると、そこにはお葉が立っていた。
「殿がお呼びでございます」
それ見たことか、というような菊野の視線が痛かった。
*
「父上、お久しゅうございます」
「おお、千代。息災であったか? 上屋敷は、不自由ないか」
「私は変わりございません。この屋敷もまだ少しばかり慣れませぬが、住みよいところにございます」
明重はにこにこと笑った。
「そうかそうか。何よりじゃ。ところで、お前に一つ話しておかねばならんことがある。お前の婚礼の儀についてのことだが……」
千代はそれを聞いて、つい口の端を下げてしまう。
せっかくそのことを忘れようとしていたのに……。
「実は遅くの入府であったために他藩と日取りが重ならず、明日には公方様へのお目見えが叶うことになった。ので、婚礼の儀も少々急ではあるが次の大安……六日後には執り行うことにする」
「六日後?」
「きっと千代も気に入るぞ。知親は大層な美丈夫で、武術も、特に剣術は右に出る者がおらんほど優れておるし……」
千代は呆気に取られる。
……父上は、何をおっしゃってるのかしら。武士の、それも大名家の婚姻に、武術や、ましてや容姿なんてものが大切だとでも?
我慢がならなくなって、千代は父の言葉を遮った。
「父上。我が藩は外様で、決して大身ではありませぬ。だというのに、なぜ青木家のご子息との婚姻など。私が結婚するのは、日浦家の存続と繁栄のためのお役目だと思うておりましたのに……」
明重は少したじろぎながらも、「まあ落ち着け」と千代を宥める。
「しかしなあ、日浦の存続と繁栄のためにこそ、知親が必要なのじゃ。分かってくれ」
「分かりませぬ。それはなぜにございますか? それに、此度の入府が遅れたのも何か理由がおありなのでしょう。そうでなければ、お上に何も無礼など働いていないというのに」
はあ、と明重がついたため息に、千代は口を閉じた。
「千代。お前がそんなことだから縁談も立ち消えになってしまうのだ。勉学に精を出すのは良いが、少しは姫としての品を持て」
なおも納得がいかない、という顔で黙る千代に、明重は手を鳴らす。すると襖が開いて、女中たちが数名部屋に入って来た。
「婿殿からの贈り物にございます」
そして刀や布が畳に並べられる。
贈り物とは、つまり結納品だろう。いつの間にか結納まで済んでいたらしい。明重の顔色はさも、これを見て機嫌を直せとでも言いたげだ。
千代は女中から受け取った目録を眺めるが、太刀に白木綿、スルメに昆布、これといって目立ったものはない。下級武士の青木家が、これらを揃えるのだけでも苦労したことには違いないが……。
そのときふと、ある品目が千代の目にとまった。
「書物一帖」
書物。千代は畳の上の結納品たちに目を走らせる。するとちょうど、一人の女中がそれを並べるところだった。深い縹色の表紙には「南游紀行」と記されている。
南游紀行!
千代が生まれるより少し前、かの有名な貝原益軒公によって記された旅の記録である。一度読んでみたいと思っていたが、江戸の本屋では初版から二十年が経つ今でも絶版続きという代物だった。
思わず千代が手を伸ばすと、「これ、はしたないぞ」と明重に咎められ、本は他の結納品ごと回収されてしまう。
「ですが父上、『南游紀行』にございますよ! ずっと探し求めておりましたが、一度も実物を目にしたことはございませんでした。それが……」
目を輝かせる千代に、明重は先ほどよりもさらに大きなため息をつき、女中を呼び戻した。
「結納品の本を、千代に」
「父上……! 忝のうございます。大切に拝読いたしますわ!」
千代の手の中、縹色の本は、悩みの種の婿殿から贈られたものだというのに、その憂鬱をすべて吹き飛ばすほどのときめきを持っていた。




