第九話 お目が高くていらっしゃる(後)
―――長見藩日浦家の縁組に付き申し渡し候。
当節、足高の制仰せ出され候、これに依って、貴殿の縁組に付けても相計らい申すべく候。
先年通りの参勤の儀差し控え、足高の制相整い次第、参勤の旨仰せ出され候。
…………つまり、
「日浦家の養子縁組の件について申し渡す。
この度、足高の制が制定されることとなった。これに従って、日浦家の養子縁組についても問題ないよう取り計らうものとする。
今年は去年通りの参勤交代ではなく、足高の制が整ってから江戸に参勤するように」
と書いてある。
いつお上から届いた書状かは分からないが、とにかくこれが明重の口から伝えられたのは知親が城に戻って間もなくのことであった。
参勤が遅れた原因が知親の養子入りにあると知った家臣たちは大騒ぎ。ひいてはなぜそんなことがお上に認められたのかと、瑞穂城は混乱の渦中……。
かと思えば、案外そんなことはなかった。
皆旅支度で忙しいのか、特に勘蔵が言うところの慎重派の面々は、もうお上がそう仰るのなら仕方がないとでも思っているのか。瑞穂城はいつも通りだった。
知親は一人、城から夜の街を見ていた。
城下では所々に赤い火が灯り、城から離れるにつれて街は暗くなっていく。その向こうでは、海の上に白い三日月が浮かんでいた。
知親はふと、カジュギンカのことを思い出した。まさか生まれ育った長見に、あのような秘密があろうとは思ってもみなかった。
……もう一度、入ってみようか。
特に理由なく、そう思った。あるいは江戸に立つ前にもう一度、確かめたくなったのかもしれない。
ハクが言うには、カジュギンカに入る時は現世から姿が消えてしまうらしい。だから人目のないところで、とも言っていた。
知親は城の奥にある自室へと向かう。が、部屋の前では何人かの護衛が待ち受けていた。
明重の命で、数日前から護衛が付いているのだ。おかげで今日の昼も、仄火のもとへ行くのに苦労したことを思い出す。
仕方なく、護衛の目を掻い潜ってさらに奥にある小さな庭へと出た。
周囲に人がいないことを確かめ、試しに大きく深呼吸してみる。次に目を閉じて、腹に力を入れてみる。それから、ハクがやっていたように手を鳴らしてみたり……。
……困ったことに、全くカジュギンカへの入り口は開けなかった。前はどうやって入ったのだったか。
知親は諦めた。明日は早いのだし、もう部屋に戻った方がいいだろう。
そう思って踵を返すと、右手が自然と刀にかかった。動いてはいけない、そう直感する。
「お覚悟!!」
一人目は右からだった。脳天を狙う一刀を避け、知親は刀を抜く。
相手の顔には見覚えがあった。確か……。
そう立ち止まるや否や、背後の茂みから二人目。後ろから心臓を貫こうとする一突きを躱し、同時に切り込んでくる一人目を刀で受ける。キン、と刃物が打ち合う音がした。
知親は二人と対峙する。香木原と高江。二人とも榊原率いる派閥だ。
じっとりと、背に冷や汗が滲んだ。
どうする。太刀筋は見切れるが、そういう問題ではない。藩主になろうというこんな時に、知親が人を殺めるわけにはいかないのだ。しかし、あちらは殺す気でかかってくる……。
「若様!」
その時、廊下から複数の足音が聞こえた。部屋の前の護衛たちが、先ほどの刀の音を聞いて駆けつけたのだろう。
知親がそちらに意識を取られた時、前の二人はまたもや同時に切りかかってきた。
知親はそれらを勢いよく刀で弾き飛ばすと、すぐに太刀筋を変えて刀の側面を叩く。横からの衝撃に弱い刀は、二本ともあっさりと折れた。
やっと一息つくも、知親の意識はすぐに後ろへと引き戻される。
三人目……!!
振り返りざまに刀で攻撃を防いだ。
が、相手は思いもよらぬ人物だった。
「貴方は……!」
こちらを睨むのは、榊原善司その人。その後ろで、護衛の一人が刀を振りかざすのが見える。
がん、という鈍い衝撃と共に、榊原は崩れ落ちた。
*
「起きたか、榊原。……お前もまあ、思い切ったことをするもんじゃのう」
榊原は目を覚まして驚いた。もう死んだとばかり思っていたのだ。走馬灯を見たような気さえするのに、今は明重と二人でどこかの部屋にいる。
一体どうして、生きているのか。
榊原は体を起こそうとするも、あまりの痛みにそれができなかった。峰打ちにより、どうやら腕の骨が折れているらしい。
「なぜ、なぜ切らない! 情けをかけたつもりか……!」
榊原の悲痛な叫びにも、明重は冷静だった。
「護衛は士蔵選りすぐりの家臣たちじゃ。筆頭家老であるお主を切るような、馬鹿な真似はせんよ」
「何をおっしゃいますか。お上からもお許しをうけた次期藩主を暗殺しようとしたのです。どの道私は死罪にございます」
「そうじゃのう」と明重は言ったが、それは肯定というよりは、何かを悩む口調だった。
「もちろん慣例に従えば、死罪は免れぬ。しかし、もう間もなく儂も隠居じゃ。故にここは一つ、知親に任せようと思うての」
明重の声でぱっと襖が開き、知親が姿を現した。榊原は唇を噛みしめる。
この若造が、全てを狂わせた。知親や青木家がどんな手を使ったのかは分からないが、殿もなぜこのようなことを……。
「誠、天晴れと言うほかございませぬ」
「は?」
知親の言葉に、聞き間違いかと榊原は目を丸くした。
「長見のため、己が命をも顧みぬその心意気は、まさに天晴れ。榊原様なくして、この長見は立ち行きませぬ。死罪などとんでもないことにございます」
知親が手を鳴らすと、続けて立川勘蔵が部屋に入って来た。つい最近、急に知親に寝返った家老だ。
勘蔵が広げたのは勘定方の帳簿であった。
「今年の長見は、おそらく豊作とはゆきませぬ。なのでひとまず、お上に献上する上米の不足は藩庫から補います」
「ま、待て。そうなると藩士の俸禄はどこから出すのだ。今の年貢では無理だ。藩の蔵から補うとて、そう長くは立ち行かんぞ」
榊原はそこまでの展開にあまり頭がついていかなかったが、勘蔵の言葉には、反射的に家老としての立場が口をついた。
「なぜ、今の年貢では立ち行かぬのです?」
それに答えたのは知親だ。
「確かに、長見はここのところ豊作とは言えませぬ。それでも民の力によって、年貢は例年通り納められているはず。一体どうして、今のままでは立ち行かぬのですか?」
「それは……出費が嵩んでおるのだ。江戸では倹約令が出ているせいで逆に金が回らず、物が高くなっているからな」
「しかし、上米の制により江戸での滞在は半年になりまする。多少物が高くなろうと、例年より出費は抑えられるはずでは?」
榊原が何を言っても、知親はすぐに鋭く打ち返してくる。
江戸での出費が嵩んでいるのは明らかだ。しかし言われてみれば、今回の参勤は半年。確かに、今の江戸での予算は、いささか多すぎるのではないか。
…………では一体どこに、その金は消えるというのか?
「江戸と長見で、大きく帳簿の改めを行おうと思います。榊原様には長見で、その統括をしていただきたいのです。……なので、此度の騒動は不問ということに」
知親に手渡された紙を広げると、そこにはびっしりと帳簿改めの手順と、人の割り当てが記されていた。
「何とぞ、よろしくお願い申し上げます」
そう言って、知親と勘蔵は部屋を出て行った。なんとも、嵐のようであった。
「若いもんは元気だのう」
明重は笑って彼らを見送る。
確かに若い。……若い、が。
榊原はいま一度、記された内容を見る。帳簿改め、土地や戸籍の再確認まで。途方もない量だが、閑職の藩士までをも引っ張ってきて、十分な人手を確保している。
立川勘蔵は、若いが才気がある。
しかし、もしこれを全て勘蔵が考えていたとしても、あの知親の正確な受け答え、そしてその速さは。
情けは無用、殺せと願う暇もなかった。
「……殿。やはり全くもって、とんでもない養子取りにございますな」
「そうじゃのう。儂も安心して隠居できるわ」
明重の笑い声につられて、榊原も久しぶりに笑った。腕が痛むのも、しばし忘れて。
そして、夜が明ける。まだ街も静かで、海の音が遠くから聞こえてくる夏の朝。
長見藩、江戸に向けて、大名行列の出立である。




