第九話 お目が高くていらっしゃる(前)
「若様。殿がお呼びです。」
清の誘拐事件から六日後、いよいよ参勤交代を明後日に控えた夜だった。
呼びに来た小姓の後に続いて、知親は暗い廊下を歩く。
長見藩藩主・日浦明重に会うのはこれで三度目である。直接言葉を交わすのは四年前、この城にやって来た時以来だ。
そこで知親はふと、気配を感じた。
少し前、勘蔵の用人である瀬川宗四郎に後をつけられた時のような、誰かに見られている気配。
しかし、出所を確かめる間もなく気配は消えてしまった。
「殿、青木様がお見えになりました」
障子の前に座る小姓の声を聞いて、知親も部屋の前へと急ぐ。もう一度振り返ってみたが、そこには無人の庭が広がるだけであった。
「おお。久しいのう、知親」
「お久しゅうございます、殿」
明重は御年六十の大身だが、その威圧感ある振る舞いは四年前と変わっていない。
「しばらく見ぬうちに立派になったもんじゃ。どれ、旅支度は滞りないか?」
「はっ。かようなお言葉、恐れ入りまする」
「なんでも先日、牢を逃げ出した下手人を捕らえたそうではないか。よくやったと言いたいところじゃが、あまり滅多なことは控えるように。なにせ婿入り前じゃからな」
逃げた時雨と鏑……いや、西岡村庄屋の長男、小太郎というべきか。知親が二人を捕まえたことは、(勘蔵が広めて回ったので)もはや城中の知るところであった。
「無茶を働き、誠に申し訳ございません」
頭を下げる知親に、「よいよい」と明重は笑う。
……なぜ、明重は自分を呼んだのか。知親はそれを考えていた。
やはり、幕府が知親の養子入りを認めなかったのではないか。
正直、そんなことがまかり通るはずはないとさえ、知親は思っていた。下級武士の次男が大名家に婿入りなど、取り下げられても何もおかしくはない。
しかし、明重の言葉は思いもよらぬものだった。
「お前を呼んだのはな、名前のことで相談があったのじゃ」
「は…………。名前、ですか」
「いかにも。養子入りの際には名も変えるのが常であろう。しかしなあ、考えてもいい名が思いつかんくてのう。そこでいっそこのまま、日浦知親とするのはどうであろうか?」
明重は、脇に置いてあった一枚の紙を持ち上げた。いくつもの書き損じの真ん中に、大きく「日浦知親」と書かれている。
「『知親』。すなわち親を知る。この先日浦家の人間となるにあたって、これ以上の名もあるまい」
「それは……」
「なんじゃ、気に入らんか? それならやはり別の名前を考えるかのう」
「いえ、決してそのようなことは。ですが此度の養子入りを、お上はお許しになったのですか?」
知親がやっとのことで聞くと、明重は「ああそのことか」と持ち上げていた紙を再び置いた。
「お許しなら、とっくに出ておるぞ」
そんな馬鹿な。
と、そう言いかけた言葉は、すんでのところで呑み込む。
「一体、いかようにお上を説得されたので? 私めのような者が大名家に婿入りというのは、極めて異例のことと存じますが……」
明重はそこで初めて難しそうな顔をした。どう言ったものかと悩むようにして、知親のことを見据える。
「話すと長くなるが、実はな……」
*
「幕府が青龍のことを知っている!?」
思わず声が大きくなる仄火に対して、知親は静かに頷く。
翌日のよく晴れた朝、仄火の家で二人は向かい合っていた。
「昔、お上から問い詰められた殿のお祖父様が、青龍のことを打ち明けられたそうだ」
「問い詰められた?」
「昔から、長見は豊作続きの土地だった。それがお上からすれば不審であったのだろう」
「ああ……。まあ確かに、飢饉で周りの領地が苦しくなっても、なぜか長見は平気なことが多いよな。……で、それと青龍に何の関係があるんだよ」
「……青龍の力らしい」
「は?」
「言い伝えでは、長見の豊作は青龍の力によるものらしい」
しばらく沈黙が流れた。そして、仄火の口から乾いた笑いが漏れる。
「いや……さすがに嘘だろ?」
「ここは海が近い。塩気が強くて、普通は作物が育ちにくい地形だ。それなのにどうして米がよく穫れるか、説明できるのか?」
「…………」
言われてみれば、確かにおかしい。今までそんな当たり前のことを、疑問に思ったこともなかった。そういうものだと思っていたからだ。
「いや、ちょっと待て。じゃあ仮に、豊作が青龍の力だったとする。でも、その『青龍の力』なんてものをお上が信じたっていうのかよ?」
そんな馬鹿げた話を、お上が信じるわけ……。
その時、仄火は分かった、というより、腑に落ちてしまった。
……お上は今、改革をしている。なぜって、深刻な財政難だからだ。
それが何を意味するか。
つまりお上にとって重要なのは、青龍が本当にいるかどうかではない。
「……要は青龍だろうが何だろうが、長見が豊作のままで、そこから搾り取れればいいってわけだな。そのためなら異例の養子入りも認めると」
「どうも、そういうことらしいな」
二人はそろってため息をついた。
何にせよ……。知親の養子入りが認められたとなれば、仄火もいよいよ知親の依頼を急がねばならない。
青龍の正体は何なのか、知親から別の、もっと藩主にふさわしい家格の者に青龍を移す方法はあるのか。
そこで仄火は思い当たる。確か青龍は知親の前には、現藩主の日浦明重に憑いていたのではなかったか。
「お前、藩主と話したんだよな。青龍のことは聞かなかったのか?」
「もちろん伺った。なにせ四年ぶりのお目通りだったからな」
しかし次の瞬間には俯いて、「それが……」と神妙に話し始めた。
青龍のことを尋ねると、明重は困ったようにこう言った。
「……実はな、儂もあまりよく知らぬ。ずっと青龍なんぞ、全く信じておらんかったからな」
「信じて、いなかった……?」
「左様。『お前には、長見に豊作の加護を授ける青龍が憑いている』……。そう父に言われても、何かの例え話かと思うておった。青龍の声を聞くまではな」
声を聞いた。
驚くべき明重の言葉に、知親は思わず身を乗り出す。
「忘れもせん、初めてお前と会った日のことじゃ。覚えておるか?」
「もちろんでございます。確か、あれは総拝の折のこと」
四年前、家臣が城に集まる総拝の日。病床に伏せった兄に代わって、知親は父・知孝の荷物持ちをした。
下級武士の青木家は表の供揃えの列に加わるだけだったが、運悪く途中で雨が降り始めた。知親が父に笠を届けに行くと、そこでは並んだ足軽たちが弓や槍を持って構えていた。
初めて明重を見たのはその時だ。列の中央を、馬に乗って歩く姿を覚えている。
その後父と共に呼び出され、「日浦家の養子となるように」と言われたことももちろん覚えている。知親にとっても、人生が変わってしまった日であった。
「あの時、初めてお前を見た時にな。はっきりと聞こえたのじゃ。『お前に息子はもうできぬから、あの子供に憑くことにする。ひいては子供を藩主とするように』と」
「それは、なぜ……。なぜ、私だったのでしょうか?」
「さあな。だがその声に従わず、長見が不作になったらと思うと、お前を藩主にするほかなかった。それが周りからすれば、どんなに馬鹿げた理由でもな」
青龍の声。それは次期藩主を決める理由としてはあまりに不明瞭で、しかしただの願掛けと言えないほどには信ずるに値するものがあった。
「不作になれば、今まで米に頼り切っていた財政が傾くのは必定。結局お前を藩主にすることが、長見を守る最善であることには違いない」
「しかし、榊原たちをどう説得したものか……」と悩む明重を見て、知親はただ悔しくなった。
「悔しくなった?」
聞き返す仄火に、知親は淡々と、だがいつもより幾分か感情のある声で答えた。
「殿は、初めてお会いしたその日に私を養子にするとおっしゃった。青龍の声を聞いて困惑なされたろうに、藩の最善を考え、その日のうちに決して容易とは言えぬ決断をなされた」
「まあそれは……すげえとは思うけど」
「だというのに、青龍のことをおおやけにできぬせいで……。『耄碌した』などと言う者までいる始末。それをも切って捨てるようなことはなさらず、彼らも長見を思って言うことと、お許しになられている」
その語気は、わずかながらに弱くなっていった。
「あのように立派な御方の跡を継ぐことなど、私にできようか……」
物憂げに目を伏せる知親を、仄火は理解に苦しんだ。
さっきまで、知親が跡取りにふさわしいかなんて話はしていなかったように思う。なぜそんなことを言い出したのか。
「んなもん、できるできないじゃねえだろ。むしろ長見のためにはお前が藩主にならないといけないって、そーゆー話じゃねえのかよ」
「…………そうだな」
表情だけでは知親が落ち込んでいるのかすら分からないが、声は明らかに弱々しい。
一体どうしたのだろうか。いつもはもっと淡々とした……というかもはや感情があるかどうかさえ怪しい奴だというのに。こうして弱音を吐くところを、仄火は初めて目にしたかもしれない。
そういや、明日長見を立つのだったか。今年はいつもより遅い参勤だと耳にした覚えがある。
……なるほど。生まれ育った地を離れて他所に行くもんで、多少過敏になっているのだろう。
仄火はそう決めつけると、能面のような表情を俯かせる知親に努めて明るく話しかけた。
「そう落ち込むなよ。明日から江戸に行くんだろ? あそこは長見みてえな小さい街とは違っていろんな面白いもんが見られるし、案外いいところだぜ」
「江戸に行ったことがあるのか?」
ようやく顔を上げた知親に、そういえば言っていなかったかと仄火は思う。
「俺は江戸の生まれだ。長見に来たのは六年……いや七年前か?」
「それは一体、どういうわけで? 仕事を求めて江戸に移る者は多いと聞くが……」
それはそうだろう。だが皮肉なことに、仄火もやはり情報屋としての仕事のために長見に来たのだ。
「カジュギンカは江戸にはない。というより、ここら一帯からもう少し西のあたりまでしか、カジュギンカはないんだよ」
「そうなのか」
だから青龍が藩主に憑く、なんて妙なこともこの地で起こっているのかもしれないが。仄火はそれは言わないでおいた。
「まあとにかくだ。江戸は悪いところじゃねえし、お前は藩主になるしかない。青龍のことは、留守の間にも調べておいてやるから」
仄火が言うと、知親も「そうだな」と頷いて腰を上げた。
「また何か分かったら知らせてくれ」
「おう。……藩主になるまで、せいぜい背後には気をつけろよ」
……いや、あんなに強いんだから、別に心配する必要はねえか。
知親はそれを聞いてうっすらと笑う。なぜそこで笑うのかは分からない。
「……ではまた、冬に帰ってくる」
そうして知親は去った。
初めて来た時と同じように、群青の羽織をなびかせて。




