第七話 店番小僧と遊びませう(後)
ひやりとした床に触れた。いつもとは違う光景に、清は自分に何が起こったのかを思い出す。
あの後、仄火が店にいないとわかるや否や、男は……どうしたのだろう。そこから先の記憶がない。
足は動くが、両手は後ろで縛られている。建物の中のようだが、どこなのかは分かりそうになかった。
「……にしても、人を眠らせる能力なんていかにも獏らしいな」
「まあな。単純だが案外使えるぜ」
背後から二人分の声が聞こえた。後者は店にやって来た男の声だ。
獏の能力……。それで眠らされていたのかと、清は耳を澄ます。
「俺のは、特別な力はないただの獏だったからな。しまいには逃げやがって、てんで役に立たなかった」
「まあこのカジュギンカに入れるだけでも、俺らみたいな者にとっちゃ儲けもんさね」
清ははっとした。
まさか、ここはカジュギンカなのか。確かに、外はまだ明るいのにあたりが静かすぎる。
カジュギンカには一度だけ、仄火に連れられて来たことがある。何でも人の魂は、当人が一度カジュギンカに入ると消えてしまうらしい。
「お前の魂を覗かれちゃ、うちの商売をそのまま盗まれるようなもんだ」と仄火が言っていたのを思い出す。
「にしても、本当に勝てるんだろうな。俺はあんたに倒されたあいつから、青木知親の話を聞けりゃそれでいいんだ」
「勝つに決まってるだろ。だが、本当にこの餓鬼であいつが釣れるのか?」
「心配ねえよ。弟を見捨てるほど、奴が落ちぶれてなきゃの話だが」
…………なるほど、大体わかった。
二人の男は手を組んでいる。清を攫って眠らせた男は、知親の情報を仄火から聞き出そうとしている。つまり、おそらく彼は情報屋。
そのために、もう一人の男に仄火を倒させようとしている。こちらは口ぶりからして、仄火に恨みでもあるのだろう。
仄火に恨みを持っている人間……。女性ならいくらでも思いつくが、男相手だとその数は絞られる。おまけに、男は「獏に逃げられた」とも言っていた。となれば、以前小火騒ぎを起こして仄火たちに捕らえられた下手人以外には考えられない。
清はそこまで考えて、一度目を閉じた。
……どうだろう、仄火は来るだろうか。この情報屋の言う通り、もし自分が本当に弟だったのなら、来るのかもしれないが。
*
あれは清が十の時だから、もう五年も前のことになる。
清に母はいなかった。理由は知らない。
父は大工で、その腕前も人柄も評判のいい男だった。
だが、家での父はそうではなかった。
清は父に、何も買い与えられたことはない。朝に父が置いていくわずかな金で料理や洗濯をし、あとは父の憂さ晴らしに殴られることが清の役目だった。一度、自分で飲んだ酒が減っていると殴られたことが一番理不尽だった気がする。
他の理由は思い出せない。幼かったせいかもしれないが、清が唯一「覚えていない」ことだった。
清の楽しみといえば、聞こえてくる噂話だった。どこの誰がまた浮気をしただとか、息子がいつまでも仕事の出来が悪いだとか。
その噂を繋ぎ合わせて、どこに誰が住んでいて誰とどういった関係にあるのか、という街の地図を思い描くことが一番の楽しみだった。井戸端会議を聞いていると、「それは本当はこういうわけでのことですよ」と教えに行きたくなることすらあった。
その日は寒くて、清はつい朝寝坊をしてしまった。慌てて食料を買い出しに行ったが、いくつか売り切れているものがあり、店を回っているうちに日が暮れた。
ぼんやりとしながら、家に帰る足取りは重かった。
父はとっくに帰っているだろう。夕飯ができていないことに怒り、また殴られるのだろう。その後、自分は夕飯を作って寒い夜の中洗濯をする。そうして寝るのが遅くなれば、また明日も寝坊をしてしまうのではないか。
いつの間にか、家からは遠く離れた河原に立っていた。
川の流れを見つめながら、清は自分がどうしたいのかが分からなかった。
「なあ、お前この辺に住んでんのか?」
そこでようやく、横に人が立っていることに気がついた。その人は男のようにも女のようにも見えたし、そもそもなんだか人間ではないような顔だった。
その人は何も言わない清をしばらくじろじろ見ていたかと思うと、懐から紙を取り出した。
「ここの呉服屋の娘が駆け落ちしたらしくてよ、親が探してんだ。最近、そういう金持ちそうなお嬢さんが男と歩いているところとか、見なかったか?」
清は顔を上げた。地図上で指し示されているのは五十鈴屋だ。
「……そこの娘のおりくさんなら、奉公人の竹太郎さんと親しい仲です。竹太郎さんの家は貧しいですけど、叔父さんが佐々山の宿場町で宿を営んでいるはず。そこを目指しているのかもしれませんね」
新しい噂を聞くたびに何度も書き換えた街の地図は、すっかり清の頭に入っていた。
しばらくその人は、黙って清を見つめていた。
「こっちが聞いといてあれだが、なんでそんなこと知ってんだよ」
「噂で聞いたんです。そうすれば誰がどこに住んでいて誰とどういう関係なのか、大体はわかるでしょう」
「にしても、その親戚がどこに住んでるのかなんてことまで、覚えてられるか?」
その言葉に、今度は清が「えっ」と驚く番だった。
「覚えていられないって……どういうことですか? 普通、忘れる方が難しいですよね」
「…………まさか、この街全部か?」
清は頷いた。何を驚くことがあるのだろう。自分が住んでいる街のことぐらい、色々と詳しいのは普通のことだろうに。
その人はしゃがみこんで、清と目線を合わせた。
「お前、どこ住んでんの」
「町人街の、東の方です」
「東の方って、ここからかなり遠いじゃねえか。帰らなくていいのか?」
「それは、帰らないと……いけないけど……」
その人は、清が持っている野菜を見ていた。欲しいのかと思ったが、よく見ると視線が向いているのは野菜ではなく、足の痣だ。
傷は人に見せるなと父に言われている。清は慌てて両足を揃え、痣を隠した。
「名前は?」
「え?」
「お前の名前」
「さ、清……」
「俺は仄火。帰りたくねえなら今日はうちに泊まってけよ。狭い家だが、ここからは近いぜ」
清が戸惑っているうちに、仄火は立ち上がって歩き出した。夕日もほとんど沈みかけている薄暗い河原でその背中が遠ざかっていくのが、なぜだかとても怖くて。
清はその後をとぼとぼと歩き出した。
その後、父のもとへ帰るべきかと悩む清に、仄火は「父親が迎えに来たら帰ればいいんじゃねえの」と言った。
それがつまりは、今の暮らしの始まりである。
……仄火は、来るだろうか。
今の清の役目は本棚である。食費はかかるが場所は取らず、どこにしまったかと探す手間もない。他人が盗み見ることもできない本棚だ。
清なら命と本棚を天秤にかけた時、間違いなく生きることを優先する。それに、仄火は争いに巻き込まれることをそもそも嫌うはずだ。
仄火が来なければ、自分はどうなるのだろうか。
「おい鏑、こいつ起きてるぞ」
頭上からの声に驚いて見上げると、ちょうど清と同じくらいの見目をした少年が宙に浮いていた。
獏だ、と清は直感する。先ほどの話から、清を眠らせたのは彼の能力だろう。
そして足音とともにこちらを覗き込んだのは、やはり清を攫った男だった。鏑と呼ばれたその男は、清の腕と襟を掴んで座らせる。
すると、もう一人の男の顔も見えた。いかにも悪人といった人相で、おそらく小火騒ぎの下手人の方だ。
「お前、青木知親について何か知ってるか」
こちらを見下ろす鏑に、清は考える。
正直なところほとんど全てを知っているのだが、それを話せば鏑にとって清は用済みだ。
ならば生き残るためには、何が最善か。
「……少しだけなら」
清がそう呟くと、途端に鏑は身を乗り出した。
「よし、何でもいいから話せ」
「わかりました」
そこで清は鏑と、もう一人の男の顔を見ながら「ですが」と付け足す。
「せっかくです。ここはひとつ、遊技でもしませんか」




