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EP 15

潜入スパイと「地獄のワンオペ研修(賄い付き)」

帝都本店の行列は、日を追うごとに伸び続けていた。

衛生監査という名の「営業妨害」を、異常なまでの潔癖症(QSC)で返り討ちにした暗黒男爵の評判は、今や帝都の社交界だけでなく、裏社会にまで届いていた。

「……死ぬ。死ぬでござるよマルセル殿。拙者のライフ(体力)はもう1ミリも残っていないでござる」

営業終了後の深夜。良樹はカウンターに突っ伏し、幽霊のような声を漏らした。

繁盛するのは良いが、帝都の客数は領地の比ではない。どれだけシステムで効率化しようとも、物理的な「手(人手)」が圧倒的に足りなかった。

「ヨシキ様。ちょうど本日、求人票を見て志願者が一名参っておりますが、いかがいたしますか?」

「採用! 即採用でござる! 呼吸をしていて、トングが握れれば誰でも良いでござるよ!」

良樹が縋るような思いで面接室(という名の個室)へ向かうと、そこには一人の目立たない男が立っていた。

名をカイルという。その正体は、美食ギルドが放った一流の隠密スパイであった。

(ククク……暗黒男爵。貴様の「秘伝のタレ」の配合、そしてその異常な強さの源、すべて暴いてくれるわ……!)

カイルは内心で冷笑しつつ、表面上は「田舎から出てきた純朴な青年」を演じていた。

だが、良樹の反応は彼の予想を遥かに超えていた。

「カイル殿……待っていたでござる。貴殿のような『闇を抱えた瞳(ただの寝不足)』を持つ者こそ、我が軍団スタッフに相応しい!」

「は、はあ……よろしくお願いします」

「では、早速『入社研修(地獄の門)』を開始するでござる! 良いでござるか。当店のマニュアルは、血の掟より重いのでござるよ!!」

そこから、カイルにとっての地獄が始まった。

彼が期待していた「秘伝のレシピを巡る心理戦」などは一瞬たりとも訪れなかった。

「挨拶が3度高い! 背筋の角度は45度、発声は腹の底から、お客様の鼓膜を優しく揺らすトーンでござる!」

「テーブルを拭くときは、親指の付け根に力を込めて一筆書きでござる! 往復させれば、そこに不浄の菌が戻るでござるよ!」

「手洗いは30秒! 爪の間、手首、肘までを三回洗浄するでござる。さもなくば、貴殿に牛肉(聖体)に触れる資格はない!」

カイルは愕然とした。

(な、なんだ……この異常なまでの制約は。これは洗脳か!? それとも、一挙手一投足を管理することで私の精神を破壊し、男爵への絶対服従を強いる高度な暗殺術の訓練なのか……!?)

良樹の「当たり前(社畜基準)」の指導は、プロの隠密であるカイルを肉体的、精神的に追い詰めていった。3時間が経過する頃には、カイルのプライドは粉々になり、ただ「はい、店長!」と叫ぶだけのマシーンと化していた。

「……ふむ。良い筋でござる。カイル殿、貴殿には才能があるでござるよ。では……本日の修行のご褒美として、我が秘術の一端……『賄い(まかない)』を授けるでござる」

「ま、賄い……?」

カイルの緊張が走る。ついに毒、あるいは自白剤を盛られるのか。

だが、目の前に差し出されたのは、湯気を上げる一杯の丼――**『特製・ねぎ玉牛丼定食』**だった。

中央に鎮座する、鮮やかなオレンジ色の生卵。その周囲を囲む、シャキシャキの刻みネギ。そして、秘伝のタレで煮込まれた牛肉が、真っ白な米の上でキラキラと輝いている。

「さぁ、食すが良い。これは、戦う社畜たちのソウル・フードでござる」

カイルは覚悟を決め、箸を取った。一口食べれば、正体を明かすことになるかもしれない。だが、あまりに芳醇な、醤油と牛肉の「誘惑」に抗うことはできなかった。

「……っ!!?」

牛肉を、卵黄を、ネギを、米と共に一気にかき込む。

その瞬間、カイルの脳内で爆発が起きた。

甘辛いタレの旨味が、卵黄の濃厚なコクと混ざり合い、熱々の米をコーティングして喉を滑り落ちていく。ネギの辛味が絶妙なアクセントとなり、噛むたびに幸福感(アミノ酸)が全身の細胞に染み渡る。

「……なんだ、これ……体が、熱い……。今まで美食ギルドで食べてきた、どんな高級料理よりも……心が、満たされていく……

カイルの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

美食ギルドで暗殺と偽装の訓練に明け暮れ、誰にも心を開かず、味気ない乾パンのような食事を続けてきた孤独な日々。

それが、この一杯の温かい丼によって、優しく肯定されたような気がした。

「……店長。俺……俺……」

「ククク。言葉は不要でござる、カイル殿。貴殿の瞳に宿ったその『光』こそが、当店の看板を背負う戦士バイトの証。明日からは、レジ打ちとオーダーテイクの特訓に入るでござるよ!」

「はい……店長!! 俺、一生ついていきます!!」

美食ギルドへの忠誠心は、牛丼の旨味によって完璧に洗浄(漂白)された。

潜入スパイ・カイルは、この日、帝都で最も有能で、最も「笑顔が怖い」看板バイトへとジョブチェンジを遂げたのである。

「フハハハ、チョロいでござる。やはり『賄い』という名の福利厚生こそが、従業員のエンゲージメントを高める最強の魔術でござるな!」

良樹が勝利のポーズを決める後ろで、カイルは密かにギルドへの連絡用魔道具を、厨房のゴミ箱(分別済み)へと投げ捨てるのであった。

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