胎動の刻―侵食の叫び『弟』
世界は、沈黙の奥で胎動する――
芽吹きは命の兆し。
だがその根は、静かに歪みを孕んでいた。
風は優しく、花は揺れ、
それでも確かに、何かが侵されていく。
交錯する想いは、やがて一つの流れとなり――
いま、侵食の夜を迎える。
『弟』
私と九尾は、無事に水晶さんを屋敷へ送り届けた。
うん、水晶さんは確かに着物を着て馬に乗っていた。まさか、鞍を跨がずに横乗りして来たとは思わなかったよ。
あの体勢では、鞍に吊り下げられた鐙に足を掛けられないから、走行中の馬上での安定を図り難いだろう。
九尾が言った「母さんらしい」って意味は…無茶をするって事では無くて。自身の体幹の強さ、バランス感覚の良さと、馬技術が優れているから出来る事で…それを当然の事のようにやっているから「母さんらしい」って意味だったみたいだ。
恐るべし…水晶さんの身体能力。
九尾は、水晶さんを裏門が見える場所まで送り届けた。もちろん裏門とはいえ、門番をする警備兵が居るから、気付かれぬ位置、林の中で水晶さんに別れを告げる。
「じゃあ、また。」
あっさりした別れの言葉に、水晶さんの表情は寂しそうに翳る。
「ええ…では、ここで。颯真の顔が見れて…とても嬉しかった。」
それでも水晶さんは寂しい思いを言葉にせずに、笑顔を浮かべた。
「任務中だから…家には寄れないが、落ち着いたら連絡は入れる。その…また、来るから。」
ちょっとだけ照れくさそうな九尾の言葉に、水晶さんは嬉しそうに頷いた。
「はい。待っておりますね。颯真…身体には気をつけて。五葉の皆様に宜しくお伝え下さい。輪様も。お話が出来た事、とても光栄でした。」
水晶さんは馬上で嫋やかに頭を下げる。
「皆様に、精霊様のご加護がありますよう…。それでは、失礼致します。」
水晶さんは手綱を引き、私達に背を向けて歩み出す。林の中から水晶さんが姿を見せると、裏門を守る警備兵が慌ただしく駆け寄っていた。
そして、驚く警備兵に囲まれながら…水晶さんは門の中へと、その凛とした姿を消していく。
ゆっくりと…裏門が低い音をたてながら、しっかりと閉ざされた。
それは、まるで九尾と母である水晶さんを隔てている障害を具現化したみたいで…私は胸の奥がチクリと痛んだ。
九尾は水晶さんが無事に屋敷内に入ったのを見届けると、小さく息を吐いた。気持ちを切り替えるように、闇の奥を見据えて囁く。
「…行くか。」
そう言うと、周囲を警戒しながらティスを操り、走り出す。
方向的には、館に戻ると言うより…さっきまで居た泉に向かっているような?水晶さんと話していた時に何か見つけたのだろうか。
それよりも、今は聞きたい事がある。
「ねぇ、蒼真って…誰?」
その名前を聞いた時。何故、水晶さんが申し訳なさそうに…瞳を伏せたのか、気になっていた。
「ん?蒼真か…俺の弟。」
「は?…弟さん、居たんだ。」
そうか、兄弟か。
そうだよね…だから九尾が継がないなら、弟にって話しになるんだ。
そりゃ、そうか。兄弟が居ると聞いてなかったから、弟が居るとは思わなかった。あれ…なら、なんで水晶さんは申し訳なさそうに?
「まぁ…弟って言っても、顔も知らんけどな。」
あっけらかんと、九尾が言う。
「へ?」
兄弟なのに、顔を知らんってどういう事よ。ああ、貴族だから…私の知らない良識があってもおかしくないのかな。もしくは…愛妾の子供とか。
「俺が攫われて、居ない間に産まれたらしい。戻った後は、親父殿の弟君の屋敷に預けられてて、会った事もない。お互い名前は知ってるが、顔も知らない兄弟って…本当に変だよな。」
九尾が苦笑いを浮かべる。
サラッと…凄い事を話してくれたな…。じゃあ、水晶さんの申し訳なさそうな表情は、兄弟を引き裂いた事実?
でも、水晶さんが我が身を痛めて産んだ子苗を、夫の弟に預けるだろうか?
余程の事情があったに違いない。
「ま、一応は弟だから。俺が自由に動けるのは、弟が居るからだし。せいぜい迷惑を掛けないようにしないと…って感じだ。」
九尾なりに、顔も知らない弟を気遣っているみたいだ。
しかし…九尾と弟を会わせないって、どういう事だろうか?不在の間に産まれたのなら、紹介するのが普通だろう。いや、私の普通をこの世界に当てはまるのは違うか。
にしても…ちょっと、違和感が…。
私はティスの背中に伏せながら、頭の中でぐるぐると考えを巡らせる。
本当、貴族って分からない。一般の庶民には理解出来ないよな。跡取りとか、家名の存続とか。そりゃ、庶民にだってそう言う問題はあるよ?でも私には無縁の問題だったしな…。
あ。
ふと、思考回路が止まる。そして、一気に思考が加速していく。
一人息子が攫われて行方不明になった…それは跡継ぎが消えたって事だ。
家名を存続するには、跡継ぎは必要。血を絶やすのを良しとしないのなら…子苗を作るしかない。
だから…蒼真が産まれた?
そして、颯真は生還する。受け入れた家は…長兄が戻ったのならば、跡継ぎとして準備した次男は必要無くなる。だから…家長の弟の家に預けた?
長兄が跡継ぎだと、本人達と周囲に知らしめる為に…。
だけど、跡継ぎの颯真は家を捨て去る。だから…次男の蒼真は家に戻されて、跡継ぎ教育を受けてる真っ最中なのか?
…そんな事があるだろうか。
御家の大事とか、私には分からない。でも…貴族社会、ましてや異世界だ。そんな話があってもおかしくは無いだろう。
でも、でも。それじゃ、蒼真は…彼の意志はどうなる。兄の存在に左右されて、家の都合に振り回されて。
その中に、蒼真の思いは欠片も考慮されていない。それはあまりにも…酷いじゃないかっ。
私は無意識のまま、耳を伏せて、尻尾をパタパタとティスの背中を打ち付けていた。
そうやって憤慨している気持ちが溢れて出していたら…ポンッと九尾が大きな手で私の頭を覆い、眼を隠す。
「何を考えてるか…想像つくけどな。輪が気にする事じゃない。そうやって、知りもしない蒼真を思ってくれるのは…嬉しい事かも知れないが、これは、蒼真も承知の上の話しだ。」
耳に届く九尾の声…落ち着いた低い声には、『蒼真に同情するのは失礼だ』と言う九尾の意思が込められているみたいだった。
私は大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。そうやって何度か深呼吸をする。
家長の意向に従う事が、蒼真の意志ならば…私が憤る事は無いんだ。
それに…あくまでこれは想像であって。限りなく正解に近いとしても、私が知り得ない事情もある筈だ。
その中に、蒼真の思いが…きっとある。水晶さんや、家長である父親の複雑な思いも。
九尾ーー颯真自身が波瀾万丈であるのなら、その家族もまた波に煽られる。流れに巻き込まれて、飲まれて、思いは絡み合うのだろう。
私は、貴族なんか知らない。
どんな事情を抱えて、御家を守っているのか知らない。九尾の生家ーー九重家の闇など知る術もない。
だから…私が憤るのは筋違いなんだ。ほんの一部を見ただけで、全体を見ている訳では無いのだから。私が繋がっているのは九尾自身であって、九重家では無い。私が、それを否定するのは…違うのだろう。
「…ごめん、なんか勝手に熱くなってた。」
シュンとして、九尾に謝る。
九尾としても、そんな事情を知られたくはなかっただろう。
「うん、知ってる。輪は猫なのに…分かりやすいよな、本当。ある意味助かるんだが…。」
クックック…と九尾が含み笑いを漏らす。あ、なんか馬鹿にされた気がする。
「ほら。今、笑われて…ムッとしただろ?輪は隠し事とか絶対出来ないな。誤魔化しはやめた方がいい。すぐバレるぞ。」
揶揄うように九尾が笑う。
「九尾だけだもんっ!そんなに、観察するみたいに、私の事を見てんのはっ。」
「そうかぁ?まぁ…それは褒め言葉として聞いておくさ。」
九尾はティスの手綱を引き、歩みを止める。水晶さんを送り届けた屋敷から、かなり離れた場所。
泉から湧き出た小川が、さやさやと流れる…その辺り。
「そろそろ…か。切り替えろ、来るぞ。」
九尾から笑いが消えて、真剣な声が響く。
え…。何が、来るって?私は、戸惑いながら九尾の顔を見上げる。
「泉に居た頃から、殺気を放つ奴がずっと俺達を見てる…。」
「えっ!?」
私は驚きを隠せぬまま、キョロキョロと周囲を見回した。
耳を欹てても…何の音も拾えない。
「最初は、貴族狙いの野党かとも思ったんだが…母さんを送り届けた後も、ずっと着いてきている。狙いは…俺だな。」
九尾はティスから降りると、スッと眼を細めた。狙いが定まっているならば、逃げるのは愚策。庵で休んでいる皆まで危険に晒してしまう。きっと九尾はそう考えて、迎え撃つ気なのだろう。
そうか…だからあの時に、ティスが気づいて警戒鳴きをしながら、暴れて九尾に知らせようとしてたのか。
でも…私には何の音も聞こえ無かった…。うぅ、私の耳は飾りか?ティスの方が役に立ってる。
「気にすんな…。俺らは殺気に敏感なだけだ。輪には無縁のモノだったんだろう?仕方ない。それに…かなりの手練れだ。音の消し方が上手い。」
九尾は私を励ますようにそう話ながら、小川の上流を睨み据える。
何で…ちょっと落ち込んだだけなのに、気付くかな。なんか鋭過ぎて、怖くなってしまうんだけど。
そんな事を考えていると…九尾が見据える上流の岩の影が、ゆらりと揺れる。ジャリ…と、小岩を踏み締める音が響いて聞こえた。
「来たっ。」
私はティスの背中の上で、より一層身体を低くく伏せた。
「…この、気配は…」
九尾が苦く呟いた。
岩影から、陽炎のような気が揺らめく。背中が冷たくなるような、肌がひりつくような殺気だ。
一瞬、ネブラミスか、邪神か?とも思ったが、瞬間で考えを否定する。あんな、身の毛が総毛立つ圧倒的な殺意では無かった。
じゃあ…一体、誰なんだ。
九尾の呟きは、知ってる風であった。
香月の知り合いなのだろうか?
でも…香月の民が、五葉の九尾に殺気を向けるのだろうか。いや、それでも九尾を、邪魔とする輩が居るのかも知れない…。
もしくは、教会の手の者か。
わずがな月明かりに、影が照らし出される。影はゆらゆら…とゆっくりと歩み寄る。岩砂利を一歩また一歩と踏み締める音が、小川のせせらぎに重なって聞こえてきて…私はゴクリと喉を鳴らす。
その姿が、確認出来る距離に近づいた瞬間。
「えっ?」
私の声が、小さく闇に吸い込まれたーー
時には、キャラたちと共に笑い、
時には、共に憤り――
彼らが抱える想いに、どこかで共鳴してもらえたなら。
ゆるやかに、この世界観を満喫して頂けたなら。
それが、私にとって、何よりの幸いです。
――読んでくださって、本当にありがとうございました。




