胎動の刻―侵食の叫び『月華蝶の夜』
世界は、沈黙の奥で胎動する――
芽吹きは命の兆し。
だがその根は、静かに歪みを孕んでいた。
風は優しく、花は揺れ、
それでも確かに、何かが侵されていく。
交錯する想いは、やがて一つの流れとなり――
いま、侵食の夜を迎える。
『月華蝶の夜』
それは、幻想的な景色だった。
泉は絶えず湧水が湧き上がり、小さな小川へと流れていく。その上空には、淡い月華蝶の青い光が、ゆらゆらと揺れながら、舞い飛んでいる。
そんな非日常的な風景の中に、溶け込むように女性は佇んでいた。
九尾は緊張しているのか、身体を強張らせて、その女性の後姿を食い入るように見つめている。
私達の気配に気が付いたのか、女性はゆっくりと振り返ったーー。
九尾と視線が絡みあい…一瞬の間置いてから、女性は戸惑いを隠せない声音を発する。
「…颯真?」
女性は九尾の本名を呼んだ。
微かな月明かりで見える表情は、戸惑う声音とは裏腹に、無表情に近い。
「…母さん…」
九尾が苦しそうに言葉を漏した。
えっ!ちょ、嘘…マジで?
こんな再会とか、あり得るの?偶然…だよね。
母親と聞いて…改めて女性の顔を繁々と眺めてみれば…確かに面差しがよく似ている。
九尾の母親ーー確か、志乃さんが話していた時に聞いた名前は『水晶』だったか?
植物のハオルチアでは、名前によく使われている単語だ。その透明な窓が水晶を思わせるからだろう。
佇む女性の醸し出す雰囲気は、その名が表すように、透明で凛としていて…白乳色に銀の刺繍が施された着物と相まって、まるで月夜にふわふわと舞い飛ぶ月華蝶の化身の様に思えた。
水晶さんは、完全にこの幻想的な風景の一部になっていて、私までもがゴクリと喉を鳴らす。
九尾の母親というだけあって、それなりに円熟してはいるが…いや、なんていうか…とてつもなく綺麗な株だ。
水晶さんの、九尾のそれとよく似たモフモフの5枚の尻尾が、背後で揺れる。
「…」
水晶さんは、九尾を真っ直ぐに見つめながら何かを話そうと口を開きかけて…言葉を飲み込むようにして、閉ざす。
そしてゆっくりと瞼を伏せると、僅かに口角を上げて微笑んだ。
「元気そうで何よりです。」
そう呟くと、九尾に背を向けて…舞い飛ぶ月華蝶へと視線を戻してしまった。
なんて言うか…水晶さんって、かなりクールな方なのかな。志乃さんは、痛々しく感じる程に九尾を心配しているって、話していなかったか?
に、しては…ろくに話もせずに背を向けちゃったんだが。
ティスの頭の上で、戸惑いながら様子を見ている私に、九尾は視線を向ける。そして、手を伸ばして私の身体を持ち上げると、その腕に私を収めた。九尾の手が…微かに震えている。
腕の中にゆっくりと広がる私の温もりを確かめた九尾は、二度三度と深呼吸をした。
九尾が何もかもを捨てて、香月を出奔して…どの位の年月が過ぎたのだろうか。この幻想的な景色の中で、偶然に再会してしまった母親の後姿に、どれほどの思いが溢れているのだろう。
私には想像も付かない。
そんな息子の様子に背を向けた水晶さんの思いとは…?怒っているのだろうか。それとも…。
私はそんな事を考えながら、頑なな水晶さんの背中を見つめている。
あぁ…そうか。
水晶さんの背中が、僅かに揺れている…私はそれに気付いてしまった。
頑ななんがじゃない…その背中が揺れる程に、気持ちが溢れているんだ。それを悟らせない為に、涙を隠すように…背を向けているんじゃないのか?
私の敏感な鼻の奥が、ツンとする。
何だろう…こんな静かな再会なのに、感動してしまう。
九尾が息を整えると、数歩水晶さんに歩み寄った。その背中に並ぶと、水晶さんと同じように、月華蝶を見上げる。
「…変わらず、綺麗だな。」
九尾の呟きに、水晶さんは頷いて答える。
「ええ…本当に。毎年、この時期になると…見に来てしまいます。変わらぬ、この美しさを肌で感じるのが楽しみで…。」
「でも、従者も連れずに訪れるのは…些か不用心では?屋敷を黙って抜け出したと知れたら、大騒ぎになるでしょう。」
「…それは、そうですけど。女性を襲うような不埒者などには後れは取りませんし、問題ありませんよ。」
「いやいや、そう言う意味では無くて…。って、母さんは相変わらずなんだな。」
何気無い会話で、緊張が解れた様子の九尾が、フッと笑った。
「ええ…歳を取りましたが、武の腕に衰えは感じておりませんよ。」
ふふ…と水晶さんが笑いを洩らす。
「歳ですか…。いや、まだまだ若い。母さんは変わらず、綺麗ですよ。」
九尾に言葉に、水晶さんが思わず振り返る。そりゃ、振り返るよね…久しぶりに再会した息子が『綺麗』とか口にしたら、驚くだろ。
「まぁ…驚いた。颯真は随分とお世辞が上手くなったのですね。」
水晶さんは真っ直ぐに九尾を見つめると、噛み締めるよう…ゆっくりと眉尻を下げて…微笑んだ。
あぁ…九尾は水晶さんを振り向かせる為に、そう言ったのかな。
「お世辞じゃないんだが…。その櫛、まだ使ってくれてるんだな。」
九尾の言葉に、水晶さんは髪に刺した白蝶貝の一本櫛に手を添える。
「ええ…勿論。颯真が贈ってくれた櫛ですから…大事に使っておりますよ。」
そうか…あの櫛は、九尾が母にプレゼントした櫛だったんだ。その櫛をずっと大事に愛用してくれている。
「…そうか。」
九尾は一言だけそう言うと、足元を気にする素振りで下を向いた。
もしかして…照れ臭いのかな?
「よく似合っているよ。」
ボソリと、多少ぶっきらぼうに九尾が呟くと、水晶さんは目尻を下げて微笑んだ。
「それはそうと…気になっていたのですが…何故、猫を?」
水晶さんが、視線を九尾から私へと移して尋ねてきた。
見つめられて、ドキッとする。切れ長の眼の色は、九尾と同じ薄茶色をしている。
「ん?ああ…。色々と合って、大事な仲間なんだ。王都の精霊の祝福を受けてて、会話も出来る。特別な猫なんだよ。」
九尾が水晶さんに、旅に出る前に決めた設定を話す。私は、ギョッとして九尾を見上げた。
普通の猫のままやり過ごそうとしてたのに…そんな説明をされたら、挨拶しないと駄目じゃないっ!
猫ならば許させるけど…言葉が話せると知られたら、親子水入らずのムードがぶち壊しになりそうで、何か嫌だな…。
色々と言いたい事を飲み込んで、私はおずおずと口を開いた。
「えと…初めまして。『輪』と申します…。」
耳が勝手にイカ耳になってしまっているが、仕方ない。
「まぁ!本当に、話せるのですね…。何て、愛らしい。」
ふわりとした笑みを浮かべながら、九尾に抱かれる私の頭に手を差し出す。ひやっとした手の冷たいさを感じて、身体がピクリと反応する…が、大人しく撫でられる。
やはり…水晶さんも緊張していたのだろう。だから、こんなに手が冷えてしまっているんじゃないかな。
「素敵な仲間…。そう、輪と言う名前なのですか。よい名前ですね。」
九尾がホッとしたように息を漏らすと、木の側で大人しく待つティスへと視線を向ける。
「アッチは『ラプティス』サボテン国から来た竜だ。馬よりも脚が速い。旅の間だけ宰相閣下から借り受けた。名前は『ティス』人懐っこい大人しい奴だよ。」
ティスが「あ、紹介された?」って雰囲気で頭を上下に振る。喜んでいる様子だ。
「サボテン国から…それはとても貴重な…竜なのですか?トカゲっぽいですが…とても賢そうな顔をしていますね。」
水晶さんは爬虫類は平気そうだな。嫌そうな素振りも見せずに、何度も頷きながらティスの感想を述べていた。
でも、何で私やティスの話しをするんだろう。折角会えたのに…こう、もうちょっと親子水入らずの会話を楽しめば良いのにな。
やっぱり…九尾は、まだ合わせる顔が無いって考えているのだろうか?偶然だけど、もう会っちゃったんだからさ。開き直って、打ち解けれは良いだろうに。
何て…そう簡単な話しでは無いんだろう。九尾の思いは根深い。それは分かる。そして、それを水晶さんは知っている。
水晶さんは私の存在以外で、九尾に何かを尋ねようとはしていない。ただ九尾が話したい事を、頷きながら聞いているだけだ。
手を伸ばせば届くほど傍に居るのに…九尾と母親の距離はひどく遠く感じてしまう。
何て、もどかしい距離なんだろう。
九尾と水晶さんは…ふわりふわりと舞う月華蝶を眺めながら、たわいもないお天気会話を、ポツリポツリと続けている。
微妙な距離感の中で、ゆっくりと時間が過ぎていくのだった。
時には、キャラたちと共に笑い、
時には、共に憤り――
彼らが抱える想いに、どこかで共鳴してもらえたなら。
ゆるやかに、この世界観を満喫して頂けたなら。
それが、私にとって、何よりの幸いです。
――読んでくださって、本当にありがとうございました。




