胎動の刻―侵食の叫び『蝶の舞』
世界は、沈黙の奥で胎動する――
芽吹きは命の兆し。
だがその根は、静かに歪みを孕んでいた。
風は優しく、花は揺れ、
それでも確かに、何かが侵されていく。
交錯する想いは、やがて一つの流れとなり――
いま、侵食の夜を迎える。
『蝶の舞』
木の上から眺める九尾の実家は、深い眠りの中にいるように、しん…と静まり、ぼんやりと滲むようなーー足元灯りだと思うが…その僅かな光が、屋敷を闇の中から浮かべているようだ。
灯りは足元灯りの他に、門に備えて付けられた物と、玄関先、裏手の勝手口に備え付けられている。屋敷の灯りは、しっかりと木戸が閉められいるので、漏れ見えていない。
これでは、九尾の両親が起きているのか、寝ているのか…確認など出来ないだろう。
九尾は、何故こんな夜更けに…実家に来ようと思ったのだろう?
まだ会うつもりは無い…と、話していたけど、遠目から屋敷を眺めるのに、何の意味があると言うのか。
私は、頭の中に疑問符を浮かべながら、隣りに座る九尾を見た。片膝を立て、その膝を抱えるようにして、枝の上に腰掛けている。
その横顔はいつも通り、掴みどころがない、飄々とした表情をしている。
「子苗の頃は広く感じた屋敷も、こうして見ると…狭いよなぁ。」
眼を細めて、九尾が小声で呟く。
そりゃ…白夜の実家や、王城に比べたら狭いって感じるのかもだけど。私から見れば、十分に豪邸だと思うんだが?
私は返事をせずに、首を傾げて九尾を見つめる。
「あの頃は…この狭い屋敷が、俺の世界の全てだった。腫れ物を触るように気遣われ、貴重品のように大事にされて。ただ姿形ばかりを見て、俺を判断してる。…そんなの、エケベリアの貴族達と何も変わらない…。」
九尾はギュッと片膝を抱きしめる。
攫われて、海を越えたエケベリア公国に売り飛ばされて…貴族邸でずっと見世物として過ごした日々。
やっとの思いで戻った故郷でも、見世物だった日々と変わらない日常が待っていたのか。
それは…なんて言うか、痛ましい。
「俺にしてみれば…此処もエケベリア公国も、何も変化は無かった。何処も同じで…俺の意思は必要無い。黙って、薄ら笑いを浮かべて、大人しくしてれば良い…俺は空っぽのままで、この狭い世界の中で…独りで…。」
九尾は、苦々しく言葉を途切れさせた。
だから…なの?
その思いがあるから、誰も居ない寝静まった屋敷を見たかったの?
その時に感じた孤独感、虚無感…。夜の闇に沈むこの屋敷に、過去の自分を重ねて見てるの?
私は、不安になって前脚を九尾の膝に添える。
今の九尾は独りじゃないよ。その頃とは違う。誰も九尾を見世物だとは思っていない。
心の奥底に、その痛みが根深く残っていたとしても…暴れ出して痛み出したとしても…こんな形で、それを再認識しないで欲しい。
言葉にならない恐怖に、私は怯えていた。
過去の、空っぽだった九尾に引き摺られてしまい…今の九尾が消えてしまうような…そんな怖さを感じた。
私の縋るような視線に気が付いた九尾は、ふっと笑い、少し荒っぽく私の頭を撫でた。
「なんて眼をしてんだよ…。何か、誤解させたかな?いや、俺は…それでも幸せだったんだな〜って思ってさ。」
困ったように九尾が笑う。
…へ?
幸せだった?え…何処が?
意味が分からずに、私はキョトンとしていると、九尾は視線を寝静まる屋敷に戻す。
「こんな狭い屋敷で、虚無感に苛まれてても…大事にされてた。見世物だろうが、なんだろうが…大切にされてた。それは事実だ。…魔剣のように…死の恐怖に怯える日々は無かったからな。生命のありがたみを痛感するような事態は無かった…充分幸せだろ、それは。」
九尾はそう言うと、視線を私に戻して微笑んだ。
「それを、実感したかったんだ。アレと対峙するアイツを支えていかなきゃだしな。俺がグラついていたら話にならないだろ?要は気持ちの整理と、切り替えの問題ってヤツだ。」
ポンポンと私の頭を軽く叩くと、九尾はいつものように、ニヤリと笑う。
「さ、そろそろ行こう。ちょっと寄り道してから戻ろう。輪に見せたいモノがあるんだ〜。」
九尾はそう話しながら、スルスルと木を降り始めてしまった。
九尾の話…本当かな?何か体良く誤魔化された感が否めないんだが。
でも…うん、九尾は大丈夫。
不幸比べをして、どっちが幸せか…なんてのは不毛でしかないけれど。九尾が言いたい事は、そんな話しでは無いのだろう。
魔剣が、ネブラミスとの因縁に何らかの決着を付ける意志を固めた。
どう転ぶのか…まだ分からないけど、九尾は魔剣を支える覚悟を決めたんだ。その為にも…自分の気持ちに向き合って、きちんと整理したかったのだろう。
ーーこれは、きっと九尾の儀式だ。自分の原点を思い出して。自分の気持ちと向き合って。何が大切で、何を守るのか…再認識したかったのかも知れない。
私は羽を目一杯広げて、枝から飛び降りる。一気に降下して、九尾の暖かい腕の中を目指す。
ちょっと…恥ずかしいな。九尾が消えちゃいそうな気がして、不安になった事。心に穴が空いて、空っぽに戻ってしまうんじゃないか…って恐れた事。恥ずかしいから…コレは秘密にしておこう。
私は下降途中で、羽を消す。そして落下の勢いのまま、九尾の腕の中にダイブした。
私をキャッチした九尾は、大人しく待っていたティスに跨り、森の中へと戻って行く。
寄り道とか話していたけど…今後は何処へ行こうとしてるんだろう。
「全く…止めろよな、あーゆー危ない事はっ。」
九尾は私をキャッチしてから、ずっと文句を言っている。かなりの落下速度だったから、何とかキャッチしたものの…勢い余って、派手に尻餅を付いて転げてしまったのだ。
「だから…ごめんって!」
「お、逆ギレか?反省してないだろ。」
九尾がこんなに小言が多いとは…知らなかった。
「本当に危ないんだからなっ!他の奴等にやるなよ、絶対に。」
「やらないよ〜!九尾だから、やってみただけだし。まぁ…魔剣なら、尻餅付いても転がる事は無かったかもなぁ〜。九尾、ヒョロイから。」
私は茶化すように、そんな事を言う。
これだから、反省してない!と怒られる訳なんだけども…。
「ヒョロイ言うなっ!魔剣みたいな戦闘馬鹿と一緒にすんじゃねーっ。俺は肉体派じゃねーんだよっ!」
九尾がプンプンと怒りながら、もの凄く軽く私のお尻をポンッ!と、叩いた。
「あ、ヒョロイのは自覚あるんだね…。」
「お前…本当に怒るぞ。」
「ごめんってばっ!」
木の上で話した反動か…ついつい茶化してしまう。でも小言を言っても、怒ると凄んで見せても…九尾は何処か楽しそうで、リラックスしている。
香月に入ってから、何か張り詰めているような感じが、綺麗に消えている。それが、何だが嬉しくて…余計に茶化してしまうのだ。
「お、そろそろかな…。」
九尾はティスから降りると、私をティスの鞍に乗せたまま手綱を引いて歩き出す。
当然だが…月明かりで僅かに明るいものの、周囲は闇の中だ。こんな森の奥に何があると言うのだろう?
そんな私の疑問に答えるように、九尾は口を開いた。
「この先に、湧水が綺麗な池があるんだ。地元の連中も知ってるヤツは少ない、小さな泉なんだが。その澄んだ真水を求めて、凄い綺麗な虫が集まって来る。」
「…虫?」
思わず嫌そうに口を挟んでしまう。
「虫、嫌いか?別に害は無いから大丈夫だぞ。その虫、『月華蝶』と呼ばれているんだが…蝶って言うか、蛾なんだけどな。」
「蛾か…」
蝶でも蛾でも…あまり得意ではない。あの鱗粉が…苦手だったりするし。でも、触らなければ問題ないけど…デカい蛾となると、鳥肌が立つんだが…大丈夫だろうか。
「蝶って言われる位、綺麗だから…騙されたと思って見てみろって。」
九尾がニヤニヤ笑いながら、私に視線を投げ掛けてくる。
手のひらを私に見せながら
「この位のデカさなんだが…」
九尾の手のひらをマジマジと見つめて、想像する。…私の頭が収まる大きな手なんだが…えっ、ちょっと待って。九尾の手のひらサイズの蛾?
ザワザワ…と背中の毛が逆立つ。
ソレって、私の顔と同じ大きさって事だよね?
ちょ、無理無理…。
毛を逆立てる私の姿を見て、九尾が堪らず笑い出す。
「プハッ!だ、大丈夫だから…まずは一見してみろって。本当に駄目そうなら、直ぐ引き返すからさ。」
ティスの手綱を引きながら、九尾はケタケタと笑っている。
苦手なんだから…そんなに爆笑しなくても良くない?釈然としないまま、鞍の上に伏せる。
「キキ…」
九尾の笑い声に重なる様に、警戒心の強いティスが低く一声だけ鳴く。
前方に何がある…って感じだろうか。
「ほら、もう此処からでも見えるぞ。」
九尾が森の先を指差し示す。だけど…鞍の上からではティスの首が邪魔で見えない。私は首を駆け上がり、ティスの頭の上にちょこんと座り込む。ティスはビックリした様子だったけど、『まぁ…仕方ないか』って風情で、プフ〜と鼻息を漏らした。
九尾が指し示す先の森には、夜の闇が広がっている。その木々の隙間に、微かで朧げな淡い青い光が見え隠れしていた。
「…?」
私は無言のまま首を傾げながら、その青い光を眼で追った。
今にも消え入りそうな…儚気な光。
ふわり、ふわり…僅かに上下に浮き沈みしながら、瞬くように舞う。
九尾に引かれながら、ティスが緩やかに進む。近づくにつれ、その淡い光は翅が発光しているモノだと知れた。
…違う、発光してるんじゃない。アレは月明かりを反射させてるんだ。直発光なら、蛍のように小さくても輝かしい光を作り出す。アレは、月明かりを反射させているから…朧げな淡い光になっているんだ。
蛾の羽ばたきが緩やかだから、ふわりふわりと光が舞うように見えてる。
次第に木々の隙間が開けて、無数の淡い光が踊るように舞っているのを確認出来た。
凄い数だ…これは、確かに綺麗だと素直に思える。蛾だけど…そんな苦手意識が消え去る位の壮観な風景だった。
木々を抜け、私達は小さな泉の辺りに歩み寄る。
『月華蝶』と呼ばれる蛾達の舞いは、泉の上空を群れるように飛び交っている。そこだけ重力が消えて無くなっているかのような…緩やかな羽ばたきだ。
ふわり、ふわり。ひらり、ひらり。
半透明な薄い翅の鱗粉が、僅かな月明かりを反射させて輝く。
無数の青い光は…まるで夢の中の光景のように、幻想的で、非日常へと誘う光だ。
でも、よく見れば…ソレは確かに蛾で。鱗粉を纏った半透明な大きな翅に、ずんぐりとした白い身体。真っ黒な丸い眼に、櫛状の触覚をピクピクと忙しなく動かしている。
うん…蛾だな。
コレは、しっかり…蛾だ。
単体で見ては駄目だ…淡い青い光だけを見るのが正解な奴等だ。
私は一旦、視線を外して息を整えた。
その時に、ふと気が付いた。
九尾が月華蝶を眺めて居ない。その視線は、池の辺りに向けられていた。
ティスまでも、そちらに顔を向けている。
私は、九尾とティスが見つめる先を追う。すると…女性が池の辺りに立ち、月華蝶を眺めているのに、今更ながらに気付いた。
気配を全く感じ無かった。いや、微動だにせずに、顔をやや上げて、一心不乱に月華蝶を眺めているから、気付かなかったのかな。
それだけ私も月華蝶に見惚れていたって事だろう。
月華蝶達を驚かさないように、気配を消して眺めている…女性の後ろ姿は。何処か儚気で、今にも消えてしまいそうな感じがする。
白乳色の生地に、裾回りには銀色の細かい刺繍がされており、刺繍の糸が、月華蝶の翅のように…月明かりを反射させている。帯は灰青色。着物と同じ銀の刺繍入りだ。
実に、落ち着いた品のある着物を着ている。かなり良い身分の女性みたいだな。
後ろでひとつに結った髪には、白く光を反射している櫛を挿している。
もしかすると…あの櫛は白蝶貝では無かろうか。白蝶貝から彫り出した一本櫛。めっちゃ上品で、綺麗だから…使わないけど、欲しい!とか思った事もあったんだぁ…。
そんな私の物欲に気が付いたのか、女性の身体がピクリと動いた。
それに反応するように、九尾がゴクリと喉を鳴らす。
どうしたんだろ…九尾が身体を強張らせた。何か、緊張しているみたいなんだけど。もしかすると、知り合いだったりするのかな?
でも、顔見知りの銀朱でさえ、微妙な顔をしつつも、そこまで緊張をしている風では無かった。志乃さんだって、嫌そうだったけど…緊張はしてなかったよな。
なら。
九尾が緊張している…この女性は一体誰?
女性がゆっくりと振り返りーー
時には、キャラたちと共に笑い、
時には、共に憤り――
彼らが抱える想いに、どこかで共鳴してもらえたなら。
ゆるやかに、この世界観を満喫して頂けたなら。
それが、私にとって、何よりの幸いです。
――読んでくださって、本当にありがとうございました。




