胎動の刻―侵食の叫び『梅香る庵②』
世界は、沈黙の奥で胎動する――
芽吹きは命の兆し。
だがその根は、静かに歪みを孕んでいた。
風は優しく、花は揺れ、
それでも確かに、何かが侵されていく。
交錯する想いは、やがて一つの流れとなり――
いま、侵食の夜を迎える。
『梅香る庵②』
すっかり日も暮れた頃ーー
館に、銀朱と二人で向かっていた白夜が庵に戻って来た。
事情はともあれ、領主伯令嬢で在りながら、無断で香月を出ていた事について、たっぷりと説教をされていたのだ。
説教の道連れになった銀朱と共に、肩を落として疲れきっている様子で皆が寛ぐ居間に姿を現した。
ワンテンポ遅れて、ご年配の女性が室内に入ってくると、入り口近くに正座して、皆に深々と頭を下げる。
「お初にお目もじ致します。白夜お嬢様の庵の管理を任されております…扇と申します。
何卒、お見知りおきをよろしゅうお頼み申し上げます。
ご滞在中に何かご不便が御座いましたら、直ぐに扇にお申し付け下さいませ。
五葉の皆様方…この度は、お嬢様をお連れ戻し頂きまして、誠に有難う御座いました。」
扇と名乗る女性はそう挨拶をすると、顔を上げて福々とした笑顔を浮かべた。
扇さんは、品のある、燻んだ緑色ーー老竹色に、淡黄の小花散らしの柄が入った着物に、真っ白なエプロンを身に付けている。
帯は無地の茶色がかったーー黒鳶色。
そう言えば、庵の女中さんは扇さんとは違う色柄の揃いの着物を着ていたな。小豆色に生成りの青海波柄に黒檀の帯。同じなのはエプロンだけみたいだ。
館内を案内された時に見かけた女中さん達は、紺色に細かい青海波柄だった。帯は庵の女中さん達と同じ黒檀色に、白いエプロン。
働く場所や、格の違いで着物の色が微妙に違うみたいだ。
色は違えど皆が同じ青海波柄の着物の中で、扇さんだけが小花散らしの柄って事は…かなり特別枠って事じゃないのか?
確か…白夜は『婆や』と話していたから、そういう事なのだろう。
しかし…着物に白いエプロンとは。まるで太正浪漫のカフェで働く女給さんみたいだなぁ。
なんだか得をしたような気持ちになって、ホクホクとしながら、九尾の膝の上から扇さんを眺める。
ふくよかな体型に、福々とした笑顔。
穏やかな雰囲気は、少しばかり天使の纏うソレと似ているようにも思える。
扇さんが白夜に向ける視線は、まるで可愛い孫を見つめるような温かみを感じた。
きっと白夜が幼い頃から、そうやって大切に見つめて世話を焼いていたのだろう。
扇さんは、その視線を九尾に向けると
少しばかり眼を細めた。まるで、眩しいモノでも見ているような表情をしている。
「颯真坊ちゃん…本当にお久しゅう御座いますね。扇が存命中に、再びお会い出来るとは夢にも思いませんでした。もう二度とお目にかかる事は無いのだろうと…長生きはするものですね…。こんなにご立派に成られて…扇は嬉しゅう御座います。」
扇さんは眼を細めたまま、その福々とした柔らかな笑顔を九尾に向けた。
「何を言うのかと思えば…まだまだ長生きするだろう、扇は。」
九尾は苦笑いを浮かべる。
部屋の隅で眠ったように寛いでいた魔剣が、くっと息を軽く吹いた。そして、肩を揺らしているのが眼に入る。
「九尾が…坊ちゃん…」
そう小さく呟いて、肩を揺らす。笑いを堪えているみたいだ。
確かに、九尾が坊ちゃんと呼ばれているのは…笑いたくなる気持ちは否めないかな。
そんな魔剣を九尾はひと睨みすると、気持ちを入れ替えたように扇さんに向き直る。
「扇、すまないが…俺は国から暗号名を授けられてる。大丈夫だとは知っているが…一応はルールだから、これからは『九尾』と呼んでくれないか?」
九尾の願いに、扇さんは小さく何度も頷いた。
「はい。はい…承知致しました。九尾坊ちゃん。」
扇さんには、決して悪気は無いと思う。冷やかすとか、そんな気配は無くて、素直に従っている…みたいだけども。扇さんにしてみたら、九尾は『坊ちゃん』でしか無いのだろう。
耐えきれずに、魔剣が盛大に吹き出した。釣られるように、天使がクスクスと笑い出す。
九尾は笑われて苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるが…それ以上扇さんに呼び方云々を言わなかった。
そんな所も、九尾らしいな…と思ってしまう。自分が笑われる事よりも、扇さんの気持ちを慮る。優しさの表れのひとつだろう。
そんな九尾と扇さんのやり取りを、白夜は何も言わずに、嬉しそうに見つめていた。
少し涙が滲んでいる…余程、胸にくるものがあるのだろう。
九尾が突然香月を出奔した事実は、きっと多かれ少なかれ、颯真を知ってる者達の心に傷を残してしまった。
白夜はそれを知っているから、再会を喜ぶ扇さんの姿に涙が出てしまうんじゃないのかな。
九尾は私を膝から下すと、扇さんの傍に寄り、労るように…その肩をポンポンと叩く。
扇さんは九尾を笑顔で見つめながら、何度も何度も頷いて見せた。
この光景は…何も知らない私でも、胸にジンっと沁みてくる。
いつの間にか、魔剣と天使の笑いは収まり…和やかな雰囲気に、部屋中が包まれていた。
そんな雰囲気をぶち壊すように、銀朱の少し低い声が、廊下から聞こえてきた。
「銀朱です。お嬢様、湯浴みの準備が整いました。お申し付け通り、着替えの準備もしてあります。如何致しますか?」
銀朱の声に反応するように、扇さんが立ち上がると襖を開けて、廊下に控える銀朱を室内に招き入れた。
「そうねぇ…先に湯浴みを済ませたいわね。皆様は如何ですか?」
白夜が皆の顔を伺うと、雫がパッと顔を上げた。
「お風呂!入る…埃だらけだから、着替えたい。」
雫の返答に、天使も同意する。
「髪が…ボサボサになってしまっているので…洗って整えたい。」
「そうだな。薄汚いまま領主伯との会議に参加すのは、憚られるな。」
綺麗好きの白帝城も腰を上げる。
「庵の湯殿は、なかなか豪華に誂えておりますのよ?檜の浴槽風呂に、露天風呂風の岩風呂が御座います。
男女別では御座いませんが…湯殿自体が離れておりますから、同時に湯浴みをしても問題は無いと存じますが…」
白夜の言葉に、雫が嬉しそうに頷く。
「日替わりで交代にしよう!」
「では…私達は檜のお風呂を頂きましょうか。」
天使が雫に問い掛けるように言うと
雫は頷いて答えた。
「では、私達は…その露天風呂風とか言う湯殿を拝借させてもらおう。場所は…分かるか?」
白帝城は、白夜では無く九尾へ視線を向けて問い掛ける。
九尾は少し思案顔になって考えていたが、フルフルと首を振った。
「なれば、扇がご案内致しましょう。」
「扇殿。すまない…宜しく頼みます。」
白帝城の礼に、扇さんは笑顔で答えて歩き出す。その後ろをゾロゾロと男性陣が付いていく。
「では、私達も参りましょう。」
白夜が歩きだそうとすると、雫がその裾を掴んで引き留めた。
「マリンは?」
この場に居ないマリンを気にして、雫は白夜を見上げながら、少し不安そうな顔を見せた。
「では、銀朱がマリンさんを呼んできます。先程、台所で女中達と話しているのを見かけたので。お客様なのに、食事の準備を手伝おうとしてましたよ。」
なかなか居間に姿を見せないと思ったら…ラプティスの面倒を見た後で、台所へ直行していたらしい。
マリンらしい…と言えば、らしいんだけど。
「うん、わかった。銀朱さん、マリンを宜しくね。」
雫は素直に銀朱の言葉に頷くと、掴んでいた白夜の裾を手放した。
「それでは参りましょうか。」
白夜は気を取り直して部屋から出て行く。
そうかぁ…皆はお風呂に浸かって、旅の疲れを癒すんだなぁ。
私もね、元居た世界では風呂好きでしたよ?入浴してさっぱりしないと、一日が終わらないって言うか。温泉とか大好きだったしね。
檜風呂とか、露天風呂とか。聞くだけでテンションが爆上がりするワードですよ。
でもね…こっちに来て、猫になってから…入浴の必要性を感じなくなったと言うか。興味が無くなった…みたいな。むしろ…入りたいと思わなくなったようで。
私は、ここで皆の帰りを大人しく待ちますかね〜と、座布団の上に丸くなろうとして居たが…。
くるりと振り返った雫が、ひょいと私を抱き上げた。
「輪さんも洗わないと駄目。」
「そうですわね…私の竜巻のせいで、毛の奥に砂埃が入り込んでしまっていましたわ。」
雫の言葉に、白夜が申し訳なさそうに呟いた。
いや、竜巻って…教会を壊滅させた時のアレだよね?
あれから何日過ぎてると思っているの。毎日欠かさずに白夜はブラッシングしてくれてたし、私だって自分で手入れしてたんだよ!
毛の奥の砂埃なんて…とっくに取れて綺麗になってるからっ!
私は頭の中で喚き立てるが…身体が硬直して、言葉にならずにいた。
要するに…お風呂が怖くて、固まっていたのだ。
入浴?…とんでもないっ!
湯船に浸かるとか…無理無理無理。
猫にとって、お風呂は天敵だからっ!
いや、中には好きな猫も居るよ?そんな動画とか見た事あるけどさ。
私は、違うからっ!!
「ほら、暴れないでっ。駄目だよ、綺麗にしないと。」
雫の腕の中で、逃れようとジタバタと暴れる。が、雫はガッチリと私を抱きしめたまま離そうとしなかった。
クソ…爪を立てる訳にはいかない。
逃れる術は、私には無かった。
「い、い、嫌にゃあぁぁぁぁーっ!」
私の絶叫は、庵に虚しく響き。
ホクホク顔の雫に抱かれ、湯殿に連れて行かれるのだった…。
時には、キャラたちと共に笑い、
時には、共に憤り――
彼らが抱える想いに、どこかで共鳴してもらえたなら。
ゆるやかに、この世界観を満喫して頂けたなら。
それが、私にとって、何よりの幸いです。
――読んでくださって、本当にありがとうございました。




