胎動の刻―侵食の叫び『花守の郷』
世界は、沈黙の奥で胎動する――
芽吹きは命の兆し。
だがその根は、静かに歪みを孕んでいた。
風は優しく、花は揺れ、
それでも確かに、何かが侵されていく。
交錯する想いは、やがて一つの流れとなり――
いま、侵食の夜を迎える。
『花守の郷』
穏やかな風に…ひらり、ひらり、薄紅色の花が舞う。
優しく甘い香りが、異邦人の私達を歓迎するかのように…包み込む。
桜、桃、梅、木蓮、辛夷、花水木。雪柳、山吹、沈丁花。
早春から咲く花木達が、鮮やかな色彩を、競うように…咲き乱れるーー
先を歩く『紅里華』と名乗った花桃の精霊の後ろを、私達は戸惑いながらも追う。
竹林を抜けて、緩やかな坂を登り詰めると…眼に飛び込んで来たのは、そんな風景だった。
「…っ。」
坂の上から見下ろす風景は、桃源郷と呼ぶに相応しい光景だった。
咲き乱れる多種の花木。
ポツン、ポツンと建つ茅葺き屋根の住居。
サラサラと流れる小川の脇には、黄色の菜の花が咲いている。
空の色は何処までも青く。柔らかなそうな霞の雲が、ゆったりと流れている。
「…」
何かを言おうと九尾は口を開くが、言葉にならないようで…そのまま口を閉ざしてしまう。
マリンも九尾も、九尾に抱っこされた私も。ただただ、その風景に魅入られていた。
「どうだい、アタシの郷はっ!絶景だろう?」
紅里華は胸を張り、郷を見つめる。愛おしそうに目を細めて…。
「この郷は、狐…アンタの香月と重なっている。」
紅里華は振り返ると、ジッと九尾を見つめる。花桃の幹と同じ焦げ茶の瞳が、九尾を捉えて離さない。
その瞳に吸い込まれるように…九尾もまた紅里華を見つめ返す。
「香月が緑豊かになれば、この郷も豊かに咲き誇る。精霊達も成長して、香月に実りを約束する力を得る。そうやって…香月とこの郷は、共存して成り立っているんだ。」
先に目を逸らしたのは、紅里華だった。その表情に…僅かな哀憐を浮かべた。
「…だから、アタシは香月を護る。この郷を護る為に…。それが盟約だからね。」
紅里華は静かに眼を伏せる。
「ーー盟約? それは、誰と。」
九尾が尋ねるが、紅里華は答えない。そのまま九尾に背を向けると、スタスタと歩き出してしまった。
九尾は直ぐ後ろに控えるマリンを振り返る。
その表情は「分かるか?」と尋ねているようだ。
マリンは黙って首を振った。
九尾の視線が私に向けられる。私は、その顔を見上げながら、やはり首を振った。
紅里華がいきなり何でこんな話をしたのか…意図が分からない。
樟木じーちゃんの聖域は、じーちゃんの力だけで成り立っていたように思う。何処までも広く、穏やかで。大樹に、苔むした大地。
この『花守の郷』とは全く違う。
香月と共存…?リンクしてるって事なのかな…影響を与え合っているんだ。
ああ、そうか。白夜の庵の梅の花。
あれは、ここの影響を受けて狂い咲きしてるとか?
それに…夾竹桃も『聖域を展開出来る大精霊』とか話していたよな。やっぱり己れの力のみで、聖域は作られている…はず?
この『花守の郷』は普通の聖域とは…違うのかも知れない。
それに…『盟約』と紅里華は口にした。誰と『護る』と盟約を交わしたのだろうか。
紅里華の表情も気になる。
九尾を見て…哀憐を浮かべた。何を哀しんでいる?
何で、九尾を憐れむような眼をして見ていたんだろう?
…訳が分からない。
九尾は、ゆっくりと紅里華の背を追い歩き出す。
緩やかな長い坂を降り、サラサラと流れる小川を横目に、紅里華は進む。
余りにも綺麗で、何処もかしこも花木が咲き乱れてて…どうしてもキョロキョロと見てしまう。
途中で、何度か…ふよふよと浮かぶ弱精霊の光とすれ違ったが…弱精霊達は必ず紅里華の傍で止まる。挨拶をしているようだった。
紅里華はその度に、その光の球を優しく撫でる。幼な子の頭を撫でるように…。
見た目が、とにかく派手だしゴツい…気性も荒そうだけど、実はかなり優しい精霊なのかも。
そう言えば…鴉の姿で現れた時には、夾竹桃の心配をしていたっけなぁ。…などと考えていると、紅里華が振り返り、私をジロリと睨み付けた。
…そうだった。思考が読まれるんだった…気をつけないと、怒鳴られてしまいそうだ。
「ふんっ!」
紅里華は、鼻息荒くそう言うと、またスタスタ歩き出す。
…後で九尾にも注意しておこう…。
暫く歩き続けると、一際大きな屋敷が見えてきた。
屋敷を囲う柵などは無く、そのまま庭へと直行出来る。
その庭に足を踏み入れると、枝垂れ桜の木が緩やかに枝を揺らし…小振りな花が一面を染め上げていた。
「こりゃ…凄いな。」
九尾が枝垂れ桜を見上げて、思わず口にする。
うん…こんな立派な枝垂れ桜、初めて見るかも。樹齢は何年だろう…何百年かも知れない。
「…桜は、今は不在だ。残念だったね。かなりの別嬪だから会わせてやりたかったが…居ないもんは仕方ない。」
枝垂れ桜の程近い場所に、赤い敷物が敷かれている。
上座に用意された長座布団の上に、紅里華はドスンと腰を下ろした。横に置いてある和風テイストの肘置きに肘を掛けて寛ぐ。
細かい細工が施してある煙管盆を引き寄せ、真っ赤な羅宇が印象的な煙管を取り出し、火皿に葉を詰める。
火皿の葉に火も着けず、紅里華は吸い口を咥えた。
「…何、突っ立てんだい。座布団ならそこにあるだろ?勝手に座りな。」
マリンは戸惑いを全く感じさせないまま、端に置いてあった座布団の山から、座布団と手に取ると、敷物の上に一枚、また一枚と並べる。
中央は開け、建物側に三枚。向かい側に三枚。
準備が整うと、九尾は上座に程近い、建物を背にする座布団に腰を下ろす。その後ろに、マリンは座布団を敷かずに控えた。
その様子を黙って見ていた紅里華は身を乗り出すと、煙管の先をマリンに向ける。
「アンタ、本当に、良く躾けられているね。座布団も敷かず、主の背を守り、黙って座する。後から来る奴等の座布団まで用意する。
警戒を怠らず、肝も据わってる!
しかも、別嬪ときたもんだっ!」
ガハハ…と豪華に笑うと、パンッ!と膝を叩く。
「うん、気に入った!狐、良い従者を得たねっ!!アンタ、名前は…確かマリンだったね?此処じゃアンタも客人だ。気負わず、寛ぎな。」
煙管を咥えると、紅里華は満足そうに頷いた。
「心配しなくても、アンタらの仲間は、もう来るよ。竹林をそろそろ抜ける頃合いだ。もうちょい待ちな。」
紅里華は横目で九尾を眺めながら、そう話す。九尾の心の声に返答したのだろう。
九尾は紅里華の言葉に、眼を白黒させている。…注意する間が無かったな。九尾の事だ…きっとコレで気をつけるだろう。
問題は…やっぱり魔剣だろうな。
やらかさなきゃ良いけど…。
そんな事をぼんやり考えていると、何やら屋敷がバタバタと騒がしくなる。
誰かが走ってる?
バタンッ!と勢いよく屋敷の出入り口の木戸が開くと、少年が屋敷内から転び出てきた。手には朱色のデカい番傘を抱えている。
「姐御っ!お帰りなさいやしっ!」叫びながら紅里華に駆け寄る。
「日傘をお持ちしやしたっ!」
朱色の番傘をバッと開くと、紅里華に直射日光が当たらぬよう調整しながら、地面に差した。
「おぅ。ブナ坊…気が効くじゃないか。ありがとよ。」
紅里華が褒めると、ブナ坊と呼ばれた少年は嬉しそうに笑う。
浅黒肌。焦げ茶の短髪に、薄茶の手拭いを鉢巻にしている。
キラキラした黒い瞳は輝いて、褒められた喜びに満ちていた。
ブナの木の精霊か。…まだ若い。弱精霊から、やっと姿を得られるまで成長した…って感じかな?
「それから、客人が増える。茶の用意をしておきな。」
「…茶、ですか?」
「ああ。客人は『ハオルチア』だからね、茶くらい飲むだろうよ。」
「っ!!」
ブナ坊はビックリしたように、座布団に座る九尾を見た。
「わ、わっ!本当だ…スゲェ、ハオルチアだっ!!」
そんなに珍しいのか、ブナ坊が瞳を輝かせながら九尾ににじり寄る。
九尾はたじろぎながら、若干身を引いた。
「は、初めましてっ!オレっち、ブナって申しやす!」
元気に挨拶されて、九尾は戸惑いを隠せない。
「お、おぅ…九尾だ。」
「九尾さんっ!ベヌスタ属ってヤツですね!いや〜綺麗な尻尾ですねっ!初めて見やした…。うわぁぁーっ!感激だなぁ〜っ!」
ニコニコと笑うブナ坊のペースにすっかり飲まれてしまった九尾は、どう対処して良いのか分からないようだ。
「…いい加減におしっ!ブナ坊、茶はっ!!?」
見かねた紅里華の雷が落ちる。その怒声に、ブナ坊は、それこそ跳ね上がるように身体を震わせて、慌てふためく。
「は、はいっ!!」
返事と共に、バタバタと屋敷に駆け戻って行った。
その姿を憮然としながら見送っていた紅里華は、ブナ坊の姿が見えなくなると…深々と溜息を吐いた。
「狐…すまないね。ブナ坊は、弱精霊の頃から聖域を出た事ないんだよ。だから…アンタらに会えたのが嬉しくて仕方ないんだ。ずっと憧れてた存在と話せて、すっかり有頂天になっちまった。」
申し訳なさそうに話す紅里華の眼が優しい光を灯す。
「いや…ちょっとビックリしたが、問題ないだろ。姐御…が詫びる事は無いんじゃないか。」
九尾が苦笑いをする。一瞬、何て呼ぼうか悩んでいたみたいだけど。九尾は『姐御』と呼ぶと決めたらしい。
「そうかい。まぁ、あんな感じだから、ちょいちょい迷惑掛けるかも知れないが…叱ってくれて構わないからね。マリンも。ビシビシ扱いてやっておくれ。」
名前を呼ばれたマリンは、ちょっとだけ目を見開き驚くが…直ぐに平常運転へ戻る。そして、紅里華に頭を下げた。
私は九尾の膝の上に座りながら、そんなやり取りを黙って見ている。
枝垂れ桜の枝が揺れる度に、陽の光が瞬く。その輝きを遮る朱色の番傘。煙管を片手に、肘置きに肘を掛けて寛ぐ紅里華。その風情は、春を独り占めして楽しむ、殿様のようだ…。
なんて…雅なんだろう。
まるで、何かの絵巻物の中に入り込んだみたいな…不思議な感覚を覚えた。
時には、キャラたちと共に笑い、
時には、共に憤り――
彼らが抱える想いに、どこかで共鳴してもらえたなら。
ゆるやかに、この世界観を満喫して頂けたなら。
それが、私にとって、何よりの幸いです。
――読んでくださって、本当にありがとうございました。




