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イオとアオ―横浜ソアラ綜合事務所の謎ファイル  作者: 水城


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エピソード0 「引越し」

(4)



 頼むのは、宅配便の「単身引越しパック」で十分だった。

 寮の部屋は狭く、私物もほとんどない。

 家電製品も、ろくに持っていなかった。


 誰の手を借りることもなく、特に有休を取る必要もなく。

 蒼の荷造りは、さっくりと片付いた。


 蒼の会社は、いわゆる不動産の運用とか設備の管理関係を手掛ける会社だ。

 ビルのフードコートとか、温浴施設とかスポーツ施設の管理とか。

 施設そのものも、いくつか所有しているし、その一環で、建物に不可欠な冷暖房や照明関係のエネルギー事業もやっている。


 手広いことこの上ないのだが、それぞれの部門は子会社化されていて、経営はまあ盤石だった。

 それもあって、いまどきは随分と珍しくなっている、いわゆる「運動部」を持っていた。

 一昔前には隆盛を極めていた「実業団スポーツ」だ。


 蒼の会社にあるのは「水泳部」。

 世界水泳級の選手も、何度か輩出している。なかなかのクラブだった。


 競泳選手として、蒼が頭角を現し始めたのは大学生活も終盤。三年生の夏ごろだった。

 種目は平泳ぎ、二百メートル。


 「水に乗るセンスがある」と評されて。

 大学卒業時には「まだまだ伸びしろがある」と言われていた。

 水泳部員としてスカウトされての「入社」だった。


 「働きながら」アスリートとしてやっていく。

 蒼も、最初は緊張した。

 

 けれど、入社当初は蒼の同期もまだ若く、経験もなかった。だから「水泳部員」の蒼も、彼らと、仕事上なにか大きく「差がついた」ような気がすることもなかった。

 蒼自身、勉強と競技をそれなりに両立しなければならなかった大学の部活と実業団選手としての生活は、それほど変わらないように感じていた。


 ただ――

 一年、二年と時が経つにつれ、蒼はすこしずつ、どこか「中途半端さ」のようなものを感じ始める。

 最近は、独立事務所を立ち上げて企業とのスポンサー契約で活躍する選手も少なくない。


 会社の仕事も「そこそこ」やりつつ、空き時間に練習。

 「会社の社員」としての身分と「アスリート」として上を目指す自分。

 軸足をどう定めていくのか。どちらも半端な気がしていたし、正直、蒼は「小器用に」仕事をこなせるタイプでもなかった。


 それでもタイムは、わずかずつだが伸びてはいたのだ。

 世界大会の選考会へ向けて、蒼自身も指導陣にも「欲」が出てきた。そんな時のことだった。


 実業団の記録会。部の先輩が、試合中に急死した。

 心筋梗塞だった。


 三十代前半。

 競技人生としても「脂の乗りきった」というか……ひょっとしたら、すでに「頂点」は超えていたのかもしれない。だが、まだまだ、誰もそんな風には思っていなかった。そんな選手だった。


 体調管理は万全のはず。

 どうして「そう」なったのか、結局、理由はよく分からなかったらしい。


 飛び込みが抜群に上手い先輩だった。

 

 ――位置について(Take your)用意( marks)


 飛び込み台の上で選手が静止。

 一瞬の静寂。

 「ピン」と、スターター音が弾けた。

 

 種目はフリーの五十メートル。一瞬で勝負が決まる距離。


 その日の飛び込みも、完璧だった。

 真っすぐに伸びた身体が、すうっと水の中を進んで――

 でも。

 ひと掻きもしないまま、ワンビートも打たないまま、先輩の身体が止まる。

 他のコースでは、もうゴール間近の選手もいた。


 その時、オレたちは気づいたんだ。キラキラ光る水面の下、先輩は。

 ――もう。


 その日以来、蒼は飛び込み台に立てなくなった。


 台に指先を掛けた瞬間。

 光を反射する水面を見た瞬間。

 身体が痺れて動かなくなる。心臓が締め上げられるように苦しくなった。


 一度、身体を水に入れてからなら、なんとか泳ぐことはできた。

 けれど、手足はこわばり、まともには泳げない。

 なにより「飛び込めない」のは、競泳選手として、まさに致命傷だった。


 カウンセリングに通ったり、練習を工夫したり。

 蒼もコーチも監督も、努力はした。でも、完治の見通しは全く立たなかった。


 そのうち、水泳部にいること自体が、蒼にとっては耐えがたくなっていく。

 どこかで決断するしかなかった。


 退部の意思を伝えたとき、みなが安堵したのが分かった。

 コーチも監督も、そして部員も――


 引越の前夜。

 蒼は、ひさびさにプールへと足を運んだ。水泳部の練習終了間際を見計らって。


 本当はもう、さらっとフェイドアウトしてしまいたかった。

 でも、世話になった監督やコーチには、やっぱり転勤前にひと言、挨拶とかはすべきだよな……などと考えてしまう。

 

 全然気は進まない。だから。

 せめて、練習終わりのバタバタした時が、一番サラリと終わらせられるだろうと。

 そんな風に思えたのだ。蒼には。

 

 蒼がプールサイドに入ったときには、すでに練習は解散ずみで、部員たちは三々五々、歩み去るところだった。  

 「一堂に会した皆の前で、あらためて『ご挨拶』」なんていうのは避けたかったから、蒼はすこしホッとする。

 屋内プール独特の空気の匂いを嗅ぎながら、目が合った人にだけ、ごく軽く会釈をして、コーチと監督へと歩み寄った。


 横浜に異動になったこと。

 明日寮を出ること。


 そんなことごとを淡々と告げて、

「これまで本当にお世話になりました」と、蒼は深々と一礼をした。


 コーチはアラフォー。昔泳いでいた人で、この部の出身者だった。

 だから水泳部以外の社員に知り合いも多いようで、「そっか、ヨコハマは今、えっと……堂本さんが所長だっけ?」とか、そんな世間話を振ってくれた。

 監督は、少し居心地悪そうにそっぽを向いている。


 コーチの話が途切れたところで、監督が初めて蒼へと視線を向けた。

 

「新井。オマエも、あれだ……もうすこし、メンタル強いと思ってたがな」

 

 蒼の心にチクリと棘が刺さる。

 コーチが、たしなめるような視線を送っていたが、監督は気づいていないようだった。


 監督に悪気がないことくらい、蒼にも分かっていた。


 「メンタルがどうの」だなんて。

 そんなこと、誰よりも自分が一番分かっている。

 オレだって自分のこと、一応「アスリート」の端くれだと思ってたんだ。なのに――


 少しずつ、何かが溜まっていたのかもしれない。

 会社員として、自分がどれほど「仕事」をこなせているかの不安。

 アスリートとしての将来。才能。残された時間。そんなような「何か」が。


「まあ、オマエも、まだまだ若いから。これからいくらでも仕事で挽回できるな」


 ダメ押しのような監督の言葉だった。


 ああ、やっぱり挨拶になんか来るんじゃなかったと。

 蒼は苦い思いを飲み下した。


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