エピソード0 「ソアラ綜合事務所」
(3)
「おや、なに? おふたり、もう知り合いなの?」
とかなんとか。不動産屋もすこしだけは驚いてみせて。
でも、正直にいって「そこまでの興味はない」様子を透けさせながら、
「じゃあ。どうぞあとはご自由に中見てね。終わったら鍵かけて、うちの店まで持ってきてくれればいいから」と、蒼に鍵を押しやった。
実のところ、今回蒼がここを借りようが借りまいが、別に「どうだっていい」というのが、不動産屋の本音なのかもしれない。
店には、大きな収入源がほかにあって。こんな賃貸の一部屋、事務手数料程度のもうけなど、そんなに急ぎもしない……といったところだろうか。
駅近で「家賃も安め」となれば、遅かれ早かれ、誰か決まるに違いないのだ。
もちろん、そんな事情は知るよしもなく、蒼はポカンと不動産屋の背を見送る。
「隣に越してくるの?」
男に話しかけられ、蒼はビクッと振り返る。
ってか、やっぱメチャデカいよな、この人――
背も高いけど、とにかく身体が分厚い。
やたらとしっかり引き締まってるとはいえさ。
ドウェイン・ジョンソンかよって、さっきも思ったけどさ。
雰囲気は全然、アグレッシブさがないんだよなぁ。
なんか、ふんわり系? あったかいっていうか、癒し系?
癒し系ウォーリアー?
で、なんだっけ。行政…書士……だっけか。
そんなことを思いながら返事も忘れて、蒼はボンヤリ男を見上げる。
タトゥーの男は、首を傾げて蒼を見下ろした。
それは明らかに「ちょっと困ったなあ」という表情だったから、蒼は慌てて、
「いえ、あ、あの、えっと。引っ越すか……は、まだ決めてなくて」と答える。
「そうなんだね」と言い、男が歩き出した。
手には空のペットボトルが詰まったビニール袋。
あ、ゴミ出しか……と、蒼が察したところで、
「ゴミ置き場に行くけど、一緒に行きますか?」と声を掛けてくれた。
ひどく感じのいい言い方だったから、蒼も思わず頷いて後を追う。
ゴミ置き場は、一階の駐車場奥にあった。
簡単な柵で囲まれていて施錠してある。部外者が捨てに来ることも出来なさそうだ。
それに、時間を気にせずゴミを出してもよさそうだった。
ゴミ出しが便利っていうのは、悪くないよな。
ずっと気持ちが浮ついていた蒼だったが、ちょっとだけ、冷静さを取り戻す。
ふたりは、そのまま階段で三階へと上がった。
「あの……」
この際とばかりに、蒼は男に話しかけてみる。
「隣の、あの部屋……なんか『いわく』とかあったりします」
「いわく?」
ごく穏やかに男が聞き返す。
臨海パークの時とは違い、今は黒いタートルネックのシャツを着ていた。
少し腕まくりしていて、手首までビッシリと彫られた「あのタトゥー」がチラリと見える。
「つまり、えっと…その、例えば、事故物件…とか」
ああ、なるほど、と男が頷いた。
「そんなことはないと思う。前の人、普通に引っ越していったし。『告知事項あり』って物件詳細に書いてあったの?」
「いや、えっと……」
わかんないけど、たぶん。「無かったと思いますけど」
だったら大丈夫だね、と。
男がちいさく笑んだ。
「いまどき不動産屋さんも、そんな事をごまかしたりしないよ。すぐネットで評判広がっちゃうから」
初対面とはいえ……ごっついタトゥー持ちとはいえ。
なんだか話しやすい。
そう感じた。だから蒼は、つい勢いづいて、
「前いた人って社会人でしたか?」とか「男性ですか、女性ですか」とか。
「周辺環境って……ぶっちゃけどうなんですか」とか。
「そちらの事務所は、住居兼用なんですか」とか、続けざまに訊ねてしまう。
そうこうするうち、部屋へとたどり着く。
タトゥーの男は事務所のドアを開けながら、
「立ち話もなんだから、入りますか?」と、蒼を手招いた。
*
「事務所」だよな。お客さんとか、今いないのかな。平気なのかな。
などと思いつつも、蒼は誘われるがまま「おじゃま…します」と上がり込む。
割と古い感じの、スチールの事務机がふたつ。
壁際に本棚。ファイルみたいに分厚い紐綴りになった本が何冊か並んでいた。
表通りに面した腰高窓には、事務所の名前が看板代わりに貼ってある。
ただ、表記が英語……というかローマ字? なのが、蒼にはちょっと不思議な気がした。
「お茶でも飲むかい?」
ごく気さくに訊ねられ、蒼は、
「あ、いえ。大丈夫です。飲むもの持ってますし」
と、海辺で買ったジャスミンティーのぬるいペットボトルを、ポケットから出して見せる。
「そう?」
男がまた微笑んだ。
「僕はコーヒー飲みたいから淹れるけど、欲しかったら言って」
そして、コーヒーマシンをセットしながら、
「どうぞ、そこに掛けて」と、黒い合皮のソファーセットを指し示した。
ふわふわ、香ばしいコーヒーの匂いが漂ってくる。
気づけば、蒼の前にはコーヒーカップが置かれていた。
「欲しい」なんてひと言も言わなかったのに。
そして、蒼はとっくに「飲みたい」気持ちになっていた。
蒼は、淹れたてのコーヒーにくちびるを浸す。
すると男がおもむろに、名刺を一枚、蒼へと滑らせた。
「ソアラ綜合事務所 司法書士・行政書士 五百蔵 悠」
あ、これ「難読苗字」ってヤツだ。
蒼は手にした名刺をひっくり返してみる。すると、裏面には英語表記で「You IOROI」とあった。
「いお、ろい、ゆう」
思わず、蒼は口に出す。
「はい、五百蔵です」
癒し系ドウェイン・ジョンソン。すなわちタトゥーの男が、蒼のひとり言へ律儀に返事をくれた。
「オレは……新井って言います」
たしか名刺入れ、持ってきてたはず――
蒼はスリングショルダーをまさぐって、名刺入れを取り出した。
差し出された名刺を両手で受け取って、五百蔵は静かに目線を落とす。そして、
「あらいあお、くんかぁ」と口ずさむと、
「なんだか『先陣切ってる』って感じの名前だね」と呟いた。
――先陣、切ってる?
「イニシャル。どっちも『A』だから」と言って、また微笑んだ。
なんとも応じようもなく、蒼は目をしばたたかせる。
「ああそうだ、僕、色々訊かれていたっけ。『前の人』……うん、男の人だったね。たぶん会社員かな。平日の日中はほとんど見かけなかったから。あと、なんだっけ」
コーヒーをひと口飲み下し、五百蔵が続ける。
「周辺…環境って言ったかな? まあ『上品な住宅地』かといえば、それは違うよね。でも大通り沿いは言ってしまえば何の変哲もない、どこにでもある駅前だと思うし。蒼くんも会社員だったら、平日はほとんど、この町にいないだろうから」
「あ……すいません。五百蔵さん、オレ」
仮にも、ここに事務所を構えている人に対して、「良くない場所なんじゃ」って言わんばかりだったよな。失礼だった。良く知りもしない人に向かってさ。
「めちゃくちゃ礼儀がなかったです。ほんと、ごめんなさい」
「え? そんなことはないよ」
五百蔵が目を丸くした。「謝らないで、蒼くん」
「これから住もうって場所なんだから、慎重になって当たり前だ」
……ってか、あれ?
なんかさっきから、この人から、さらっと「蒼くん」呼びされてる……のか、オレ?
「このマンション自体はね、別に特に何もないと思うよ。管理状況も悪くないし、そこは心配ない」
そう言って、五百蔵は、
「隣の部屋の方、見てくるかい?」と、ソファーテーブルの上の鍵に視線を向けた。
「あ、はい。そうしてきます」
蒼は立ち上がる。
コーヒーも、ちょうど飲み終わっていた。
玄関へと歩いていく蒼を、五百蔵が立ち上がって見送る。
「写真を……」「はい?」
蒼が振り返る。
「写真、撮っておくといいいよ。めだつ傷とか汚れがあったら」
退去時にも役に立つしね……と付け足し、五百蔵が続ける。
「設備に不具合があるようだったら、入居前に言って直してもらわないと。それも写真があるといい」
「はい、ありがとうございます、五百蔵さん」
「『イオ』でいいよ。お客さんはみんな『イオさん』って呼ぶから」
お客さんが――?
「イオさん」って呼ぶ?
「うん。イオロイって、言いにくいからね」
えっと。「めずらしい」とは思うけどさ、そこまで「言いにくい」かな、イオロイって。
なんとなく腑に落ちない点がなくもなかったが、とりあえず蒼は、
「コーヒー、ごちそうさまでした。おいしかったです」
と、ぴょっこり一礼をして、「ソアラ綜合事務所」を後にした。




