エピソード0 「アオの事情」
(2)
タトゥーだらけの「ごつい」ヒーローは、早々に舞台を退場していった。
救われた「姫君」……と犬も、どこかへ運ばれていき、海辺のプロムナードは、ごくあっさり元の凪いだ景色に戻る。
そこで蒼も、
「とにかく、今日は家を決めなきゃ」と、本来の目的を思い出した。
スマホを取り出し、このところ連日閲覧している物件検索サイトを開く。
会社の最寄り駅と同じ沿線。市営地下鉄の……できるだけ駅近で。
バストイレはできれば別がいいし。
で、家賃は5万円までって感じの条件だと――
ひっかかるのは、怖ろしく築古の物件ばかり。
でもその中で、毎回必ずヒットする築十年ほどのマンションがひとつあった。
「まあ、とりあえず、ここ一択……だよな」
蒼は腹をくくった。
となれば、サイト経由の内見申し込みもまだろこしい。
最寄り駅の不動産屋で聞いてみれば、意外と話は早い――とか。
そんなネットで見知った断片知識を引っ張り出して、行き当たりばったりに地下鉄ブルーラインの駅へ向かって歩き出した。
地下鉄に乗って三駅目。正味五分と掛からず、目当ての駅に着く。
蒼はそのまま、駅裏の不動産屋に飛び込んでみた。
果たして、それはなかなかの名案だったようで、
「ああ、そこね……うちの管理物件ですよ。内見します?」
と、六十代とおぼしき店主が即答してくれた。
店主はサクサクと鍵束を取り出してきて、上着を着こみ始める。
出されたお茶を飲む暇もなかった。
「社会人で独身なら、忙しいでしょ。この辺は便利な場所ですよ」
カッターシャツにネクタイ。
フリースジャケットにサンダル履きでのんびり歩きながら、不動産屋が道々に話し出す。
「そら、TSU●AYAとかもあるし。食べ物屋も色々ありますよ」
たしかにそう聞けば、かなりの穴場なのかも。いいトコ見つけたのか、オレ。
「それで、地下鉄の駅からは徒歩4分だしね」
まあ、それは。ちょっと「切り悪い数字」って気もするけど。
「JRとか京急の駅までも、ぜんぜん歩けますよ。あと、そうそう。駅向こうには『浜前商店街』っていうおっきなアーケードもあってね。お惣菜とか便利だし。大きい病院もあるから」
へぇ、商店街か。
なんかちょっと「そそられる」響きだよな。「アーケード」って。
蒼はスマホを取り出し、今聞いたばかりの商店街の名前を検索してみる。
――え?
「『元』遊郭……?」
思わず声が出る。
「ああ、それねぇ」
不動産がすぐに反応した。
「もう何十年も前のことですよ。今はもう、なにもないない。まあ、あっちのね、山側の川向うには……まだちょっと、色々ありますけど。最近は警察も行政も厳しいですから。再開発だなんだの計画もありますし」
って、さらに検索してみたら……いやいや、出てくる出てくる。
あ、オレそういえば、この駅周辺とか、ちゃんとGoogleマップとか見たりしてなかったし。
「え、その先の……路地裏。『風俗ストリート』とかって」
なに、え、ヤクザの事務所? そんなんあるのかよ、近所に。
不動産屋が振り向いて、ちょっと困ったような、ちょっと面倒くさそうな笑顔を見せる。
「いやいや、大丈夫よ。別に危ないことは何もないから。って、あなたもさ。一人暮らし始めたばかりの女子大生ってワケじゃないでしょ」と、宥め口調で言ってから、
「そんな、水泳選手みたいに立派な体格して……」
などと、蒼の身体を眺めまわしてから付け足す。
「ほら、ここですよ」
不動産屋が、マンションのオートロックを鍵で開けた。
蒼たちは、建物の中へと入っていく。
ホールには、各部屋用の郵便ボックスがあって。それが若干、古臭い感じはするものの、まあ別に。
普通の――キレイでも汚くもないマンションだった。
清々しいってほどでもないが、特段イヤな感じもない共用部分。
うん。物件は、部屋だけじゃなく「そういう点」が重要だって、あちこちに書いてあったし。
というか、大学も社会人も寮暮らしだったから。
「一人暮らし始めたばかり」なんてのも「当たらずとも遠からず」だったりする。いい歳して恥ずかしいけど。
エレベーターで三階まで上がる。
廊下を歩きながら、不動産屋がふたたび口を開いた。
「お隣の角部屋にはね、立派な事務所さんが入ってますから。なにも心配ないですって」
事務所――
ヤクザの事務所……とかじゃないよな。
っていうか、ここ「事務所可」物件なのかよ。
エアビーとか民泊とかしてる部屋、あったりして。そういうのって「モメる」とかニュースで聞くけど。
蒼の頭の中を、ネットで見知っただけの知識がグルグルと回り始めた。
気分も相当に落ち込んでくる。
もう、色々と面倒になってきたところで、不動産屋が立ち止まった。
そして、隣の部屋の表札を「ほら」と指さす。
――司法書士・行政書士 ソアラ綜合事務所
「ね、ちゃんとした『代書屋』さん。うちも一回、世話になったことあるし」
うん、ヤクザとか……ではなかった。よかった。
ちょっとビビりすぎか? オレ。
気を取り直そうと、蒼が背筋をしゃんと伸ばしたとき、事務所のドアが開いた。
大きな人影が姿をあらわす――
「あ」
蒼の口が丸く開いた。
出てきた男は、一瞬、小首をかしげて見せたが、すぐにゆっくり瞬いて、
「おや。さっきの、臨海パークの」と、低く穏やかな声で頷いた。




