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イオとアオ―横浜ソアラ綜合事務所の謎ファイル  作者: 水城


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エピソード0 「臨海パークにて」

1stエピソード「声なき紙片」の前日譚

(1)




「なんでこんな、犬ばっか……」


 新井蒼(あらいあお)が呟いた。


 せっかくだから「海でも見よう」と思ったのだ。

 しかし、みなとみらい地区の港に沿って続くプロムナードは、なぜだか「犬」「イヌ」「いぬ」のワンワンオンパレードだった。


 何匹もの小型犬を詰め込んだカートを押す飼い主たち。

 大型犬のリードを両手にそれぞれ握りしめ、のしのしと闊歩する人もいる。


 どうやらここは、休みの日には「犬の散歩スポット」と化すようだ。

 周囲には高層マンションが林立しているが、漏れ聞こえてくる会話から察するに、わざわざ車に乗って、ここまで出向いている人たちも少なくない様子。


「そりゃそうだろうな、だってさ」

 蒼は、ひとつ溜息をつく。


 ――この辺のマンションなんか、家賃「べらぼう」だろ?


 今度の四月から、蒼は横浜に転勤になった。

 入社後、ずっと池袋の本社に勤めていた蒼は、職場近くの社員寮に住んでいた。

 そこに今回の異動。

 とうとう寮を出ざるをえないこととなり、急遽、住む場所を探すはめになっていた。


 ――とはいえ。

 駅近で、「ヨコハマ」ってムードが多少はあるような場所……の家賃ときたら。

 まるで土地勘のなかった蒼は、びっくり仰天だった。

 そもそも、出身は徳島。

 大学進学で上京してからずっと、池袋界隈しか知らなかったというのもある。


 そんなこんなで、すっかり調子が狂い、なかなか引越し先を見つけることができぬまま、退寮の日だけが、刻一刻と迫っていた。


 今日こそはどこかに……と。

 決意を込めて横浜までやってきたものの、おおよそどのあたりの駅や地域で探そうか……ということすら、いまだピンとこないまま、「まあ、海でも見とくかな」という感じで、みなとみらい駅で電車を降りたのだった。


 浅い春の潮風は、まだまだ肌寒い。

 蒼は、マウンテンパーカーのファスナーを首まで上げた。


「まあ、イヌは好きだからいいんだけどさ」


 とはいっても、限度ってものがある。

 飼い主たちの喋り声に犬の鳴き声。

 なにせ「芋の子」ならぬ「犬の子」を洗うような混雑ぶりなのだ。


 蒼は「人込み」と「犬込み」を避けるようにして、少し先へと歩いていく。


 ゆるやかにカーブする長い水際線に沿って、海を囲む客席のように、なだらかに下る階段が作られていた。それはずっとずっと先の方まで続いている。


 ポツンポツンと、いい感じに間をあけて、そこに腰かける人たち。

 それぞれに思い思いに過ごしているようだ。


 読書する人もいる。

 岸壁との境の柵にもたれ、釣竿を垂らす人もいた。

 一方で「目の前に横浜港」という、「ザ・横浜」な絶景を前に、スマートフォンをガン観してる人も多い。


 蒼は手近の自販機で、温かいジャスミンティーを買った。

 溜息をついて、海から一番遠い段に腰かける。


 空は高く、空気は乾いていた。


 ぼんやりと海を眺めやる。

 風力発電所の風車、大さん橋の客船、白い橋。


 蒼は、ペットボトルを開けて口をつけた。

 すると、ほよんほよん……と、どこからともなく、柔らかく震えるような不思議な音が聞こえてくる。


「何、この音……楽器?」


 蒼はジャスミンティーの蓋を締めて立ち上がる。

 不思議な音の出所を探して、少し段を下りてみた。


 視界の左側。一番下の海に近い段。

 男性が座っている。


 印象的なのは、その背筋だった。

 まっすぐなのびやかさ。 

 すこし襟足が長めの黒髪は、うなじでキュッと一つ縛りにされている。

 白いシャツの襟が、柔らかそうなシープスキンのジャケットからのぞいていた。


 その男性は、膝に乗せた「黒い何か」を指の腹でリズミカルに弾いている。


「なにあれ、中華……鍋?」

 ――に見えた。


 男性は、UFOみたいな物体を、十本の指の腹を使って、かろやかにタップしたりこすったりしている。

 蒼が耳にしている不思議な音は、どうやら、その楽器のものらしい。


 さほど大きな音でもないのに、風に乗って、ずっとずっと遠くまで運ばれていく旋律。

 あまりにもキレイな音色すぎて、ズカズカと無神経に近づいていくのはためらわれた。


 蒼は、その男性をすこし離れた場所から眺めながら、寄せては返す波のような、なんだか物悲しくもある、やわらかい音に耳を傾ける。

 すると「みんなぁ、ほら海ですよぉ、大きいですねぇ」という、ちょっとはしゃいだ大声が割り込んできた。


 思わず振り返る。

 それは数匹の小型犬を乗せたカートを押している中年女性の声だった。ちょうど、海との柵ギリギリのところを歩いている。


 カートに乗っているのは……トイプードルかなんかだろう。

 薄茶のモコモコしたものが見えた。


 カートの端に前足を置いて、ぐんと身を乗り出すヤツもいれば、くるりと丸まっているのもいる。


 身を乗り出している犬の服がめくれ上がっているのに、飼い主が気づいた。女性は無理な姿勢で腕を伸ばす。

 すると、その指先が滑り、トイプードルがポロリとカートからこぼれた。


 そしてそのまま、茶色の毛玉は柵を越えて海に落ちる――

 ――が、水音は聞こえない。


「きゃゃぁああああ!」

 金切声の叫び。


「クッキーちゃんが、くっきーちゃんがあああぁ」と。

 水面へと身を乗り出して叫ぶ飼い主も、続けて海に落ちた。

 今度はしっかり、派手な音がする。


 蒼は反射的に駆け寄った。


 泳げないのかパニクってるのか、女性は完全に溺れかけている。

 「クッキーちゃん」の姿は――見えない。


 あ、これ、ヤバいよな――


 蒼は海へ飛び込もうと靴を踏み脱いだ。そして、柵に手を掛ける。

 左足を上げて柵を越えようと、あらためて水面を見た瞬間、心臓がバクッと大きく打った。


 息が詰まる。

 身体が固まって、まるきり動かなくなった。


 ちくっしょう――


 助けなければ、と思った。いますぐに。

 だが脚が動かない。あの日の記憶が――


 記録会の五十メートルプール。

 飛び込み台の上、スターターピストルが鳴った瞬間に身体が動かなくなった―― 

 あの真っ白な痺れが――体と脳裏に、ガッとよぎる。


 すると、蒼の脇をなにか大きな影のようなものが、音もなくすり抜けていった。

 誰かが、キレイに水面へと飛び込む。


 蒼の目の前に、男物の革の上着が脱ぎ捨てられていた。

 それを拾い上げ、蒼は野次馬たちと一緒に海を覗き込む。


 あまり見慣れない泳法だった。立ち泳ぎに近い。

 その男は、溺れ暴れる女性の背後から、悠々と距離を詰めていく。


 溺れかけている人を、泳ぎながら助けるのは自殺行為と言われる。

 しがみつかれて、救助者の方も溺れかねないからだ。


 だが、男はまるで魔法みたいに女性を、ひょいと肩に担ぎ上げた。

 そして、いつの間にか、片手にはトイプードルを載せている。


 気づけば、男は女性と犬と一緒に、岸壁に戻ってきていた。


 周囲の人間が、わらわらと男と飼い主の女性へ手を伸ばす。

「消防と救急車呼びましたからね」の声。


 女性が、プロムナードまで引き上げられた。

 意識とかはハッキリしていそうだった。水もそれほど飲まなかったのだろう。クッキーちゃんは、濡れそぼって小さな体をさらに小さくし、プルプルと震えていた。

 カートの上では、仲間のトイプードルが、ワンワン大合唱中だ。


 海から上がった男を目の当たりにして、蒼は驚く。


 音もなく軽やかに蒼の横をすり抜け、吸い込まれるように海へと飛び込んでいった様子からは考えもつかないほど、その男は――


「でっか……」


 本当に大きかったのだ。

 背が高い、と言えばそうだ。

 身長が百八十センチ近い蒼と比べても、ずっと背が高かった。

 だが、単にそんな話ではなくて。


 肩幅、身体の「厚み」が半端ない。

 日焼けなのか、わずかに浅黒い肌。


「え、なに……ドウェイン・ジョンソンかよ」


 けれども、その男には「屈強」とか、そんな言葉はピンとこない気がした。気迫とか殺気とか、そんなモノとはまるで無縁そうな。

 男が醸し出す佇まいは、むしろ「穏やか」ですらあった。


 助けられた中年女性が、必死に浴びせかけてくる礼の言葉。

 それを静かにかわすようにして、大男が蒼を振り向く。

 蒼は慌てて、手にしていた上着を差し出した。


「……ありがとう。預かっててくれたんだね」


 海水に濡れた白いシャツが、男の肌に貼りついていた。

 その下に、複雑な模様が浮かび上がっている。

 肩から胸元。

 そして前腕部も、手首まで埋め尽くすように。


 ――え? タトゥーかよ……これって。


 だがそれは、蒼の知っている、いわゆる「入れ墨」とは全然違っていた。


 墨一色。太い線、細い線。波模様。

 肌の上をびっしりと埋め尽くすような、曲線と直線の幾何学的な連なり。


 しかし、すごいな、これ――


 ただの「こけおどし」や「ファッション」ではない。

 そんな風に、蒼は感じた。


 第一、これだけ大量に「彫る」ってさ。どれだけ時間かかるんだよ――


 それが何を意味するのかとか、なんていう文様なのかとかは分からない。

 圧倒されたし、少し怖くもあった。

 しいて言葉を探すなら、記憶のような、祈りのような、そんななにか。


 ぶしつけとは思いつつ、蒼は男の肌から視線をそらすことができなかった。

 しかし、蒼の目の前に佇む男は、何を気にする様子もなく、ただ静かに濡れたシャツの裾を絞っている。


 ほんの一瞬、男の視線がこちらをかすめたような気がした。

 それが偶然だったのか、蒼の凝視に気づいていながらあえて何も言わなかったのかは分からない。


 そして、上着を羽織ると男は、

「それじゃ」と低く告げ、蒼に背を向けた。

 少し歩いて、階段の上に置かれた黒っぽい丸い物をひょいと抱えると、人並みの中に消えていく。


「……あ」


 そうだよ。さっきの、あの楽器。

 あの変な音する「中華鍋」鳴らしてた人だ――あの人。


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