女性の旅は大変です
ディートムに向けて出発してから、およそ二時間。
馬車に揺られ続けていた私たちは、道の脇に大きな岩がぽつんとあるだけの、開けた場所で一度休憩を取ることになった。
馬車から降りて大きく背伸びをすると、凝り固まっていた体が少しだけほぐれる。
「うーん……!」
けれど、ほっとしたのも束の間だった。
じりじりとした日差しが、容赦なく頭上から照りつけてくる。
今日は風もほとんどなく、辺りには生ぬるい空気がこもっていた。
馬車から降りても、涼しさはほとんど感じられない。
「ふぅ、結構暑いね」
額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、私は父と母の元へ向かった。
ガウルと父は、それぞれ自分が御者を務めていた馬車の状態を確認しており、クライスは少し離れた場所から周囲を警戒している。
母はどこにいるのだろうと辺りを見回すと、大きな岩に背中を預けるようにして座り込み、力なく俯いていた。
(あれ……?)
なんだか様子がおかしい。
顔色が悪く、額にはじっとりと汗が浮かんでいる。
私は慌てて母の元へ駆け寄った。
「ママ、大丈夫?」
声をかけると、母はゆっくりと顔を上げた。
「ええ、大丈夫よ」
そう答えながら笑顔を作ったけれど、その表情には明らかに無理がある。
「本当に? 顔色が悪いよ」
「ちょっとめまいがしただけなの。ずっと馬車に乗っていたからかしら」
「乗り物酔いかな……?」
私は首を傾げながら水筒とコップを取り出し、水を注いで母に差し出した。
中の水は、馬車の中で少し生ぬるくなっていた。
「はい、お水。少し飲んだ方がいいよ」
母の前に差し出すと、なぜか母は困ったような顔をして、ふるふると首を横に振った。
「ありがとう。でも、いらないわ」
「えっ? でも、体調が悪いなら水分を取らないと……」
「本当に大丈夫だから」
母はそう言って、私が差し出したコップをそっと押し返した。
こんなに暑いのに、水を飲みたくないなんておかしい。
馬車の中にいたとはいえ、窓から入る日差しは強かった。母の肌は汗ばんでいるし、唇も少し乾いているように見える。
(このまま水分を取らなかったら、本当に倒れちゃうんじゃ……)
心配になった私は、もう一度コップを差し出した。
「一口だけでも飲もう? ママが倒れたら、セリア悲しいよ」
「ごめんなさい。でも、今はいいの」
母はやはり頑なに首を横に振った。
どうしてそこまで飲みたくないのだろう。
私が困惑していると、脳内にナビの冷静な声が響いた。
≪セリア様、お母様には軽度の熱中症と思われる症状が出ています≫
(えっ!?)
思わず母の顔を見つめる。
ナビがそう判断するということは、ただの馬車酔いではない可能性が高い。
≪発汗、めまい、顔色の悪さが確認できます。加えて、朝から水分や食事を控えていたのであれば、脱水も進んでいる可能性があります≫
『じゃあ、早くお水を飲んでもらわないと! でも、どうして飲んでくれないの?』
私が焦っていると、今度はルクが呆れたような声で口を挟んだ。
『ああ、女性は長時間の馬車移動になると、水分を取らんようにすることが多いんや』
『え? どうして?』
『外でトイレするんが嫌やからや。街道沿いに、いつでも都合よく隠れられる場所があるとは限らんやろ? もしかしたら、ママさんもそれやないか?』
その言葉に、私はハッとした。
そうだ。
私自身、外でのトイレ問題がどうしても嫌で、前世の知識を総動員し、必死に魔法で個室トイレを作り出したではないか。
私はまだ体が小さいから、運良く身を隠せる場所も多く、結局魔法は使わずに何とかなったのだ。
しかし、ここは見渡す限りの開けた場所で、人目を遮れそうなものは道の脇にある大きな岩くらいしかない。
その岩は男性の背丈よりも大きいけれど、正面から隠れられるだけで、少し横へ回り込めば簡単に姿が見えてしまう。
大人の女性が安心して身を隠すには、心許なかった。
しかも、近くには父だけでなく、ガウルやクライスもいる。
岩一枚を隔てただけの場所で、大人の女性が用を足すなんて、絶対に嫌に決まっている。
(ママ、我慢してたんだ……)
もしかしたら、朝から水分だけでなく食事まで控えていたのかもしれない。
母がそこまで気にしていたことに、気づいてあげられなかった。
私は母に悟られないよう、すぐさま周囲へ意識を広げた。
(サーチ!)
半径五十メートルほどを意識して周囲を探る。
道の先には、先ほどすれ違った馬車が遠ざかっていく気配がある。
それ以外に、人間らしき反応はない。
魔物の気配も近くにはなかった。
私は急いで父の元へ駆け寄ると、その服の袖をちょいちょいと引っ張った。
「パパ」
「どうした、セリア?」
父がしゃがみ込み、私と目線を合わせてくれる。
私は向こうに座ったままの母に聞こえないよう、できるだけ小さな声でお願いした。
「あそこの岩の後ろで魔法を使うから、もし人が近づいてきたら教えてほしいの」
「魔法? なぜ、こんなところで?」
父は不思議そうに眉を寄せた。
どう説明しようか迷ったけれど、ここは私がトイレに行きたいことにしてしまえばいい。
「セリアはレディだから、ちょっとおトイレに行ってくるね。人目につきたくないから、少し魔法を使うの。ママにも一緒に来てもらうね」
私の言葉を聞いた父は、一瞬だけ目を見開いた。
けれど、すぐに何かを察したように、母の方へ視線を向ける。
岩にもたれかかったままの母を見て、父の顔から笑みが消えた。
「……わかった。周囲はしっかり警戒しておく。安心して行ってきなさい」
「うん、ありがとう」
父なら、ガウルやクライスにも、こちらへ近づかないよう上手く伝えてくれるだろう。
私は母の元へ戻ると、その手をそっと握った。
「ママ、きついと思うけど……ちょっとあの岩の裏側まで一緒に来てくれる?」
「岩の裏側?」
「うん。ママにしかお願いできないことなの」
私はわざともじもじしながら、少し恥ずかしそうな顔を作った。
母は私がトイレに行きたいのだと勘違いしてくれたようだ。
体調が悪そうなのに、すぐに優しい笑みを浮かべてくれる。
「もちろんよ。一緒に行きましょう」
「無理しないでね。ゆっくりでいいから」
「ええ」
母は岩に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。
足元が少しふらついたのを見て、私は慌ててその腕を支える。
私の体では支えになっているか少し怪しいけれど、母は嬉しそうに私の手を握り返してくれた。
大きな岩の裏側へ回り込み、父たちのいる場所からは見えない位置まで移動する。
母は周囲を見回すと、心配そうに私へ声をかけた。
「あまり遠くへ行っては駄目よ。この辺りには魔物が出る可能性もあるのだから」
「うん、ここで大丈夫」
「ここで?」
母が不思議そうに首を傾げる。
私は一度深呼吸すると、はっきりと魔法名を唱えた。
「レスト・トワレ!」
地面から、ズズズッ、と一気に土がせり上がり、わずか数秒で個室トイレが姿を現した。
母は口を開けたまま、その場で固まってしまった。
「セリア……これは?」
「トイレだよ」
「トイレ?」
「うん。これなら、お外でも安心でしょ?」
私は得意げに胸を張ると、扉を開けて母に中を見せた。
「まぁ……!」
母が驚くのも無理はない。
中は隅々まで磨き上げられたように美しく、思わず見惚れてしまうほどだった。
時間をかけて、細部まで何度もイメージを練り上げた甲斐があったというものだ。
「中もこんなに綺麗なのね。宿にあるものより、ずっと立派だわ」
「えへへ。頑張って作ったの」
「こんなものまで魔法で作れるなんて……」
母は何度も瞬きをしながら、トイレの中を見回している。
「これは簡易トイレだから、使い終わったら崩しちゃうけどね」
「そうなの? なんだかもったいないわね」
「またいつでも作れるから大丈夫だよ」
私は笑顔を浮かべてから、母の手を両手で包み込んだ。
「だから、ママ……お水をちゃんと飲んで?」
母の顔から、驚きの表情が消えた。
「セリア……」
「おトイレを我慢したくないから、お水も飲まなかったんでしょ?」
母は何も言わなかった。
けれど、その沈黙が答えだった。
「こんなに暑いのに、お水を飲まなかったら倒れちゃうよ。もうめまいもしてるんでしょ?」
「……気が付いていたのね」
「うん。顔色も悪いし、すごく辛そうだったから」
私が泣きそうな顔で訴えると、母は申し訳なさそうに目を伏せた。
「セリアにまで心配をかけるなんて……私、母親失格ね」
「そんなことない!」
私は思わず大きな声を出した。
「女性なら、誰だって外でするのは嫌だよ。それに、周りに男の人がいたら、もっと嫌だと思う。危ないことだってあるかもしれないし……」
母が困っていたのは、決してわがままではない。
私だって、魔法でトイレを作れなかったら、できるだけ水分を控えようと考えたかもしれない。
「だから、ママは悪くないよ。でも、我慢して倒れちゃったら、セリアもパパもすごく悲しいよ」
「……そうね」
「これからは、セリアがトイレを作るから大丈夫。いつでも作れるよ。だから、ちゃんと飲み物も飲んで、ご飯も食べてね」
母はしばらく私を見つめたあと、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう、セリア」
母は私が持っていたコップを受け取ると、ようやく水を口に含んだ。
最初は少しずつ飲んでいたが、やがて乾いていた喉が水を求めたのか、何度も喉を鳴らしながら飲み始めた。
コップから口を離した母は、ほっと息を吐いた。
「おいしい……」
「よかった」
水を飲めたことに安心しつつ、私はもう一つ気になっていたことを尋ねた。
「もしかして、朝ご飯もあんまり食べてない?」
「……ごめんなさい」
母は申し訳なさそうに眉を下げた。
やっぱりだ。
朝食を食べれば喉が渇く。
だから、水分だけでなく食事まで控えていたのだろう。
「ごめんなさいじゃないよ。あとで、ちゃんと食べようね」
「ええ」
「まずはおトイレに行こう? 我慢しなくて大丈夫だから」
「それは……」
母は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「一回入ってみて。すごく綺麗でしょ?」
「ええ。ありがとう」
母は少し照れたように微笑むと、トイレの中へ入っていった。
パタンと扉が閉まる。
私はその扉の前に立ちながら、これからの対策を考えた。
朝食もほとんど取らず、朝から水分まで控えていたのなら、お腹に優しいものを少しでも食べてもらった方がいい。
アイテムボックスには、作り置きの味噌汁がある。
温かい汁物なら、今の母でも口にしやすいはずだ。
それに、父と母はまだ、私が作った地球の料理を食べたことがない。
(お味噌汁、気に入ってくれるかな……)
少し緊張するけれど、今は母の体調の方が大切だ。
『ナビ、ルク、教えてくれてありがとう。ママが倒れる前でよかった』
≪とんでもございません。セリア様がすぐに異変に気付かれたからこそです≫
『ほんまやで。倒れる前に気付けてよかったな。女性の旅は色々大変や』
『ルクも、すぐに気付いてくれてありがとう』
『ええって、ええって。ワイは聖獣様やからな』
得意げな声が聞こえてきたけれど、今は素直に感謝しておこう。
しばらくすると、トイレの扉が開いた。
出てきた母は、先ほどより少しだけ表情が和らいでいる。
まだ顔色は完全には戻っていないけれど、先ほどまでの張り詰めた様子はなくなっていた。
「ママ、少し楽になった?」
「ええ。ありがとう」
「よかった」
私は母ににっこり笑うと、個室トイレへ向き直った。
作り出した時とは逆に、土へ戻っていく様子を強くイメージしながら魔力を流す。
「えいっ!」
私の掛け声とともに、先ほどまでそこにあった個室トイレが、上からさらさらと崩れていく。
壁も扉も洗面台も、すべて細かな砂のようになり、最後には元の地面へと戻っていった。
「なんや、『えいっ!』って。作る時は魔法名があったのに、消す時は随分雑やな」
ルクの的確なツッコミに、私は苦笑いを浮かべた。
「消す時の魔法名は考えてなかったんだもん……」
「ほな、『トワレ・サヨナラ』とかどうや?」
「そんな恥ずかしいの……絶対に嫌」
私がルクの提案を即座に却下している横で、母はトイレが消えた場所を、信じられないというようにじっと見つめていた。
「本当に、何も残らないのね」
「うん。元の土に戻るから、片付けも簡単だよ」
「セリアの魔法は、本当に便利なのね」
「えへへ」
便利と言ってもらえて嬉しいけれど、トイレ魔法を自慢していいものなのかは、少しだけ複雑だ。
「ママ、まだ体調は悪いよね?」
「少しめまいが残っているけれど、さっきよりは楽になったわ」
「じゃあ、みんなのところに戻ったら、何か食べよう。いつでもトイレは作れるから、これからは安心して飲み物も飲んでね」
「ええ、約束するわ」
母の返事を聞いて、胸の奥に張りつめていたものが、ようやくほどけていった。
まさか、自分のために考えた個室トイレの魔法が、こんな形で母を助けることになるとは思わなかった。
私は少しだけ顔色の戻った母の手を握り、父たちの待つ場所へと歩き始めたのだった。
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございます!
また、たくさんの応援や誤字脱字のご報告も、本当にありがとうございます。




