第9話 寺町の古い帳面から消えた名
九月に入ると、羽崎の朝はほんの少しだけ乾いた。商店街の屋根の下を抜ける風に、真夏の蒸し返す熱ではなく、夜の涼しさの名残が混じる。けれど寺町へ上がる石段はまだ陽をためこみ、午前の早い時間でも足裏へじんわり熱を返してきた。
香音は、その石段を迷いなく上っていった。細いヒールの音が、古い石の角へきりきりと刺さる。
「今日は法事の客じゃないんだから、そんな顔しなくていい」
前を歩きながら言われ、洸太は自分が無意識に肩を固めていたことに気づいた。
「寺町って、来るたびに少し緊張するんです」
「分かる。でも向こうはもっと緊張してる。知らないふりで隠してきたものを、こっちが見つけに来たから」
未羽が、その後ろで小さく口笛を吹いた。
「今日は香音さんが怖い日だ」
「今日は、じゃないわ」
即答だった。未羽はくすくす笑い、洸太にだけ聞こえる声で「安心した」と言う。怖いままでいてくれる人のほうが、かえって頼れるときがある。
香音が今日あたりをつけていたのは、寺町の一番奥、白壁と黒塀の続く一角にある旧家だった。門札の字は太く、庭木はきれいに刈られている。どこも古びているのに、手放す気配だけがない家だ。
応対に出たのは、七十代後半ほどの男だった。麻の羽織を羽織り、暑さより体面のほうを先に気にしている顔をしている。
香音は名刺を出した。
「羽崎法律事務所の香音です。寺町の聞き書きと、安離庵に関わる記録の確認で来ました」
男の眉が、わずかに動く。
「安離庵?」
「ええ。縁切り寺と俗に呼ばれた庵です」
「そんなものは、ろくでもない噂だけが残っとる。うちには関係ない」
言い切る声が、少しだけ早かった。
香音は笑わないまま頷いた。
「関係ないなら、古い寺町の世話役控えと、明治初年の寄進控えを見せていただけますか」
「どうしてうちにそんなものがあると思う」
「清蓮寺の庫裏改修で、帳合の控えにあなたの曾祖父の名が出ました。寺の名をまとめる役をしていたはずです」
未羽が、横で小さく目を丸くする。聞いていない手札だった。香音は必要なことを必要な順にしか出さない。
男は黙った。黙ったまま門扉の桟を握る手に力を入れたが、その手は年齢のわりに震えていなかった。長く人を追い返してきた手だと洸太は思った。
「確認だけです。持ち出しません」
香音の声は低く、きれいに整っていた。怒鳴らないかわりに、逃げ道を少しずつふさいでいく声だった。
しばらくして、男は舌打ちに近い息をついた。
「十分だけだ」
通された座敷は、風が抜けるのに涼しくなかった。床の間の掛け軸より、違い棚の上へ積まれた帳面の布包みのほうが、よほど家の本音に見えた。
男が嫌そうに広げた帳面を、香音は手早く追った。洸太も横からのぞきこむ。寺の名、寄進の額、修繕の相談、田畑の境。そうした記録の中に、ある時期だけ妙な空白があった。
「ここです」
香音が指した。
明治四年から数年分、寺町の小寺の列挙から一つだけ名が抜けている。行間は詰められ、最初から書かなかったように見せてあるのに、紙の目がわずかに乱れていた。削って詰めた跡だ。
洸太は息をひそめた。
「後から消してる」
男は顔をしかめた。
「昔のことだ」
香音が、そこで初めて相手の目を正面から見た。
「昔のことにされた側は、昔のままで済まないんです」
男は返さない。返せないのではなく、返すと家の言い分までほどけると分かっている顔だった。
未羽が低い声で聞く。
「どうして消したんですか」
男は、帳面ではなく庭のほうを見た。
「娘を一人、あそこへ逃がされた家があった」
ようやく出た言葉は、それだけで乾いていた。
「縁談が決まっていた。相手も悪い家じゃなかった。だが本人が嫌がった。家の面目が潰れる。親族が探し回った末に、庵に匿われていた」
「だから腹を立てた」
香音が言う。
「腹を立てたさ」
男は吐き捨てるように笑った。
「縁を切る、だの、女を逃がす、だの。家を保つ側から見れば、迷惑な寺だ。あんなものがあると、娘が勝手を覚える」
座敷の空気が、その一言で冷えた。
洸太は言葉を探したが、先に未羽が立った。立ったといっても怒鳴るためではなく、座り直しただけなのに、木の座卓が小さく鳴った。
「勝手を覚える、じゃなくて、自分で決めるでしょう」
男は未羽を見た。若い女から正面で返されることに慣れていない目だった。
未羽は笑わない。
「行きたくない家へ行かないのも、自分の人生ですよ」
男は何か言いかけたが、香音がその前に帳面を閉じた。
「十分です。ありがとうございました」
礼の形だけは崩さない。その切り上げ方に、男はかえって押し返せなかったようだった。
門を出て坂へ戻ると、三人とも一度に息をついた。寺町の風はさっきと同じはずなのに、皮膚に触れる感じだけが違っていた。
「思ってたより、ひどいですね」
洸太が言うと、香音は歩きながら答えた。
「もっとひどかったはずよ。あの言い方なら、記録に残っていないだけで、戻された人もいる」
未羽が唇を噛む。
「縁切り寺が怖い場所っていう噂、ああいう家の都合から広がったのかな」
「たぶんね」
香音は振り返らずに言った。
「女が逃げられる場所を、気味の悪い場所にしておけば都合がよかった。近寄るな、入るな、関わるなって言っておけば、次に逃げる人も減るから」
坂の下で待っていた千加子と陸矢が、二人の顔を見てすぐに表情を変えた。軽く済む話ではなかったと分かったのだろう。
千加子は資料袋から、薄い和紙の断片を一枚取り出した。
「こっちも出たわ」
断片には、くずし字で『安離庵』の三文字があった。端は欠け、前後の文章は切れている。それでも寺名だけははっきり読める。
洸太は思わず声を上げた。
「正式名だ」
陸矢が、持っていた現代地図へ赤鉛筆を走らせる。
「安離。離れて、安んずる」
未羽がその字を指先でなぞる。
「嫌なものから離れて、やっと落ち着く場所だったんだ」
千加子は頷いた。
「縁切り寺は俗称。しかも、かなり悪意の混じった呼び方だった可能性が高い」
香音はそこでようやく少しだけ笑った。
「名前を消しても、役目までは消せなかったってことね」
寺町の坂の下から見上げる空は、まだ夏の青を残している。その下で洸太は、胸の奥にあったぼんやりした怒りの輪郭が、初めてはっきりするのを感じた。
町はずっと、庵が切ったものだけを噂にしてきた。けれど本当は、あの場所が残そうとしたものがあった。人が自分で生き方を選び直すための、ぎりぎりの余白だ。
その名が今、ようやく戻ってきた。
安離庵。
洸太はその三文字を、声には出さず、胸の内側でゆっくり読んだ。




