第8話 『人間失格の恋』の表紙
その日の店じまいのあと、れんげ亭の照明は客席を半分だけ残して落とされた。昼間は家族連れの声や食器の音で満ちていた店内が、夜になると急に広く見える。磨かれたテーブルの木目に、厨房の明かりが長くのびていた。
未羽は帳場の横へ古い紙束を積み、軍手をはめてから、ひとつずつ輪ゴムを外していった。洸太は向かいの席で、千加子から借りてきた簡易のブックサポートと記録用のノートを並べる。店の手伝いを終えた父は、最初だけ様子を見ていたが、最後には「閉めるとき声かけろ」とだけ言って奥へ引っ込んだ。
「思ったより多いね」
未羽が言う。
紙束は、料理メモ、仕入れ帳の切れ端、客に渡すつもりで書いて渡さなかったらしい走り書きまで混じっていた。ソースの配合。プリン液の比率。『熱ある子はスープから』『帰りたくなさそうな顔の人には急かさない』。料理の覚え書きと、店で人を見る心得が、同じ調子で隣り合っている。
洸太は、そこに不思議な一貫性を見た。食べ物の味と、食べる人の事情を分けて考えていない書き方だ。
「未羽さんのお祖母さん、よく人を見ていたんですね」
「うん。しかも勝手に決める」
「遺伝かもしれません」
「誰が」
「プリンを先に出しそうなところが」
未羽は目を細めたが、怒らなかった。そのかわり、紙束の下から出てきた赤い大学ノートを、ぺしりと机へ置く。
表紙には、黒い万年筆の跡で大きく題が書かれていた。
『人間失格の恋』
洸太は思わず姿勢を正した。強すぎる題名だった。恋愛相談に見せかけた呪いの記録でも入っていそうな勢いがある。
未羽も同じことを思ったらしく、眉をひそめる。
「祖母、題名だけだと急に重いね」
「中身を見るまでは何とも」
「そういう言い方、だいたい見たくてしょうがない人のだよ」
ノートを開くと、最初の頁には日付があった。昭和二十九年、六月。続く文は拍子抜けするほど素朴だった。
『泣いて来た二人。別れるのに、どちらも相手の腹が減っているのが分かっていた。だからまずオムレツにした』
未羽が息をのむ。
洸太は声に出して続きを読む。
『失格なのは恋そのものではない。うまく続けられなかったとき、人はみな自分を失格と思いこむ。その顔で帰すのがいやだから、ご飯を食べさせる』
店内の空気が、少しだけ変わった。
そのあとは、失恋自慢でも悲恋の名文でもなかった。家から飛び出した女給。婿入りを断れず、約束していた相手に会えなくなった男。別れた夫婦の子どもを連れて来た叔母。噂を怖がって寺へは行けなかったが、寺の近くの食堂なら入れた人たち。祖母はその日その日の客を、面白がるでも裁くでもなく、料理名と短い一文で書き留めていた。
『この子は海老フライのしっぽだけ最後に食べた』
『今日は話さなかった。話さない人ほどスープを熱くしすぎない』
『帰る場所がまだ決まらないときは、旗を立てる。子どもは旗で時間をつなぐ』
洸太は、途中で声を切った。
未羽がゆっくり頁をめくる。指先の動きが昼間よりずっと慎重だった。
「これ……ただの店のメモじゃなかったんだ」
「うん」
「お子様ランチって、子どもが喜ぶから出してたんじゃなくて」
「落ち着く場所がない子に、今日はここでいいと思わせる皿だったのかもしれない」
言葉にすると、昼に食べた旗つきの皿の景色が、別の意味を帯びて戻ってくる。懐かしさだけではない。居場所を一時的にでも作るための、食べ物の工夫だったのだ。
未羽はノートの真ん中あたりで、ある頁に指を止めた。
「ここ、見て」
そこには、少し乱れた字で、こう書かれていた。
『安離庵がなくなっても、人の腹は減る。寺の代わりはできないが、皿なら出せる。切ったあとに食べる一皿がなければ、人は前を向けない』
店の時計が、十時を知らせる小さな電子音を鳴らした。
洸太は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。笑いを取れなかった夜の情けなさとも、瓦を見つけたときの興奮とも違う熱だった。町に残っているものが、古地図や瓦だけではないと分かったからだ。食べ物の形で、人を生き延びさせた記憶もまた、ちゃんと残っている。
「未羽さん」
呼ばれて、未羽が顔を上げる。
洸太は言葉を選びかけて、やめた。うまく言おうとすると、たぶんまた軽くなる。
「これ、見つかってよかったです」
結局、そうとしか言えなかった。
未羽は少しだけ目を伏せ、それから、いつもの調子より静かな声で返す。
「……うん。私も」
そのとき、店の入口のガラス戸が、からりと鳴った。施錠したはずの時間なのにと思って顔を向けると、章光が外から手を振っている。鍵は閉まっていて、本人も入る気はないらしい。
未羽が立って戸口まで行くと、章光はガラス越しに封筒を見せた。会議資料らしい厚みがある。
「明日の朝、これ渡したい。再開発の説明会、数字がきつい」
それだけ言って、彼は笑いもしないまま封筒を差し出す。
未羽が受け取ると、章光は小さく肩を回した。
「町を残すにも、数字が要る。そういう嫌な話」
洸太は席を立ち、ノートを閉じた。
皿の記憶と、瓦の記憶と、数字の現実が、同じ夜に一つの店へ揃ってしまった。逃げ場のない感じがしたのに、不思議と逃げたいとは思わなかった。
章光が帰ったあと、未羽は封筒と赤いノートを見比べて、苦く笑う。
「うちの店、急にいろんなもの集まりすぎじゃない?」
「れんげ亭がそういう場所なんだと思います」
洸太が言うと、未羽はノートの表紙をそっと撫でた。
「じゃあ、もう少しだけ集めるか」
その言い方に、冗談の軽さと、本気の重さが半分ずつ混じっていた。
洸太は頷く。胸の奥でくすぶっていた火が、ようやく自分の熱として分かる気がした。




