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笑えない漫談師と、縁切り寺の瓦地図  作者: 乾為天女


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第14話 笑いへ逃げない公開会

 十一月中旬の日曜日、羽崎は朝からよく晴れた。風は冷たいのに、空だけが春みたいに高い。公開会にはちょうどいい天気だったが、洸太の手のひらには朝からずっと薄い汗が残っていた。


 郷土資料館の入口には、『安離庵と町の記憶――瓦・地図・食の公開会』と書かれた看板が立ち、その下に小さく『商店街回遊あり』と添えられている。章光が最後まで言い回しを気にして直した結果、保存運動の張り紙にも、祭りの宣伝にも見えない、ぎりぎり真ん中の顔になっていた。


 館内へ入ると、正面には割れて見つかった瓦の修復写真と、裏から出た油紙の地図の複製。その横に、安離庵の名が記された和紙断片、寺町の帳面の消し跡、試掘で見つかった灰層と基壇石の写真。陸矢が作った地形図の説明は、坂道の勾配までひと目で分かるようになっていたし、千加子の添えた文は、知識をひけらかさないのに、読むと自然に足が止まる長さだった。


 資料館の裏手では、れんげ亭の臨時屋台が湯気を上げていた。未羽が考え直した復刻皿は、小ぶりのオムライスに細い海老フライ、季節の温野菜、昔より軽い味つけのナポリタン、小さなプリン、そして短い旗。子どもも大人も頼めるようにしたが、皿の説明書きには一文だけ添えてある。


 『切ったあとに食べる一皿』


 その字は、祖母のノートから千加子が選んで整えたものだった。


 開始前から、人は思っていたより集まった。郷土好きの年配者だけではない。商店街の店主、高校生のグループ、再開発の説明会でしか顔を見ないような人、れんげ亭の常連らしい親子連れ。怖い寺の話があるらしい、と半分面白がって来た顔もいたし、工事がどうなるのかだけを確かめに来た顔もいた。


 それでも、入り口の空気は敵意より好奇心のほうがわずかに強かった。


 午前十時、最初の案内が始まる。


 陸矢が寺町から資料館までの地形を説明し、千加子が安離庵の名と試掘成果を紹介し、香音が記録の消去がどのように行われた可能性が高いかを、個人情報を伏せながら手短に示す。章光は最後に、保存と活用を両立させる暫定案を話した。遺構の一部を見せる小広場、古道を示す路面表示、資料館と商店街を歩いてつなぐ導線。数字の話が入ると人は構えるはずなのに、今日はそれが現実の芯として落ち着いて聞かれていた。


 そして、最後が洸太の役目だった。


 簡易マイクを渡されたとき、彼は一瞬だけ、夏の夜店通りの舞台を思い出した。あのときも同じように、人の前に立って、笑わせようとして、言葉だけが空回りした。


 今、目の前にいる人の数はあの夜より多い。けれど逃げ道は、むしろ少なかった。


 「ええと」


 声が少し上ずる。いつもの自分なら、ここで軽い冗談を挟んでいた。


 瓦は恋より重いとか、坂道は気まずい会話より急だとか。そういう言葉で場をなじませたふりをして、本当に言いたいことの輪郭をぼかしていた。


 けれど今日は、その逃げ方をしないと決めてきた。


 洸太は、マイクを持ち直した。


 「今日は、怖い寺の話をしに来たわけではありません」


 館内が静まる。


 「この町で長く、縁切り寺と呼ばれてきた場所がありました。恋人を別れさせる寺だとか、夫婦仲がだめになる場所だとか、そういう噂がたくさん残っています。でも、調べてみると、見えてきたのはまったく別の姿でした」


 人の顔を見る。ちゃんと目が合う。逸らしたくなるが、逸らさない。


 「安離庵は、人を不幸にするための場所ではなく、生き延びるために悪い縁を断つ場所だった可能性が高いです。借金のしがらみ、家の都合、暴力、望まない縁談。そういうものから離れたい人が、いったん息をつくための場所だったのだと思います」


 どこかで、椅子のきしむ小さな音がした。誰かが姿勢を正したのだろう。


 「でも、その役目は、都合の悪い人たちからすると迷惑だった。だから寺の名は消され、怖い噂だけが残った。町は長いあいだ、それを本当の話みたいに扱ってきたんだと思います」


 自分でも驚くほど、言葉がまっすぐ出た。笑いに変えようとしないと、こんなにも言葉は重いのかと、話しながら知る。


 「僕はこの町で文化財の仕事をしています。でも正直に言うと、ずっと、自分の言葉はうまく届かないと思っていました。郷土史なんて退屈だと思われるだろうって、先に決めていたからです。でも、今回見つかったものは、ただ古いだけじゃない。今ここで暮らす人の逃げ道や、生き直し方に関わる話でした。忘れたままにしていい話じゃないと思いました」


 そこで洸太は、資料館の裏手へ視線を向けた。未羽が屋台の向こうから、黙ってこちらを見ている。


 「安離庵の建物は残っていません。でも、切ったあとの一皿を出す食堂の記憶は残っていました。寺が消えたあとも、ここでは、切れた縁の先で人を迎えるやり方が続いていたんです」


 夏の夜店通りみたいな失笑は起こらなかった。代わりに、息をつめて聞く静けさが広がっていく。その静けさに、洸太は今度こそ逃げなかった。


 「この町の嘘は、ただ昔の言い間違いじゃありません。見ないほうが都合のいいことを、見ないままにするための嘘でした。でも、嘘をほどかないと、今苦しんでいる人の逃げ道も見えなくなる。だから今日は、この場所の名前と役目を、ちゃんと町へ返したいと思ってここに立っています」


 話し終わると、しばらく誰も拍手をしなかった。


 失敗した、と最初の一秒だけ思った。けれどすぐに、それが違う種類の静けさだと分かった。笑う場所を探して黙っているのではなく、言葉の行き先をそれぞれが自分の中で確かめている沈黙だった。


 その中で、後方にいた年配の女性が、ゆっくり手を挙げた。


 千加子が近づいてマイクを渡す。


 女性は少し震える手でそれを持ち、言った。


 「うちの母が、昔……このあたりの食堂で、助けられたことがあります」


 館内の視線が一斉にそちらへ集まる。けれど誰も急かさなかった。


 「詳しいことは、ずっと聞かされませんでした。ただ、帰る家がなくなった夜に、温かい皿を出してもらって、そこで一晩だけ、泣くのをやめられたって。怖い寺の話は聞いてたけど、今の話を聞いて、ああ、あれは……そういうことだったのかもしれないと思いました」


 言い終えると、女性は深く頭を下げた。千加子がすぐに支え、椅子へ戻るのを手伝う。


 その瞬間、館内の空気が少し変わった。資料の写真や地図の線が、急に生きた時間へつながったのだ。


 拍手は、そのあとで起きた。大きすぎない、でも途切れない拍手だった。


 洸太は頭を下げた。下げながら、自分の胸の中にあるものが、夏の夜よりずっと静かに熱くなっているのを感じた。


 午後になると、公開会は資料館の外へ流れた。陸矢の案内で坂道を歩く人たち。香音の説明に眉を寄せる人。章光へ工期や予算を聞きに行く人。未羽の皿を前に、旗を見て笑う子どもと、説明書きを読んで黙る大人。


 洸太が屋台へ戻ると、未羽は皿を盛りつけながら、ちらりとだけこちらを見た。


 「逃げなかったね」


 「はい」


 「前より、ずっとよかった」


 それだけ言って、彼女は次の皿へ旗を立てた。短い言葉なのに、今の洸太には十分だった。自分の言葉が、やっと町のどこかへ届いたのだと、手の感覚で分かるような午後だった。



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