第13話 町の嘘と消された逃げ道
十一月に入ると、羽崎の朝は白かった。霧というほど濃くはないのに、川のほうから上がってくる湿り気が商店街のアーケードの骨組みに薄く残り、店先のガラスを曇らせる。吐く息もやっと見えるようになって、夏の夜店から始まった調査が、ずいぶん遠くへ来たように洸太は感じた。
郷土資料館の会議机には、いつも以上に物が積み上がっていた。瓦の写真、試掘現場の平面図、安離庵の名が出た和紙断片、寺町の帳面の写し、戦後の聞き書きカード、れんげ亭の祖母のノート。紙の厚さも時代もばらばらなのに、同じ机の上へ並べるだけで、町の中で別々に黙っていたものがようやく口をきき始めたようだった。
千加子が、展示構成案を書いた大きな模造紙を広げる。
「公開会は一日だけ。でも一日だけだからこそ、見せる順番を間違えたくないの」
章光が腕を組み、模造紙の端を押さえた。
「資料館の中だけで完結させると、保存の話に見える。商店街まで歩かせて、皿までつなげたい」
陸矢がすぐに頷く。
「歩くなら坂の角度が分かる道を通したいな。寺町から低地へ落ちる感じが見えたほうが、安離庵がなぜあそこにあったか伝わる」
「見せたいものが多すぎる」
香音が言いながら、机の中央へ一枚の紙を置いた。法務局の古い地積図を写したものだった。安離庵跡地の一角に、小さな但し書きがある。
『旧寺地の整理につき、口外無用』
洸太は、その細い字を見て息を止めた。
「こんなの、残ってたんですか」
「残ってたというより、残ってしまったのね」
香音は椅子へ腰かけ、指先で紙の余白を叩いた。
「跡地を整理するとき、全部を更地にするんじゃなく、一部を守る代わりに、そこへ逃げ込んだ人の話は表に出さない。そんな手打ちがあった可能性が高い。寺をなくしたあと、都合の悪い中身だけを黙らせて、怖い噂だけ残した」
未羽が顔をしかめる。
「守ったっていうより、ふたをしただけだね」
「そう。しかも、善意の顔をして」
香音の声は冷えていた。寺町で見聞きしてきたものが、今も胸の底でほどけていないのだろう。
洸太は、安離庵の名が消された帳面を思い出した。恋を壊す恐ろしい寺。夫婦がだめになる場所。そんな話ばかりが残り、本当に切ろうとしていたもの――暴力、囲い込み、家の都合、逃げ場のなさ――は、町の口からまるごとこぼれ落ちていた。
「最初の地図にあった『町の嘘』って」
洸太が言うと、千加子が続ける。
「単なる誤解じゃなかったのね。怖い話にしておけば、誰も中身を掘り返さない。そういう形で作られた嘘」
机の上が、一瞬しんとした。
誰か一人の悪意だけでこうなったわけではないのだろう。家を守りたい人、町の体面を守りたい人、昔の面倒を閉じたつもりで次へ進みたい人。その全部が少しずつ手を貸して、いつの間にか嘘は土地の空気になっていた。
章光がため息まじりに言う。
「公開会、軽い催しじゃ済まなくなったな」
「最初から軽くはないですよ」
洸太が答えると、章光は苦く笑った。
「君が言うと、ようやく本気に聞こえるな」
未羽がすぐ横から言う。
「前は瓦を見ると早口になるだけだったからね」
「今もなってるかもしれない」
「今は前より、人の顔見てしゃべる」
何でもない調子の一言だったのに、洸太の胸には思ったより深く入った。夏の夜店通りで、自分の言葉が誰にも届いていないと思っていたあの夜から、そんなふうに変わって見えていたのかと、少しだけ驚いた。
会議のあと、陸矢と章光は歩行経路の確認へ出ていき、千加子は展示パネルの文案を直しに事務室へ戻った。香音も、公開にあたって伏せるべき個人情報の整理をすると言って席を立つ。
残ったのは、洸太と未羽だった。
閲覧室の窓際で、未羽は祖母の赤いノートを閉じる。表紙の『人間失格の恋』の文字は、何度も触られたせいか、少しだけ艶が変わっていた。
「公開会の日、お子様ランチ出すんだけど」
「はい」
「名前、そのままでいいと思う?」
「お子様ランチですか」
「うん。でも、来るのは大人も多いし。子ども専用みたいに聞こえると、祖母が残した意味が逆に狭くなる気もする」
未羽はそう言って、ノートの表紙を指でなぞった。
「切ったあとに食べる一皿。そこは残したいんだよね」
洸太は少し考えた。
「名前はまだ、そのままでもいいかもしれません。先に意味を食べてもらうほうが」
「意味を食べてもらう、って変な言い方」
未羽は笑ったが、嫌そうではなかった。
「でも、わかる。皿が先で、名前はあとでもいいか」
夕方、二人で資料館から商店街まで歩くことになった。公開会当日の導線を確かめるためだ。寺町から坂を下り、古道の痕跡が残る細い路地へ入り、旧河道をなぞるように商店街へ抜ける。陸矢が引いた赤線を、今度は自分たちの足で確かめる番だった。
寺町から下る途中、未羽が足を止めた。
「こうして歩くと、本当に隠れてるね」
彼女が見ているのは、坂の途中で一度折れる土塀の角だった。上からは見通せない。下からも一気には見えない。誰かが追ってきても、少し先を読まないと見失いそうな曲がり方だ。
「逃げるための地形だったのかも」
洸太が言うと、未羽は頷いた。
「怖い話にしちゃえば、誰もこういう歩き方しなくなるもんね」
その言い方に、町の嘘の正体がよく表れていた。ただ話を変えただけではない。人が実際に歩く道まで変えてしまったのだ。近寄らない。考えない。見なかったことにする。その繰り返しで、逃げ道は地図からではなく、人の頭の中から消えていった。
商店街が見えるころには、空がすっかり薄紫になっていた。れんげ亭の看板の灯りが先に点き、湯気のにおいが外へ流れてくる。
店へ入る前、未羽が立ち止まって振り向いた。
「洸太くん」
「はい」
「公開会の話し手、ほんとにやるの?」
「やります」
「ウケなくても?」
その問いは、からかい半分のようでいて、半分は確かめだった。
洸太は、少しだけ笑った。
「もう、そこを目当てにしないことにします」
未羽は目を細めた。
「じゃあ、ちゃんと聞く側もやる」
「聞く側」
「料理出しながらね。逃げたら分かるから」
洸太は、逃げるつもりだった自分を思い出して、苦笑した。夏から何度も、言葉を軽口へ逃がそうとしてきた。けれどもう、それでは安離庵のことも、祖母のノートのことも、未羽の迷いのことも、まともに受け止めたことにならない。
店の暖簾をくぐる直前、洸太は一度だけ振り返って、坂の上の暗がりを見た。
嘘は長かった。けれど消えたわけではない。見つけ直せば、そこにある。
ならば今度は、自分の言葉で、その道の形を言い当てなければならないのだと思った。




