第12話 駅前の誘いと消せない店の灯り
十月下旬の夜、れんげ亭の厨房は、いつもより静かに片付いていた。鍋の底を洗う音、換気扇の唸り、グラスを伏せる小さな打音。外の商店街は早じまいの店が増え、シャッターの降りる重い音が、少し間を置いて順番に響いていく。
洸太は閉店後のテーブル席で、赤い大学ノートと住宅地図の写しを広げていた。未羽に呼ばれて来たのだが、来てから十五分ほど、彼女は厨房からなかなか出てこなかった。
やがて前掛けを外した未羽が、湯気の立つカップを二つ持って現れる。コーヒーではなく、薄いコンソメだった。
「夜に考えごとするとき、うちはこれ」
「初めてです」
「今日は胃より頭が疲れてる顔してるから」
そう言って向かいへ座る。いつもの軽さは残っているのに、その下で何かを決めかねている気配があった。
洸太はカップへ手を伸ばしたが、先に未羽が切り出した。
「駅前の新しい商業棟、知ってるよね」
「再開発の」
「うん。あそこに入る大型の飲食店から、声かけられてる」
洸太の指が、カップの縁で止まった。
未羽は、彼の顔をまっすぐ見るでもなく、テーブルの木目を目で追いながら続ける。
「店長候補。条件は悪くない。休みも今より取れるし、厨房も広いし、仕入れの心配も減る。父も、反対はしてない」
商店街の外で働く未羽の姿は、簡単に想像できた。忙しい店でも回していけるし、客ともすぐ打ち解けるだろう。ここに縛られる必要なんてない、と言われれば、たしかにその通りだった。
それでも洸太は、胸のどこかがひどく狭くなるのを止められなかった。
「……いつから」
「夏の終わりくらいから。返事はまだ待ってもらってる」
「どうして今」
未羽は少し笑った。笑ったが、その笑みは自分に向いていた。
「今まで言えなかったから。調査のこともあるし、祖母のノートも出てきたし、うちの店の意味とか急に大きくなっちゃって。残るのが正しいみたいに思えてきて、それで、逆に分からなくなった」
洸太は、すぐには答えられなかった。残ってほしい、と言いたかった。その一言を口に出せば、自分がどれだけこの店と、この人に寄りかかっていたかがむき出しになる気がした。
未羽はコンソメを一口飲み、息をつく。
「私さ、残ることを自分で選んだつもりでいたんだけど、たぶん違うんだよね。決めないまま延ばしてたら、ここまで来ちゃっただけ」
窓の外で、自転車のブレーキが鳴る。商店街の音は小さいのに、言葉の切れ目には妙に大きく聞こえた。
「古い店を守るのがえらい、って話でもないし。出ていくのが裏切り、って話でもないし。でも、どうしたいか聞かれると、まだきれいに答えられない」
未羽はそこで、洸太を見る。
「ねえ。洸太くんは、どうしたらいいと思う?」
いちばん困る聞き方だった。相談の形をしているのに、相手の本音まで測ろうとする目だった。
洸太は、視線を落とした。ノートの上に、祖母の字がある。
『切ったあとの一皿がなければ、人は前を向けない』
切るべきなのは何か。残すべきなのは何か。その問いを、町のためなら多少は口にできるのに、未羽の前だと急に不器用になる。自分だって長いあいだ、切るべきものを見誤ってきた。研究を手放したあとの負い目も、言葉が届かないと思いこんでいた癖も、全部まとめて抱えたまま、灰のふりだけ上手くなっていた。
「……今、無理に答えを出さなくてもいいと思います」
ようやく出たのは、引き留めでも背中押しでもない半端な言葉だった。
未羽は責めるでもなく、ただ少し寂しそうに笑う。
「そっか」
その一言が、洸太の胸へ鈍く沈んだ。
その夜、店を出たあとも、彼はまっすぐ家へ帰れなかった。商店街を抜け、川沿いの道を歩き、再開発予定地の仮囲いの前で立ち止まる。闇の向こうに埋もれた基壇石も、灰層も見えない。ただ、ここに確かにあると知ってしまったものだけが、夜の底で熱を持っている気がした。
翌日から、洸太は祖母のノートをさらに読みこんだ。千加子に頼んで戦後の学校だよりや商店街の寄付記録を洗い、陸矢に子どもの転居記録と学区変更の資料を教わり、未羽には黙って、れんげ亭の古い写真まで見せてもらった。
すると少しずつ、皿の由来が立ち上がってくる。
戦後まもなく、離縁や転居で生活が落ち着かない子どもが多かったこと。大人の事情で居場所を失った子は、食事の時間にいちばん不安定になること。祖母が旗を立てたのは、豪華さの演出だけではなく、この席は君のものだと目で分かる印にするためだったこと。
資料の余白に、祖母の走り書きがあった。
『子どもは自分の皿に旗が立つと、まだ自分の番が終わっていないと思える』
その一文を読んだ瞬間、洸太は胸の奥で何かがほどける音を聞いた気がした。未羽が切るべきだと言われているのは、店そのものではないのかもしれない。ここに残るしかない、ここを離れたら終わりだ、どうせ自分には選べない。そういう諦めのほうだ。
そして、その言葉はそのまま自分にも返ってきた。大学のころ、洸太は瓦の刻印から流通圏をたどる卒論を書こうとしていた。けれど父の入院と就職の都合が重なり、調査も執筆も半端なところで手を放した。どうせ最後までやれないなら、最初から本気になりすぎないほうが傷が浅い。そんな理屈で、自分の好きなものへ薄い灰をかぶせてきたのだ。
数日後の夜、洸太はれんげ亭の厨房の隅で、試作中のお子様ランチを前に未羽と向かい合っていた。皿の上には、小さめのオムライス、細い海老フライ、季節の温野菜、昔より少し軽くしたナポリタン、そして短い旗。
未羽は腕を組み、真剣な顔で皿を見る。
「昔のままじゃない。でも、昔の意味を薄めたくない」
洸太は、祖母のメモを差し出した。
「これ、見つけました」
未羽が読む。『まだ自分の番が終わっていないと思える』のところで、彼女のまぶたがわずかに震えた。
「……祖母、こういうこと書くんだ」
「書いてました」
「なんか、悔しいな。私、料理してるのに、祖母の考えてたこと、やっと今わかる」
洸太は首を振った。
「今わかったから、作り直せるんだと思います」
未羽はメモを見たまま、静かに息を吐いた。
「ねえ、もし私が駅前へ行っても、この皿の意味って残せるかな」
答えるまでに、洸太はほんの少しだけ時間を使った。今度は逃げたくなかった。
「残せると思います。でも、どこで出すかより、何を諦めて決めるかで変わる気がします」
未羽が顔を上げる。
「何を諦めて決めるか?」
「どうせ無理だ、って先に決めることです。店を残すにしても、出るにしても、それで選んだら、たぶん後で苦しくなる」
言いながら、洸太は自分自身にも向けていると分かった。未羽のことだけではない。大学のころに投げ出した研究も、漫談も、町のことも、自分はいつも先に諦めの形を作って、その中でだけ動いてきた。
未羽はしばらく黙っていたが、やがて旗を一本つまみ、皿の上へ立て直した。
「洸太くん、自分にも言ってるでしょ」
「……はい」
「だったら、灰のふりやめなよ」
軽い言い方だったのに、その一言はまっすぐ胸へ入った。笑わせるためではなく、前へ押すための軽さだと、洸太はようやく腹の底で理解した。
「切るなら、そっちか」
「たぶん」
「店じゃなくて」
「たぶん」
未羽は、そこでようやくいつもの笑い方をした。けれどその笑いは、前より少しだけ深いところから出ていた。
「じゃあ、もう少し悩む。ちゃんと悩んで決める」
「それがいいと思います」
「答え、前よりはまし」
洸太は苦笑した。
「評価が厳しい」
「大事な話だから」
厨房の灯りはもう落とす時間だったが、試作の皿だけがまだ明るく見えた。小さな旗は、子どもっぽい飾りにしか見えないのに、そこへ立てられた意味は軽くない。
洸太はその旗を見ながら思う。切るべきものは、悪縁だけではない。諦めの形もまた、人を長く縛る。
未羽がどちらを選ぶにせよ、自分ももう、灰のふりをしている場合ではないのだと、ようやく腹の底で分かり始めていた。




