第15話 続きの地図を描く夜
公開会の片付けが終わるころには、日が落ちていた。資料館の外へ出ると、吐く息が昼より白い。坂の上の寺町はもう暗く、商店街の灯りだけが低地に集まって、小さな川みたいに見えた。
今日は皆、さすがに疲れていた。陸矢は高校の授業で地図歩きをやりたいと最後まで真顔で言い、千加子は受け取った聞き書きの申し出を抱えて嬉しそうに困っていた。香音は寺町の旧家の顔を思い出して少しだけ勝ち気に笑い、章光は来場者アンケートの束を持ったまま、「数字がいい意味で増えてるときだけ、紙って軽い」とぼやいた。
それぞれがそれぞれの荷物を抱えて散っていき、最後に残ったのは、れんげ亭へ戻る未羽と、その手伝いをする洸太だった。
店の暖簾を下ろしたあとも、厨房の中は温かい。洗い終えた皿の水滴が、蛍光灯の下で細かく光る。未羽は鍋をしまいながら、いつになく黙っていた。
洸太はテーブルを拭き終え、布巾をたたむ。何かを言うなら今しかないと分かっているのに、言葉の置き場所が見つからない。
未羽が先に口を開いた。
「今日ね、駅前の人に断り入れた」
洸太は顔を上げた。
「もう?」
「うん。公開会が終わってからにしようと思ってたから」
彼女は皿を拭く手を止めずに続ける。
「残ることにした、って言い切ると少し違うんだけど。でも少なくとも、どうせ流れでそうなるから残る、ではなくしたかった。ちゃんと自分で決めたかった」
「それで、残るって」
「今のところはね」
未羽はそこでようやく洸太を見る。
「祖母の皿、まだやれることがある。今日それが分かったし。駅前に行っても意味は残せるって思ったけど、今の私が切りたいのは、この店じゃなかった」
洸太は、胸の奥のどこかがほどけていくのを感じた。引き止める言葉を言えなかった自分の情けなさまで、少しだけ一緒にほどける。
「よかった」
口から出たのは、その一言だった。
未羽は少し笑う。
「その言い方だと、町の人みたい」
「違います」
「じゃあ、どんな意味?」
急に、逃げ道がなくなった。いや、前からなかったのに、自分で見ないふりをしていただけかもしれない。
厨房の湯気はもう消えているのに、洸太の耳だけが熱い。ここでまた、言葉を半分にしたら、夏から積み上げてきたものが全部薄くなる気がした。
「……僕は」
喉が乾く。未羽は待っている。助け舟を出さない顔で、でも逃げるなら逃げたと分かる顔で。
「僕は、町のことも、未羽さんのことも、諦めたふりをしてただけです」
言った瞬間、胸の奥にあった硬いものがひとつ割れた。
未羽は黙ったまま、拭いていた皿を伏せる。陶器の触れ合う小さな音が、やけに鮮明だった。
洸太は続けた。
「最初から無理だって思っておけば、傷つき方が小さくて済むと思ってました。郷土史の話も、研究も、言葉も。たぶん、人を好きになることもです。でも、今日話して、自分でびっくりするくらい、逃げたくなかった。町のこともそうですけど……未羽さんには、もっと前から、ちゃんと言わなきゃいけなかった」
未羽が、ほんの少しだけ目を細めた。
「それ、告白までの前振り、長すぎない?」
洸太は思わず息を詰め、それから苦笑した。
「長いです」
「知ってる」
「でも、本気です」
今度は、笑わせようとして言ったのではなかった。
未羽はカウンターにもたれ、しばらく洸太を見ていた。からかうなら、いくらでもできる間だった。けれど彼女はそうしなかった。
「私ね」
ゆっくりした声で言う。
「洸太くんが、やっと自分の言葉でしゃべるようになったの、うれしかったよ。今日だけじゃなくて、その前から少しずつ。だから、今の話もうれしい」
それだけで十分なくらいだったのに、未羽はそこで口元をゆるめる。
「でも、ここで即答したら悔しいから、少しだけ条件つける」
「条件」
「一緒に、続きの地図を描くこと」
洸太は瞬きをした。
「続きの地図」
「安離庵までの地図じゃなくて、その先。資料館から商店街まで、人がまた歩けるようになる地図。今日で終わりじゃないでしょ」
その言い方は、恋の返事を保留しているようで、実はかなり先まで一緒に行く話だった。
洸太は、ようやく肩の力を抜いて笑った。
「それ、かなり長い条件ですね」
「いいじゃん。前振り長い人にはちょうどいい」
店の外で、自転車が一台、商店街をゆっくり通っていく音がした。シャッター街になりかけていると言われるこの通りにも、まだ人の気配は残っている。その気配の中で、二人のあいだにあった迷いの形も、少しずつ変わっていくのが分かった。
「じゃあ、描きます」
洸太は言った。
「ちゃんと、続きまで」
未羽は頷き、ふと真面目な顔になる。
「町のほうも、少し進みそうだよ。章光さんからさっき連絡来てた。公開会の反応が思ったより良くて、小広場案と路面表示案、正式にたたき台に乗るって」
「ほんとに」
「うん。保存か工事かの二択じゃなくて、その間の案、ちゃんと聞く人がいたみたい」
その報せは、今日一日の疲れを少し軽くした。全部がうまく行くわけではないだろうし、これからまた細かい揉め事はいくらでも出るだろう。けれど、町が二つに割れるだけで終わらなかったことは大きかった。
未羽は、乾いた皿を棚へ戻しながら言う。
「切るべきものを切って、残すものを残すって、口で言うほど簡単じゃないね」
「はい」
「でも今日、ちょっとだけ形が見えた」
町のことも、店のことも、恋のことも、派手に片づくわけではない。けれど、切るべきものと残したいものを、自分で選び直していいのだと分かっただけで、羽崎の夜は少し歩きやすくなっていた。
その夜、店を出る前に、未羽は紙ナプキンの裏へさらさらと一本の線を引いた。資料館から坂道を下り、商店街を抜け、れんげ亭までつながる線。その先へ、小さく旗の絵が描かれる。
「仮の地図」
彼女はそう言って、それを洸太へ渡した。
紙ナプキンの上の線は頼りないのに、洸太には、今まで見たどの古地図よりも先の時間が書き込まれているように見えた。




