第26話 転落の序曲
1 ナンテーヌの絶望
豪奢な屋敷の一室。
ナンテーヌ=マルセルは床に座り込み、泣き腫らした顔を鏡に映していた。
まだ十八歳。男爵家の娘としては珍しく華やかな夜会に顔を出せる立場にあり、取り巻きに囲まれていた彼女にとって、社交界の華でいることは生きる意味そのものだった。
だが今や、その舞台は奪われた。
「どうして……どうしてこんなことに……」
声は掠れ、指先は小刻みに震える。
その時、扉が勢いよく開かれた。
「ナンテーヌ!」
怒鳴り声とともに入ってきたのは父、マルセル男爵。
顔を真っ赤に染め、手にした杖で床を叩く。
「お前という娘は、家にどれほどの恥をかかせれば気が済むのだ!」
雷のような怒声が響く。
ナンテーヌは必死に縋った。
「ち、違うのですお父様! あれは罠で、私は嵌められただけで――!」
「黙れ!」
杖が床を再び打ち、振動が走った。
「証拠も証言も揃っているのだ! 王都中の笑い者にされたのだぞ! お前を誇りに思っていたのに……もう二度と社交の場に出ることは許さん!」
その言葉に、ナンテーヌの視界は真っ暗になる。
社交界からの追放――それは死刑宣告にも等しかった。
彼女はわずかな友人や取り巻きの視線に生きがいを見出していた。だがその全ては剥ぎ取られ、残ったのは冷たい孤独だけだった。
2 ニースの失墜
一方その頃、侯爵家グルノーブルの屋敷でも同じような嵐が吹き荒れていた。
ニース=グルノーブルは必死に訴えていた。
「お父様! あれは陰謀です! あの探偵リチャードの捏造ですわ! 私は無実なのです!」
だが、冷ややかな視線を返したのは父、グルノーブル侯爵だった。
「無実? では、侍女や従者に金を渡したのは誰だ? 署名入りの書簡まで残して……」
「そ、それは――!」
言葉が詰まる。
侯爵の顔には怒りと失望が同時に浮かんでいた。
「お前には将来を託すつもりだった。だが、これ以上家の名を汚すわけにはいかん。すぐに婚約話も白紙だ。以後は謹慎処分とする」
「そ、そんな……!」
ニースの心は凍りついた。
侯爵令嬢として当然のように未来を描いていた。政略結婚でさらに家を高め、社交界で輝き続けるはずだった。
だが、その夢は一夜にして崩れ落ちた。
3 社交界からの追放
数日も経たぬうちに、社交界では二人の名は完全に消された。
夜会の招待状は届かず、茶会でも話題にされることはない。
むしろ彼女らの名を口にすること自体が、恥とされるようになった。
「ナンテーヌ嬢? ああ、そんな人もいたわね」
「ニース嬢? 今は屋敷に閉じ込められているとか」
かつて彼女らが浴びていた憧れの視線や称賛の声は、冷笑と軽蔑に変わっていた。
4 孤独と憎悪
ナンテーヌは、かつての取り巻きすら背を向けていた。
誰も訪ねてこない応接間で、彼女は膝を抱え込み、窓の外の遠い笑い声を聞いた。
それはかつて自分が浴びていた声。
「どうして……私が……」
頬を濡らす涙は止まらない。だが誰も、その涙を拭ってはくれなかった。
ニースは屋敷の一室に閉じ込められ、毎日重苦しい空気の中で過ごした。
鏡に映る自分の顔は憔悴し、肌の輝きも失われている。
爪を噛みながら、彼女は呟いた。
「くそっ……あのランスめ……あの女め……!」
だが、その声に応える者はいない。
使用人すら彼女を避け、冷たい視線を送るだけだった。
5 対照的な未来
そして――社交界の中心に立つのは、ランスとカンヌだった。
カンヌの潔白は証明され、その姿は「気高く清らかな令嬢」として称賛された。
ランスの隣に立つ彼女は、誰の目にも自然で、祝福される存在だった。
ナンテーヌとニースの転落は、カンヌの復権をより鮮やかに際立たせる。
人々はこう語り継ぐのだ。
――嫉妬に駆られた者は滅び、真実と誠実は必ず勝利する、と。
夜会の輝きから追放された二人。
男爵令嬢ナンテーヌ=マルセルと、侯爵令嬢ニース=グルノーブル。
その運命は、もう決して元に戻ることはなかった。
転落の始まりは、あの夜の断罪劇。
そして今もなお、彼女らの絶望は続いている。




