第19話 カンヌ ランスに侯爵令嬢のことを打ち明ける
ランスに侯爵令嬢のことを打ち明ける
昼下がりのベルンの街は、秋風に包まれていた。通りを歩く人々は、鮮やかなマントや羽飾りで季節の移ろいを楽しんでいる。だが、カンヌの心はどこか落ち着かないままだった。
つい数日前、あの侯爵令嬢――アメリアが、彼女をわざわざ呼び止めたのだ。
「あなたのような伯爵令嬢が、ランス様に相応しいとお思いで?」
あの冷たい声が耳にこびりついて離れない。
「侯爵家のわたくしの方が、ずっとお似合いですわ。近づくのはおやめなさいな」
アメリアの笑い声は、あからさまに威嚇を含んでいた。貴族社会の序列を突きつけられたようで、胸がざわつく。
――私は、本当にランスの隣に立っていいのだろうか。
考えれば考えるほど、不安の棘が心を刺した。だが、隠しておけるようなことでもない。彼に知られたら心配をかけるかもしれないが、黙っているのも誠実ではない。
悩んだ末に、カンヌはその日の午後、ランスを呼び出した。いつもの小さなカフェ。二人の思い出が少しずつ重なっていく、あの場所だ。
***
「……何か、悩んでいるのかい?」
席につくなり、ランスはまっすぐに問いかけてきた。薄茶色の瞳は、曇り一つなく澄んでいる。
カンヌは胸がきゅっと縮む思いで、視線を落とした。
「実は……ランス様のことで」
切り出した瞬間、彼の表情が僅かに固まった。だが逃げずに、ただ続きを待っている。
カンヌは震える声で、アメリアとのやりとりを話した。侯爵令嬢が自分を威嚇してきたこと。身分を盾に、「相応しくない」と突きつけられたこと。
語り終えると、しばらく沈黙が落ちた。
――やっぱり、軽率だったかもしれない。こんなことを言えば、彼に迷惑をかけるだけなのに。
不安で胸が押し潰されそうになったとき。
「……そうか」
低く、けれど落ち着いた声が、沈黙を破った。
顔を上げると、ランスは穏やかながらも決意を帯びた眼差しで彼女を見つめていた。
「アメリア嬢のことなら、心配いらない。実は彼女からの申し出は、過去に何度もあったんだ」
「え……?」
カンヌは思わず瞬きを繰り返す。
「彼女は強引に婚約を望んできた。でも、僕はその都度きっぱりと断っている。身分や家柄で選ぶ気はないからね」
その言葉は、まるで真昼の光のようにまっすぐだった。
カンヌの頬が熱くなる。心の奥に沈んでいた不安の氷が、じわじわと溶けていく。
「……でも、それでも私に威嚇してきて。私、どうすれば……」
言葉を途切れさせると、ランスは一歩、身を乗り出した。
「もしまた何かあったら、すぐに僕に知らせてほしい。絶対に君一人で抱え込まないこと。それが約束だ」
その声音は、優しさだけでなく、強さを含んでいた。
彼は本気で、自分を守ろうとしてくれている――。そう思うと胸が熱く、涙がにじむ。
「ランス様……」
「君に辛い思いをさせてしまって、すまない」
真剣な顔で頭を下げる彼に、カンヌは慌てて首を振った。
「違います! ランス様のせいじゃありません。私が……勝手に不安になっただけで」
「不安になるのは当然だ。だからこそ、僕が隣にいて、その不安をなくしたい」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
***
カフェの窓から差し込む夕陽が、二人を橙色に染めていた。
カンヌはカップをそっと持ち上げて、深呼吸した。胸の奥でくすぶっていた影が、少しずつ晴れていくのを感じる。
――やっぱり、伝えてよかった。
彼の真剣な想いに触れて、怖さよりも温かさが勝った。
「……ありがとうございます」
小さな声でそう告げると、ランスは柔らかく微笑んだ。
「礼を言うのは僕の方だよ。信じて打ち明けてくれて、ありがとう」
その笑顔を前に、カンヌの胸はまた切なく熱くなる。
侯爵令嬢の影は、まだ完全に消えたわけではない。だが、隣にいる彼が強く支えてくれる――その確信が、彼女に大きな力をくれた。
***
外に出ると、街の灯が少しずつ灯り始めていた。並んで歩きながら、ランスがぽつりと言った。
「君は、君のままでいい。誰の言葉にも惑わされなくていいんだ」
その一言が、夜風よりも温かく、彼女の心を包んだ。
そしてカンヌは決意する。
――この人の隣に、胸を張って立てるようになりたい。
侯爵令嬢の威嚇に怯えてばかりではいられない。ランスが信じてくれるなら、自分も自分を信じなくては。
その思いを胸に刻みながら、彼女はそっと笑みを浮かべた。




