第9話 ベルハイム前夜
夕刻、ジャサントは周辺集落記録帳の最後の欄を埋めた。
ベルハイム。
更新停止、三日目。
偵察報告、本日二件。
南側斜面、魔物推定数三十。
進行方向、北東。
ベルハイム経由王都街道、進路可能性高。
集落外周、未接近。
内部状況、未確認。
被害想定、未救援時七十以上。
被害想定、王都街道未防衛時二百以上。
必要兵数、王都二十四/ベルハイム十二/同時三十二。
現在最大運用、十六。
不足、八。
優先決定、保留。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じない。
今夜のうちに上から決定が下る。
決定が下りた時点で、欄を書き換える必要がある。
地図はそのまま残された。
王都街道の線。
ベルハイムの線。
南側斜面の進路線。
三本のうち、夕刻までに消された線はなかった。
ガルドは中庭の方へ歩いていったあと、もう一度戻ってきた。鍛錬場までは行かなかったらしい。地図の前で立ち止まり、ベルハイムの線の終点を指で押さえる。指の腹で押さえているだけだった。線をなぞるでもなく、終点だけに圧をかけている。
「決まったら、どっちに行くんだ」
「決定次第です」
「ベルハイムの方になったら」
「はい」
「俺もだ」
ジャサントは顔を上げた。
「未決定です」
「決まったら、俺の名前も書いとけ」
「後衛札の補助欄に、すでに記載があります」
ガルドは少しだけ間を置いた。
「最初から入ってたのか」
「補助欄は、決定前に組まれます」
「俺に確認もなしか」
「補助欄は確認対象外です」
「ふん」
ガルドはそれ以上言わなかった。
だが、地図の前から動かなかった。
ベルハイムの線の終点に置いた指は、しばらくそのままだった。
ジャサントは周辺集落記録帳の補助欄を、もう一度開いた。
ハイネ・ルツ。男。北井戸補修補助。
サラ・ベルン。女。礼拝堂避難補助。
ミア・オル。女。乾パン配分補助。
他、署名札なし、合計百十四。
サラ・ベルンの欄には、括弧書きで一行が添えられている。
礼拝堂避難補助、幼児ノア、母子同伴。
ノアの欄は、最終確認時点で四歳のまま止まっていた。
ジャサントは頁を一枚めくった。
帳面の最後に、記録担当者欄がある。
ベルハイムの担当者欄には、彼の名が書かれていた。月一度の人口票を、最後に受け取ったのが彼だった。担当者欄は、再開時にも同じ者が引き継ぐ。書き換えのない欄だった。
ガルドが横から欄を見た。
「お前の名前か」
「最終確認の担当者です」
「だから、行くのもお前か」
「決定次第です」
「決まらなくてもか」
「担当者欄は、再開時に引き継がれます」
「再開しなかったら」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「閉じることになります」
「閉じるって」
「集落単位の死亡確認です」
ガルドは答えなかった。
ベルハイムの線の終点から、ようやく指を離した。
それから補助欄の三つの名前を、上から順に見た。
ハイネ・ルツ。
サラ・ベルン。
ミア・オル。
読み終えてから、サラ・ベルンの脇の括弧書きで、もう一度視線を止めた。
幼児ノア。母子同伴。
「子どもがいるのか」
「最終確認時点では」
「四歳」
「はい」
「鐘、鳴ってないんだろ」
「はい」
「灯りも、煙もない」
「はい」
ガルドは口を閉じた。
怒鳴れない種類のものを見ている顔だった。
昨日までと違うのは、その顔がベルハイムの方を向いていることだった。
リィナは机の左側からそのやり取りを見ていた。
札を押さえる手は止まっていた。
首元の札と、その下に並んだ二つの半分の乾パン。指は札の上にあったが、力はかかっていなかった。聞いていた。理解できる範囲だけ、聞いていた。
「ねえ」
ジャサントに向けて、小さく言う。
「何ですか」
「あなた、いくの?」
「決定次第です」
「決まったら」
「担当者欄に従います」
「ガルドも」
「補助欄に名前があります」
リィナはガルドの方を見た。
ガルドは振り向かなかった。
ベルハイムの補助欄、サラ・ベルンの行を、まだ見ていた。
「ふたりで」
リィナが言う。
「決定次第です」
「行ったら」
「業務を行います」
「業務」
「人口票の再確認、生存者の照合、必要に応じた処理」
「しょり——」
ジャサントは答えなかった。
リィナはそれ以上聞かなかった。
首元の札を一度だけ強く押さえ、すぐに離した。
ガルドが帳面から目を離した。
「決まる前に聞いとくぞ」
「はい」
「ベルハイムに着いて、もう誰もいなかったら」
「集落単位の死亡確認になります」
「いたら」
「生存者照合を行います」
「半分くらいいたら」
「氏名と状態を欄に記入します」
「片方の欄にしか入らないやつは」
「条件次第です」
ガルドは少しだけ笑いかけて、笑い切らなかった。
笑える内容ではなかった。
だが、聞き返さない代わりに、彼は地図の前から離れた。後衛装備の置き場の方へ歩いていく。鍛錬場ではなく、装備棚の方角だった。
ジャサントはその背中を欄に書かなかった。
書ける欄ではなかった。
だが、補助欄に既にある名前は、書き換えなかった。
書き換える理由がなくなったからだった。
ジャサントは机を片づけた。
地図はそのまま残す。決定が下りるまでは閉じない。
炭片は短くなっていた。明朝の補充が要る。
配給帳の不足欄は埋まっている。
未配給繰り越しの欄は、まだ一のままだった。
ベルハイムの頁は、更新停止三日目で止まっている。
担当者欄に、彼の名が残っている。
補助欄に、ガルドの名が残っている。
そして補助欄の三つの行に、ハイネ・ルツ、サラ・ベルン、ミア・オル、その脇に幼児ノア。
最終確認時点の位置で、並んだままだった。
棚の奥には、最初の半分の乾パンが残っていた。
リィナの服の内側には、二つの半分が並んでいた。
火床の脇の鉄鍋は底を見せていた。
中庭の長机の上には、束ごとに紐で分けられた札が残っていた。
南棟へ運ばれた束。
東列へ戻った束。
発熱疑いの束。
未照合の束。
死亡確認済みの束。
そして、まだどこへも移されない、ベルハイムの束。
百十七人ぶんの札が、最終確認時点の位置で並んだままだった。
夜が近づくと、中庭の声は少しずつ下がった。
鐘の音が一度鳴り、それきり鳴らなかった。
南の方角から、鳥の鳴き声は聞こえなかった。
ジャサントは記録室へ戻り、灯りを点けた。
帳面三冊を机に並べ直し、地図を手元に置いた。
明朝、上からの決定が下りる。
下りれば、欄が一つ書き換わる。
書き換われば、札の位置が動く。
位置が動けば、人が動く。
担当者欄に書かれた者も、補助欄に書かれた者も、その動きの中に入っていく。
優先決定、保留。
明朝、再評価。
担当者、引き継ぎ準備。
後衛補助、配置済み。
それだけだった。
ご拝読ありがとうございました。




