第10話 白い秤
翌朝、ジャサントは記録室の机の前に立っていた。
地図は昨夜のまま開かれている。三本の線も消されていない。机の端に置かれた帳面の優先決定欄は、空白のままだった。炭片は補充されたばかりで、長さが揃っている。砂壺の中の砂も、新しいものに替えてあった。
ジャサントは椅子を引かなかった。
立ったまま、上からの伝達札を待つ姿勢だった。記録担当者欄に名のある者は、決定の伝達を最初に受ける。受けた時点で、保留欄を書き換える必要があった。
外はまだ薄い。鐘は一度だけ鳴った。煮炊き場の煙も、いつもより細い。
伝達札はすぐに来た。
兵が一人、扉の脇に立った。封のついた小札を一枚、差し出す。封は赤糸。決定通達のしるしだった。
「ダグラス殿より」
「承知しました」
ジャサントは札を受け取り、糸を切った。
王都街道防衛、優先。
ベルハイム救援、保留。
編成、現有十六。配分、後段に明示。
決定者、ダグラス。
短い記述だった。
書き換える欄も短い。
ジャサントは周辺集落記録帳の優先決定欄を開き、保留の文字の横に新しい一行を書き足した。
王都街道、優先。
ベルハイム、保留。
決定時刻、本日早朝。
決定者、ダグラス。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じない。
配分の更新が残っている。
中央会議室は、記録室の奥にある。
机は四つ。地図一つ。座席は決まっている。今朝の出席は、ダグラス、ガルド、補修班長、そしてジャサント。エルヴァは呼ばれていない。決定後の医療配置は、決定が下りた後に伝えられる順だった。
ジャサントは記録帳と地図を持ち、扉の前で一度止まった。
リィナは廊下にはいなかった。
今朝は東列の縄をくぐり直していない。
記録室を出るとき、扉の外に足音はしなかった。
会議室に入ると、ダグラスが地図を見たまま顔を上げた。
「読んだか」
「はい」
「貼り直せ」
ジャサントは地図の上に、決定後の配分を重ねた。新しい線ではなく、既存の線の上に印を加える形だった。
王都街道。配置兵、十二。
弓台、三。
門前防衛、六。
機動予備、四。
補修班転用、二。
合計、二十三。
最大運用、十六。
数字は合わない。
ガルドが机の角を指で叩いた。
「届いてないだろ」
「補修班転用と機動予備の重複運用で計上しています」
「重複ってのは、両方やるってことか」
「順次対応です」
「片方が始まれば、もう片方は遅れる」
「はい」
「それで届くのか」
「現有戦力での到達点です」
ガルドは答えなかった。
ダグラスは机の上で指を組んだ。
「ベルハイムの欄は」
「保留のままです」
「兵力配分」
「なし」
「補給班」
「派遣なし」
「伝令」
「派遣なし」
「担当者欄」
「変更なし」
ダグラスはうなずかなかった。
ただ、地図のベルハイムの線の終点を、視線で確認した。
動かさない、と決めた者の見方だった。
ガルドが低く言う。
「村だぞ」
「承知しています」
「百十七人だ」
「最終確認時点では」
「もう、いないかもしれないだろ」
「未確認です」
「だから、行って確認するんじゃないのか」
「優先決定は王都街道です」
「そう書いてあるからか」
「決定だからです」
「決定は、変えられるだろ」
「決定者の権限内です」
ガルドはダグラスを見た。
ダグラスは地図から目を上げない。
組んだ指の位置も変えない。
「変えるか」
ガルドが言う。
ダグラスは少しだけ間を置いた。
「変えない」
「百十七だ」
「最終確認時点でな」
「鐘が鳴ってない」
「分かっている」
「灯りもない」
「分かっている」
「子どももいる」
ダグラスは初めて顔を上げた。
「ガルド」
「はい」
「兵数は、いくつだ」
「十六だ......」
「同時対応に必要なのは」
「三十二......」
「半分だ」
「はい」
「半分でやれと言うのか」
ガルドは答えなかった。
答えられないことは、最初から分かっていた。
それでも言わなければ収まらない種類のものを、彼は言葉にしただけだった。
ダグラスはもう一度地図を見た。ダグラスの目は揺れている。
「王都街道を取る......ベルハイムは保留」
「……」
「異議は記録に残せ。ジャサント」
「承知しました」
ジャサントは異議欄を開き、ガルドの名を書き入れた。
異議申立、ガルド。
理由、ベルハイム救援優先。
処理、却下。
記録のみ。
書き終えてから、炭を置いた。
ガルドは机の縁から手を離した。
拳を握ってはいなかった。
握っても欄が増えるだけだと、分かっている動きだった。
ダグラスが立ち上がった。
「配置を伝える。各班、準備。ジャサント、配給と医療の調整も合わせろ」
「承知しました」
「ベルハイムの担当者欄は」
「閉じません」
「そうか」
ダグラスはそれだけ言って、会議室を出た。
ガルドは出ていかなかった。
机の上の地図のベルハイムの線の終点を、また指で押さえた。
昨夜と同じ位置だった。
昨夜と違うのは、その線の脇に「保留」の二文字が書き加えられたことだった。
「補助欄のままか」
ガルドが言う。
「はい」
「保留のうちは、補助欄も生きている」
「規定上は」
「決まれば、書き換わるんだな」
「条件次第です」
「条件って何だ」
「再開、または閉鎖」
「閉鎖は」
「集落単位の死亡確認です」
ガルドは指を離した。
「決まるまで、俺の名前も保留か」
「補助欄に残ります」
「そうか」
それだけ言って、彼は会議室を出た。
鍛錬場の方ではなく、装備棚の方へ歩いていく音だった。
昨夜と同じ方角だった。
ジャサントは会議室を片づけ、記録室へ戻った。
机の上の帳面三冊を整え直す。
配給帳の今朝の欄を開き、配置決定を反映した修正を入れる。
弓台に回す兵には乾パン半量と水袋一を追加。
門前防衛には湯をひとつ多く。
補修班転用の二名分は、配給時間を後段に下げる。
順番は変わる。配分は変わる。
だが、合計は変わらない。
避難民登録帳の方も同様だった。
南棟移送可、停止。
東列再分配、継続。
発熱疑い、隔離棟確認後判定。
単独未成年、優先補充対象。
ベルハイム関係欄、変更なし。
ベルハイムの束は、机の中央に置いたままだった。
百十七人ぶんの札が、最終確認時点の位置で並んでいる。
書き換える欄はない。
動かす指示も来ていない。
紐の角を揃え直し、束の位置だけを少し奥へずらした。
机の中央から、机の端へ。
他の束の動線から外す位置だった。
中庭ではすでに配置が始まっていた。
王都街道の方角へ、兵が動く。弓台へ三、門前へ六、機動予備に四、補修班から転用の二。出立準備の声と、装備の鳴る音と、馬の蹄の音。すべて、王都街道の方角に向かっていた。
南の方角へ向かう動きはなかった。
ガルドは後衛装備の棚の前にいた。
札を一枚手に持っていた。後衛札補助欄の写しだった。彼の名が書かれた札だった。今朝の決定により、補助欄は保留扱いになっている。札はまだ有効だが、運用には入らない。
ジャサントは机からその様子を見ていた。
直接は見ていない。
中庭の方の音と、装備棚の動きの音の差で、ガルドがそこに立ち止まったままなのが分かった。
札を戻す音はしない。
持ったまま立っているのだろう。
書く欄ではなかった。
午前の半ば、リィナが記録室の前に来た。
今日は札を服の外に出していない。紐すら見えなかった。服の内側のどこかに、二つの半分の乾パンと一緒にしまってあるはずだった。位置だけが、昨日までと違っていた。
「決まったの」
リィナが小さく言う。
「決定が下りました」
「どっち」
「王都街道、優先」
「ベルハイムは」
「保留」
「行かないの」
「現時点では」
「ガルドは」
「補助欄、保留扱い」
「あなたは」
「担当者欄、変更なし」
リィナは少しだけ間を置いた。
「行かないけど、消えないの」
「担当者欄は閉じていません」
「補助欄も」
「保留のあいだは残ります」
「行ったら」
「業務を行います」
「行かなかったら」
「条件次第です」
リィナはうなずかなかった。
首元のあたりに手をやった。札は服の外に出ていない。だが、押さえる位置は変わらない。札と二つの半分の乾パンが、同じ高さで胸の内側にあった。
「保留って」
「決まっていない欄です」
「決まらないと」
「動かない」
「ずっと」
「再評価まで」
リィナはそれ以上聞かなかった。
うなずく代わりに、机の中央から端へ移されたベルハイムの束を見た。
動かないことが見える位置に置かれた束だった。
昼前、配給は予定通りに行われた。
王都街道へ向かう兵には先に渡された。
門前防衛の班には湯と乾パン半量。
弓台へは水袋追加。
残った避難民の列は、いつもより少し短い時間で動いた。減った分の人数が、今日はそのまま欠席の欄に入った。
未配給は、繰り越しの一名のまま据え置きだった。
火床の脇の棚の奥には、まだ半分の乾パンが残っている。
名前は書かれない。
ヨルは今日も配給を受け取った側にいた。
椀を抱えて、東列の壁際で食べている。
南棟へは行かないと言った男だった。
昨日と同じ位置にいた。
昼を少し過ぎた頃、最初の伝令が王都街道の方角から駆け戻ってきた。
息は上がっていたが、声は通っていた。
「先頭群、街道入口接触」
「目視数」
「十二、ないし十四」
「先頭」
「中型二、二型混成」
「弓台、有効」
「初撃、五体落とした。残り、停止」
「門前」
「保持」
「機動予備」
「未投入」
「損耗」
「軽傷一」
ジャサントは欄を更新した。
王都街道、初接触。
時刻、午刻過ぎ。
落下、五。
残り、停止。
弓台、有効。
門前、保持。
機動予備、未投入。
損耗、軽傷一。
書きながら、机の端のベルハイムの束を見た。
束は、朝と同じ位置にあった。
動いていない。
動かす指示は来ていない。
ガルドが配置から戻ってきて、報を見た。
「保っているな?」
「現時点では」
「機動予備はまだ動かないか」
「先頭群が街道入口で止まっています」
「止まれば」
「機動予備は不要です」
「ベルハイムには」
「派遣なし」
ガルドは答えなかった。
彼の新しい補助札は、機動予備の方を示している。だが彼の足元に、まだ後衛札の束の影があった。
保留のあいだは、両方の欄が残る。
「俺は、機動予備の方か」
「待機してください」
「待機———」
「投入時、指示を出します」
ガルドは記録室を出ていかなかった。
机の脇の壁際に、装備のまま立った。
機動予備として待機する位置は本来ここではないが、彼は動かなかった。
机の中央には王都街道の欄。
机の端にはベルハイムの束。
どちらも見える位置だった。
書く欄ではなかった。
午後の早い時間、二度目の伝令が来た。
「先頭群、街道入口で再接触」
「目視数」
「八」
「内訳」
「中型一、小型七」
「弓台」
「有効。残り三体まで削った」
「門前」
「接触一回。打撃で押し戻した」
「機動予備」
「未要請」
「損耗」
「軽傷追加二、重傷なし」
ジャサントは欄を埋めた。
王都街道、第二接触。
落下、五。
残り、三。
門前接触、一。
打撃、押し戻し。
機動予備、未要請。
損耗、軽傷三、重傷なし。
ガルドは札を持ったまま、欄を見た。
「弓台で止まってる」
「現時点では」
「機動予備、要らねえな」
「要請があれば動きます」
「来ねえなら」
「ここで待機です」
ガルドはそれ以上言わなかった。
ベルハイムの束に視線を一度だけ落とし、それから欄に戻した。
要請が来れば、彼は王都街道の方へ動く。
要請が来なければ、ここに残る。
どちらでも、ベルハイムへは向かわない。
それが今日の保留の意味だった。
午後の半ば、三度目の伝令。
「先頭群、街道入口で停滞」
「停滞」
「前進せず、後退もせず」
「弓台」
「届かない距離まで下がっている」
「門前」
「接触なし」
「南側斜面」
「視認範囲、変化なし」
「ベルハイム方角」
「灯り無、煙無、鐘無」
ジャサントは欄を埋めた。
王都街道、停滞。
前進、なし。
後退、なし。
弓台、無効距離。
門前、接触なし。
南側斜面、変化なし。
ベルハイム方角、依然変化なし。
ダグラスが記録室を一度通った。
欄を見て、地図を見て、それから一度だけ言った。
「保っているな」
「現時点では」
「機動予備、出すか」
「停滞中です」
「出すと」
「停滞が崩れる可能性があります」
「出さないと」
「停滞のまま」
ダグラスは少し間を置いた。
「出すな」
「承知しました」
「ベルハイム」
「変更なし」
「そうか」
ダグラスは出ていった。
ガルドは札を握り直した。
機動予備の方の札だった。
出さないと言われた方の札だった。
握っても欄は増えなかった。
夕刻が近づいた頃、四度目の伝令が来た。
「先頭群、後退」
「方向」
「南東。林縁に沿って」
「速度」
「人歩行同等」
「視認限界」
「林に入る前に消失」
「弓台」
「追撃せず」
「門前」
「保持」
「損耗」
「追加なし」
ジャサントは欄を更新した。
王都街道、後退確認。
方向、南東。
速度、人歩行同等。
追撃、なし。
損耗、追加なし。
本日損耗総数、軽傷三、重傷なし、死亡なし。
最後の三行を書きながら、彼は炭を一度止めた。
王都街道、本日の防衛、成立。
ベルハイム、変更なし。
二行のあいだに、空白がある。
書き加えられていない欄だった。
書ける欄でもなかった。
ベルハイムの束は、机の端で、朝と同じ位置にあった。
ガルドが札を棚に戻した。
機動予備の補助札は、未投入のまま今日の運用を終える。
後衛札の補助欄は、保留のまま今日の運用を終える。
両方とも、彼の名前が残ったまま夜を迎える。
「持ったな」
ガルドが言う。
「はい」
「王都街道は」
「保持」
「死人は」
「なし」
「ベルハイムは」
「変更なし」
「その差は」
ジャサントは答えなかった。
書く欄ではなかった。
ガルドもそれ以上聞かなかった。
聞いても欄は増えないと、分かっていた。
「明朝、再評価か」
「予定です」
「再評価で、再開になったら」
「担当者と補助欄が動きます」
「閉鎖になったら」
「集落単位の死亡確認です」
「どっちでも、行くんだな」
「再開なら、業務として。閉鎖なら、確認のため」
「俺の補助欄は」
「両方の場合、引き継がれます」
ガルドはうなずかなかった。
ただ、棚に戻した札の位置を一度だけ整え直した。
位置はもう、間違っていなかった。
リィナはまだ記録室の前にいた。
午前から動いていない。
ジャサントは一度だけ「宿泊区画へ戻ってください」と言ったが、リィナは「終わるまで」と答えた。それきり、互いに繰り返さなかった。
「終わったの」
リィナが小さく言う。
「王都街道、本日の防衛は終わりました」
「ベルハイムは」
「変更なし」
「死んだ人」
「王都街道、なし」
「ベルハイムは」
「未確認」
「未確認って」
「確認できていない、という意味です」
「いない、じゃないの」
「確認できていません」
リィナは札を押さえた。
首元のあたり。
服の外には何も出ていない。
押さえている指の下に、自分の札と、二つの半分の乾パンと、それから今朝書き加えた補助欄の紙の重さの記憶があった。
「行かないけど、行くんだ」
「明朝、再評価次第です」
「再評価って」
「決定の見直しです」
「変わるの」
「変わる場合があります」
「変わらないと」
「保留のまま」
「ずっと」
「再評価まで」
リィナは机の端のベルハイムの束を見た。
百十七人ぶんの札が、紐で揃えられたまま、最終確認時点の位置に並んでいる。
動いていない。
書き換えられていない。
名前のある人たちが、決まらないあいだだけ、まだそこにいることになっている。
ジャサントは当日分の最終欄を埋めた。
王都街道、防衛成立。
接触、四回。
落下、八。
損耗、軽傷三。
重傷、なし。
死亡、なし。
機動予備、未投入。
ベルハイム、変更なし。
担当者欄、引き継ぎ準備、継続。
補助欄、保留継続、ガルド。
配給、規定通り。
未配給繰り越し、一。
保存登録、リィナ、二。
明朝、ベルハイム再評価予定。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じない。
明朝、書き換える欄が残っている。
地図はまだ机の上にある。
王都街道の線。
ベルハイムの線。
南側斜面の進路線。
三本の線のうち、消されたものはなかった。
保留の二文字だけが、ベルハイムの線の脇に残っている。
ベルハイムの束は机の端にある。
動かされていない。
紐の位置は朝のままだった。
担当者欄に書かれた名前と、補助欄に残された名前は、まだそこにある。
そして夜が深くなる頃、ジャサントは記録帳の最後の欄に、明朝の再評価準備項目を書き足していた。
担当者引き継ぎ。
補助欄、保留継続。
人口票更新欄、空白のまま。
偵察派遣、未予定。
そのとき、装備棚の方で物音がした。
一度ではなかった。革の擦れ。鞘の鳴り。装備帯を締める金具の音。それから、馬具の方から短く木が鳴った。深夜の見回りの時間ではない。出立の音だった。
ジャサントは炭を置き、扉を開けた。
中庭の端、装備棚の脇に、ガルドが立っていた。
革鎧。
鉈と剣。
水袋一。
乾パン。
後衛装備一式。
機動予備の補助札は外され、棚の上に置かれていた。後衛札の方だけが、彼の首にかけ直されている。
「持ち場を離れています」
ジャサントが言う。
ガルドは振り向かなかった。
装備帯の最後の金具を留めただけだった。
「機動予備、未投入」
「はい」
「待機の指示が出てる」
「はい」
「今夜の指示は」
「動かないことです」
「分かった」
ガルドはそれだけ言って、装備帯から手を離した。
動かないことです、と聞いた直後の動作だった。
「行くつもりですか」
「ああ」
「決定は、王都街道優先です」
「読んだ」
「ベルハイムは保留です」
「読んだ」
「補助欄は、まだ運用に入っていません」
「分かってる」
「では、移動の根拠は」
ガルドは初めて振り向いた。
夜の灯りで、頬の細い裂けの跡が一度だけ濡れて見えた。
「ねえよ」
「指示違反です」
「分かってる」
「異議申立は、午前のうちに却下されています」
「分かってる」
「記録に残ります」
「残せ」
ジャサントは答えなかった。
ガルドは馬具の方へ歩いた。馬を出すつもりだった。だが、馬は動かなかった。深夜の単独出立に、夜番の馬丁が鞍を渡さなかったのだ。馬丁は遠くで黙って立っていた。止めはしないが、出しもしない。それだけの距離だった。
ガルドは馬を諦めた。徒歩でいいと判断したらしい。鉈の位置を確かめ、水袋を肩にかけ直し、東門ではなく裏門の方角へ向き直る。裏門は南の小道へ抜ける位置にあった。
「ジャサント」
「はい」
「俺の名前、書いといてくれ」
「どの欄にですか」
「保留欄じゃない方だ」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「指示違反、ガルド。
単独行動、夜半。
目的地、ベルハイム。
命令破棄、自認。
処理、追記後判断」
書きながら言った。
「これでよいですか」
「ああ」
「補助欄は」
「残しとけ」
「保留のままです」
「それでいい」
ガルドはもう振り向かなかった。
裏門の方へ歩いていく。装備の音が一定の速さで遠ざかる。
ジャサントは欄を閉じなかった。
書き加えるだけ書き加え、頁は開いたままにしておく。
明朝の再評価で、この欄の処理が決まる。
処理が決まれば、追走か、放置か、回収か、いずれかの欄が立つ。
どの欄が立つかは、彼の判断ではなかった。
ご拝読ありがとうございました。




