第11話 礼拝堂
明け方の鐘の前に、ジャサントは記録室の机の前に立っていた。
机の上の帳面は、昨夜のまま閉じられている。机の中央にはベルハイムの束、その隣にヴィスタの束。机の左端には、束に入らないままのノアの札と、その脇に、リィナの札。机の右端には、リュド・カインの軽傷者欄、軽務復帰可。机の脇には、観察記録欄の累積七件。
そして、昨朝書かれた一行が、余白に残っている。
同伴、可。
筆跡はエルヴァのものだった。
伝達札が記録室に届いたのは、配給前のことだった。封は赤糸。決定通達のしるしだった。
「ダグラス殿より」
「承知しました」
ジャサントは札を受け取り、糸を切った。
王都街道、迎撃任務。 第二派本隊、接触の兆候、未明の偵察報。 中型十、大型一、推定数。 担当者、ジャサント。 補助、ガルド、機動予備、復帰戦組三名。 復帰戦組、ハルク、ダレス、リュド・カイン。 編成、出撃可能員全。 出発、本日午前。 帰還予定、未定。 決定者、ダグラス。
ジャサントは札を二度読んだ。
エルヴァが記録室の入口に立っていた。
「ジャサント」
「はい」
「本日の出撃、編成の確認です」
「読み上げてください」
ジャサントは伝達札の上に帳面を開いた。エルヴァは脇から罫線を指で押さえた。
「担当者、ジャサント」
「補助欄」
「ガルド、機動予備指揮」
「復帰戦組」
「ハルク、ダレス、リュド・カイン」
「リュド・カインは」
「軽傷者欄、軽務復帰可、本日付、実戦復帰」
エルヴァは少しだけ間を置いた。
「ハルクの脇腹は、規定の経過観察明けですが、深い振りはまだ早いと思います」
「観察記録ですか」
「観察記録です」
「ダレスは、息継ぎが浅い時間が、一日に二度あります」
「了解です」
「両名、戦場での位置を、後ろの方に置けますか」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「街道の中段、ガルドのすぐ脇に置きます」
「ガルドの脇」
「ガルドが指揮、両名の動きを直接見られる位置」
「分かりました」
エルヴァは帳面に書き入れた。書き終えてから、もう一度、ジャサントの方を見た。
「ジャサント」
「はい」
「胸甲の洗浄欄、本日付の出撃前、まだ閉じていません」
「昨夜の侵入の血ですか」
「はい」
「閉じてから出撃します」
「分かりました」
それから、エルヴァは少しだけ言葉を選んだ。
「もう一点、ご報告があります」
「どうぞ」
「先月の王都街道戦で応急処置をした親子、覚えておられますか」
「氏名を」
「サヤ、ミナ・オル」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「街道の北の縁、肩の縫合と、止血」
「はい。母娘です」
「本日の状態は」
「ミナ・オル、肩固定具、本日付で外す予定です。母サヤ、付き添い」
「立ち会いは」
「私です」
「了解です」
「固定解除は、戦闘の後、病舎の再編の流れの中で行います」
「分かりました」
ーーー
胸甲の洗浄は、井戸の脇で行われた。
エルヴァが布を絞り、ジャサントが胸甲を外して台に置いた。血の跳ねは、胸甲の右上、第三隊の刻印の脇にあった。昨夜の侵入の血だった。中型のものだった。
エルヴァが布で拭いた。布は乾いた色から、薄い赤に変わった。井戸の水で布を絞り直し、もう一度拭いた。胸甲の表面は、刻印の縁の溝に、まだ赤の薄い線が残っていた。
「溝の縁、もう一度」
「お願いします」
エルヴァは布を絞り直した。三度目で、溝の縁の薄い線が消えた。
──胸甲、洗浄、本日付、出撃前。 ──血の跳ね、第三隊刻印脇、中型由来、昨夜の侵入分。 ──確認、エルヴァ。
ーーー
中庭の長机の左端には、リィナがいた。
ノアもいた。煮炊き場の女が、二人の脇に立っていた。今朝のリィナは、机の左端の角に、両手を置いていた。
ジャサントが机の左端を通った時、リィナは言った。
「ねえ」
「何ですか」
「いくの」
「王都街道、迎撃任務」
「あの人たち」
「ガルド、機動予備指揮。ハルク、ダレス、リュド・カイン、復帰戦組」
「戻ってくる」
「予定では」
「うん」
リィナはうなずいた。 ノアの手が、リィナの腕の方へ伸びた。リィナは、ノアの手を、握り返さなかった。 だが、ノアの手が伸びたまま、止まる位置に、リィナは自分の手を置いた。
ノアの手は、リィナの手の上に乗った。
「ジャサント」
リィナが言う。
「はい」
「胸の、これ」
リィナは、ジャサントの胸甲の、第三隊の刻印の脇を、指で示した。指は触れていない。半歩、離れていた。
「洗浄欄、閉じました」
「うん」
「閉じてから、出撃」
「うん」
リィナはうなずいた。それ以上、続けなかった。
ーーー
王都街道は、砦から南に下る。
街道は、両側を林の縁に挟まれている。中央に幅五間の道。北からの隊列は、その道を南へ進む。
編成は、こう組まれた。
ジャサントは隊列の先頭、街道の中央。剣の届く距離で、敵を最初に受ける位置だった。
その後ろに、機動予備の列。街道の左にリュド・カインが槍を持って立つ。街道の右にハルクとダレスが剣を持って立つ。ハルクとダレスのすぐ脇——街道の中心側、つまり二人の左隣——にガルドが立った。ガルドは機動予備全体の指揮を執りながら、ハルクとダレスの動きを直接見られる位置にいた。
街道の半里南で、最初の中型と接触した。
中型二が、林の縁から扇状に出てきた。
ジャサントは半歩、左へ動いた。剣の先が、跳躍中の中型の喉に通る角度。骨の浅い位置で抜けた。一撃で落ちた。戻りも速い。
第二の中型が、ジャサントの右側を抜けようとした。剣の戻りで、首の付け根に刃を入れた。落ちた。戻りも速い。
「中段、進む」
ガルドの声が背後で飛んだ。隊列が街道の縁を進んだ。リュド・カインの槍が、林の縁から出てきた小型の頭を貫いた。一撃。戻りも速い。
ハルクとダレスは、街道の右、ガルドの左隣で、剣を握っていた。ハルクの呼吸は、規定通りだった。
ーーー
街道の三里南、林の縁の窪地で、本隊と接触した。
中型八、大型一。窪地の縁から、扇状に出てきた。
ジャサントは隊列の先頭で、剣を抜いた。
ガルドに向けて告げた。
「大型は私が」
「中型は中段で」
「分かった」
ガルドが指示を飛ばした。隊列の左、リュド・カインが槍を構えた。隊列の右、ハルクとダレスが剣を構えた。ガルドはハルクとダレスの左隣に立った。
最初の中型が、街道の左から飛んだ。リュド・カインの槍が、首の付け根を貫いた。落ちた。
第二の中型が、街道の右、ハルクの方角へ向かった。ハルクは剣を抜き、踏み込んだ。振りが、深く入った。中型の喉まで届いた。落ちた。だが、戻りが、規定の半拍、遅れた。
ハルクは、息を一度、深く吸った。脇腹の縫合の位置に手を当てた。手は離した。剣を握り直した。
ガルドが、ハルクの左隣で短く言った。
「ハルク、下がれ」
「いえ」
「下がれ」
「いえ」
ハルクは、下がらなかった。第三の中型が、街道の右の縁から飛んだ。ハルクは剣を振った。届いた。だが、戻りが、また半拍、遅れた。
第四の中型が、ハルクの背後から飛んだ。
ガルドの剣が、第四の中型の喉に届いた。だが、ハルクの肩は、第四の中型の腕に届かれた。骨の浅い位置だった。だが、深かった。ハルクは膝をついた。
「ハルク」
ガルドが叫んだ。
ジャサントは、大型の前にいた。
大型は、窪地の縁の岩の脇から出てきていた。腕の長さは、剣の二本分。脚の関節は、剣の届かない位置にある。ジャサントは大型の前脚の関節を狙った。剣の先が届いた。深くは入らない。だが、関節の半分まで届いた。大型は進路を変えなかった。
ジャサントは、半歩、右へ動いた。剣の戻りで、腱の位置に刃を入れた。届いた。深くは入らない。だが、腱の半分まで届いた。大型の前脚が、半歩、沈んだ。
「ジャサント、ハルクが」
ガルドの声が、隊列の右から飛んだ。
ジャサントは、大型の前から動かなかった。動けば、大型の腕の振りが、隊列の右——リュド・カインとハルクとダレスのいる位置——に届く。
剣の戻りで、もう一度、腱の位置に刃を入れた。届いた。前脚が、もう半歩、沈んだ。
ダレスは、街道の右、ハルクの少し後ろで、立っていた。剣を握る手が、震えていた。第四の中型の腕の振りが、ハルクの肩に届いた時、その振りの末端が、ダレスの脇腹をかすめていた。皮膚の色だけでは見えない位置だった。ダレスは、剣を握る手を、離さなかった。
大型の前脚が、完全に沈んだ。ジャサントは、剣を持ち直した。喉の位置に届く角度に、踏み込んだ。剣の先が、喉に通った。骨の浅い位置で抜けた。大型は崩れた。
ジャサントは、剣の戻りで、第五の中型の頭を断った。中型の数が、減っていた。残りは三、二、一。隊列の左の槍が、最後の一を止めた。
「終結」
ジャサントは、隊列の右に向き直った。
ーーー
ハルクは、膝をついていた。肩の傷から、血が出ていた。深かった。ガルドが、ハルクの脇に立っていた。剣は握ったままだった。
ジャサントは、ハルクの方へ歩いた。
「ハルク」
「はい」
「肩」
「届かれました」
「呼吸は」
「浅いです」
「脈は」
ジャサントはハルクの手首に指を置いた。脈は、規定の下限の下にあった。
ガルドが、ジャサントを見ていた。
「ジャサント」
「はい」
「お前、なぜ動かなかった」
「大型の前から動けば、隊列の右に届きます」
「ハルクとダレスは、隊列の右」
「ガルドの左隣」
「内側にいた。だが、ハルクは下がらなかった」
「下がらなかったのは、ハルクです」
「お前は、大型の前から止められた」
「止める手は、大型の前を離れることです」
「離れたら、どうなる」
「大型の腕の振りが、隊列の右に届きます」
「リュド・カインもいる」
「リュド・カインは槍。届く位置と、届かれる位置が違います」
「ハルクとダレスは剣」
「届く位置と、届かれる位置が、近いです」
ガルドは、何も言わなかった。それから、息を一度、吐いた。
「分かった」
ーーー
戦闘終了から半刻、ハルクの呼吸が止まった。
ジャサントは、ハルクの手首に指を置いた。脈はなかった。皮膚色は薄い。瞳孔の反応はない。
「黒印を」
ガルドに向けて告げた。
ガルドは、エルヴァの帳面を運んできていた。エルヴァは砦に残っている。記録は、ジャサントが書く。
ジャサントは、帳面に黒印を押した。罫線の上、ハルクの名の横に、黒い円が一つ。
──ハルク、本日付、王都街道、迎撃任務中、戦闘中死亡。 ──外傷、左肩、深部到達、中型四体目由来。 ──確認者、ジャサント。
ダレスが、ハルクの脇に立った。剣を握る手は、まだ震えていた。剣を、地面に置いた。ハルクの手を、握った。
「ジャサント」
ダレスが言う。
「はい」
「兄さん、保存登録欄」
「空欄です」
「埋める。兄さんが、昨日の夜、寝台で、言ってた」
「内容を」
「右肩の傷、十二歳の冬、家の前で。腹部、先月、ベルハイム前。それだけ」
ジャサントは書き入れた。
──ハルク、保存登録欄、本人申し出、本日前夜、寝台にて。 ──右肩の傷、十二歳の冬、家の前で。 ──腹部、先月、ベルハイム前。 ──申し出受領、ダレス。 ──記録、ジャサント、本日付。
書き終えてから、ダレスの方を見た。ダレスの皮膚色が、薄かった。
「ダレス」
「はい」
「皮膚色」
「薄いです」
「いつから」
「中型の四体目から」
「脇腹」
「届かれています」
「申告は」
「いま」
ジャサントは、ダレスの手首に指を置いた。脈は、規定の下限に触れていた。
「あなたの保存登録欄も、書きますか」
「兄さんと、同じ頁で」
「分かりました」
「左の足首、肩。それだけ」
「年齢は」
「十六」
「所属は」
「第三隊、復帰戦組」
ジャサントは書き入れた。
──ダレス、保存登録欄、本人申し出、本日付、戦闘終了直後。 ──左の足首、肩。 ──年齢、十六。所属、第三隊、復帰戦組。 ──ハルクの名の頁の、下の枝として記載。
ダレスは、ハルクの手を、まだ握っていた。
ーーー
ダレスの呼吸が、戦闘終了から一刻後、止まった。
ジャサントは、ダレスの手首に指を置いた。脈はなかった。
帳面に黒印を押した。罫線の上、ダレスの名の横に、黒い円が一つ。ハルクの名の横の黒い円と、同じ頁の上下の枝として、並んだ。
──ダレス、本日付、王都街道、迎撃任務中、戦闘終了後一刻、外傷由来死亡。 ──外傷、脇腹、深部到達、中型四体目由来、戦闘中受傷、申告なし。 ──確認者、ジャサント。
ーーー
帰路、ジャサントの胸甲には、新しい血の跳ねが、いくつかあった。
中型五体由来、大型一体由来、ハルクの肩の血一回分、ダレスの脇腹の血一回分。位置は、第三隊の刻印の脇、肩の縁、腰の右、それぞれ違っていた。
ガルドが、ジャサントの脇に立っていた。
「ジャサント」
「はい」
「ハルクとダレスは、戻ってこない」
「戻りません」
「両名、同じ頁の上下の枝に書いた」
「書きました」
「それで、いいんだろうな」
「保存登録欄の規定通りです」
ガルドは、それ以上、何も言わなかった。
ーーー
砦の病舎は、王都街道の負傷者の収容で、許容を超えていた。
帰還した隊列は、東門の手前で、一度止まった。負傷者の重さの順で、収容の順が決まる。
エルヴァが東門の脇に立っていた。
「ジャサント」
「はい」
「収容の手順、再編が必要です」
「読み上げてください」
ジャサントは帳面を開いた。エルヴァが脇から罫線を指で押さえた。
「現員、二十一」
「許容、十八」
「超過、三」
「内訳は」
「重症区画、五。中等症区画、九。軽症区画、七」
「本日の負傷者、追加は」
「リュド・カイン、軽傷、軽症区画。負傷者なし、機動予備全」
「では、現員は」
「二十二」
「超過、四」
「再編します」
ーーー
ジャサントは、配給台の前に立った。
配給台の上には、現員の木札の束がある。札を一枚ずつ取り、刻印を読み、束を分けていく。
「歩行可、発熱なし、止血完了の者」
「四名」
「氏名を」
「トルク、サナ、ミナ・オル、コル」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「ミナ・オル」
「肩固定、本日付で外す予定です」
「立ち会いは」
「あなたです」
「分かりました」
エルヴァは帳面に書き入れた。
ジャサントは、現員の束から四枚を取り、別の束に移した。トルクとコルは原隊復帰の束。サナとミナ・オルは保護区画の束。
「保護区画の現員は」
「六、許容六、満員」
「再編します」
ジャサントは、保護区画の札の束を引き寄せた。札の名を順に読み上げる。短い名が六つ。最後の二つはリィナとノアの名だった。
「リィナ、ノア、両名の在籍区分は」
「観察対象、配属待ち」
「在籍枠の中で扱うか、外で扱うか」
「規定上、配属待ちは在籍枠の外に置くことができます」
「外に出します」
エルヴァは帳面に印をつけた。
「これで、保護区画の現員は四。許容まで二の余裕」
「サナとミナ・オルを移します」
「分かりました」
ジャサントは、サナとミナ・オルの札を、現員の束から保護区画の束へ移した。トルクとコルの札を、現員の束から原隊復帰の束へ移した。
ハルクとダレスの札を、現員の束から外した。黒印付きの一時掛けへ移した。書く。印をつける。移す。紐の位置を揃える。
順番は、いつもと同じだった。
配給台の上で、木札の束が四つに分かれた。現員、保護区画、原隊復帰、照合待ち。
ジャサントは四つの束を、順に確認した。
「現員、十六。保護区画、六。原隊復帰、二。照合待ち、二」
「許容内に戻りました」
「はい」
ーーー
ミナ・オルの肩の固定具を外す手順は、病舎の中等症区画の隅で行われた。
ミナ・オルは、寝台の縁に座っていた。十二歳。肩の固定具は、先月の王都街道戦で、ジャサントが応急処置をした位置にあった。あの日、街道の北の縁で、ミナ・オルは中型の腕の振りに肩を届かれていた。ジャサントは止血を行い、肩の縫合を行った。母サヤが、その脇で子の腕を支えていた。
母サヤが、寝台の脇に立っていた。
ジャサントが、寝台の前に立った。
「ミナ・オル」
「はい」
「肩、確認します」
「うん」
ジャサントは固定具の留め具を外した。縫合の位置は、規定の経過観察通りに塞がっていた。皮膚色、規定通り。発熱、なし。可動域、規定の半分まで。
エルヴァが脇で書き入れた。
──ミナ・オル、肩固定具、本日付、解除。 ──縫合位置、規定通り。 ──可動域、規定の半分。 ──立ち会い、エルヴァ。 ──担当、ジャサント。
ジャサントは、固定具を寝台の脇の台に置いた。
サヤが、その動作を見ていた。
「あなた」
サヤが言う。
「はい」
「あの時の」
「王都街道の北の縁」
「肩、縫ってくれた」
「規定通りの応急処置です」
サヤは、少しだけ間を置いた。
「やさしくしてくれてた人ね」
ジャサントは、答えなかった。 書く欄ではあった。 書ける欄でもあった。 だが、書かれた事実は、サヤの記憶の中で、別の形をしていた。 あの日、街道の北の縁で行われたのは、止血と縫合だった。手順だった。 サヤの記憶の中では、別の形をしていた。
ジャサントは、サヤの方を見ない。
「ミナ・オル、肩固定具、本日付で解除」
エルヴァに向けて告げた。
「分かりました」
「保護区画への移動、本日中」
「立ち会います」
「お願いします」
ーーー
机の左端には、リィナが立っていた。
ノアもいた。煮炊き場の女が、二人の脇に立っていた。
リィナは、サヤの言葉を聞いていた。寝台の隅から、見ていた。
ジャサントが机の左端を通った時、リィナが言った。
「ねえ」
「何ですか」
「いまの人」
「サヤ。子はミナ・オル」
「やさしくしてた、って」
「先月、王都街道の北の縁で、止血と縫合」
「やさしくしてた、って言ってた」
「サヤさんの記憶です」
「あなたは」
「規定通りの応急処置」
リィナは少しだけ間を置いた。
「ジャサント」
「はい」
「ハルクの人と、ダレスの人」
「保存登録欄、同一頁、上下の枝」
「戻ってこない」
「戻りません」
「やさしくしてた」
「保存登録欄の規定通りです」
リィナは、机の左端の角に、両手を置いた。 今朝より、握る力は、弱かった。
「わたしも、書く」
「内容を」
「兄さんとダレスの人、忘れない」
「保存登録欄の本人記載、可能です」
「書く」
エルヴァが帳面を開いた。リィナの保存登録欄の頁の、隣の欄に、書き入れた。
──立ち会い記録、リィナ。 ──ハルク、ダレス、両名、保存登録欄、同一頁、上下の枝。 ──本人記載、リィナ、本日付。 ──忘れない。
リィナは、書かれた頁を、見ていた。 それから、ノアの方を見た。
「ノア」
「うん」
「忘れない」
「うん」
ノアは答えた。
ーーー
胸甲の洗浄は、夜の井戸の脇で行われた。
エルヴァが布を絞り、ジャサントが胸甲を外して台に置いた。血の跳ねは、第三隊の刻印の脇、肩の縁、腰の右、三箇所にあった。
エルヴァが布で拭いた。布は乾いた色から、薄い赤に変わった。井戸の水で布を絞り直し、もう一度拭いた。第三隊の刻印の脇は、二度で消えた。肩の縁は、三度で消えた。腰の右は、溝の縁に薄い線が残っていた。
「腰の右、溝の縁」
「お願いします」
エルヴァは布を絞り直した。四度目で、溝の縁の薄い線が消えた。
──胸甲、洗浄、本日付、出撃後。 ──血の跳ね、第三隊刻印脇、肩の縁、腰の右、三箇所。 ──由来、中型五、大型一、ハルク一、ダレス一。 ──確認、エルヴァ。 ──閉じる。
エルヴァは、書き終えてから、ジャサントの方を見た。
「ジャサント」
「はい」
「胸甲の血の跳ねの位置、洗浄欄、本日付で閉じました」
「了解です」
「今朝の出撃前に閉じた位置とは、別の位置です」
「観察記録ですか」
「観察記録です」
ジャサントは、答えなかった。
ーーー
夜が近づくと、中庭の声は少しずつ下がった。
煮炊き場の鉄鍋は片付けられた。火床の脇の棚の奥に、半分の乾パンが一つ残っていた。誰の名で書かれるかは、決まらない。
ジャサントは記録室の灯りを点けた。 明朝の業務予定を書く。
病舎再編、本日付、完了。 現員、二十二から十六へ。 退去、トルク、コル、原隊復帰。サナ、ミナ・オル、保護区画。 ハルク、ダレス、黒印、本日付、王都街道戦中および戦闘終了後一刻。 両名、保存登録欄、同一頁、上下の枝、本人申し出受領、ダレスおよびジャサント。 リュド・カイン、軽傷者欄、軽症区画継続。 ガルド、機動予備指揮、損耗なし。 ミナ・オル、肩固定具、本日付、解除。立ち会い、エルヴァ。担当、ジャサント。 母サヤ、付き添い、机の左端で「やさしくしてくれてた人」と発言。 胸甲、洗浄欄、本日付、出撃後、閉じる。 立ち会い記録、リィナ、本日付、ハルク・ダレス両名、忘れない。
その下に、もう一行。
観察記録、本日付。 サヤ、ジャサントを「やさしくしてくれてた人」として記憶。 先月、王都街道の北の縁、止血と縫合の手順。 記憶、訂正せず。 リィナ、サヤの発言を、机の左端で聴取。 処理、現状維持、要継続観察。
砂を振る。 頁を乾かす。 閉じる。
ーーー
机の上の帳面は、すべて閉じられた。
机の中央のベルハイムの束は、薄くなったままだった。 机の中央の隣のヴィスタの束は、署名札のないまま立っていた。 机の左端のノアの札は、束に入らないまま朝を待った。 その脇のリィナの札も、束に入らないままだった。 机の右端のリュド・カインの欄は、軽傷者欄、軽症区画継続だった。 机の脇の観察記録欄は、累積八件になっていた。
そして、新しく書かれた欄が三つ。 ハルク、戦闘中死亡。 ダレス、戦闘終了後一刻、外傷由来死亡。 両名、保存登録欄、同一頁、上下の枝。
書かれた欄だった。 書ける欄だった。 書かれた対象は、戦闘中、戦闘終了後一刻、という二つの時刻だった。 両名の名は、同一頁の、上下の枝として、並んでいた。
そして、書かれない欄も、その隣に、半歩の距離で開いていた。 サヤが、ジャサントを「やさしくしてくれてた人」として記憶していた、という発言。 先月、王都街道の北の縁で行われたのは、止血と縫合の手順だった。 書かれた事実と、サヤの記憶は、別の形をしていた。 書く欄ではない位置だった。 だが、リィナが、机の左端で、その発言を聴取した。
ーーー
リィナは机の左端で、もう一度、ノアの木札を、首元から確認した。
「ある」
ノアが頷いた。
「ある」
リィナは、机の左端の角に並べた、二つの半分の乾パンを、胸の内側に戻した。
「リィナ」
ジャサントが言う。
「うん」
「東列の縄をくぐってください」
「あした、ここにいる」
「明日です」
「うん」
「今は戻ってください」
「うん」
リィナはうなずいた。机の左端から半歩、離れた。それから、もう半歩、離れた。二歩で、机から離れた。
東列の縄の前で、一度だけ立ち止まった。
「ねえ」
「何ですか」
「あの人、やさしくしてた、って」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「サヤさんの記憶です」
「あなたは、やさしいの」
「規定通りの応急処置でした」
リィナは、それ以上、聞かなかった。 うなずきもしなかった。 ただ、東列の縄をくぐった。
ーーー
ジャサントは記録室の灯りを消した。
胸甲の血の跳ねの位置は、洗浄欄で閉じた。 出撃前に閉じた位置と、出撃後に閉じた位置は、別の位置だった。 書く欄ではあった。 書ける欄でもあった。 書かれた対象は、胸甲の表面の、刻印の脇、肩の縁、腰の右、三箇所だった。
ハルクとダレスの保存登録欄は、同一頁の上下の枝として、本日付で記載された。 リィナの立ち会い記録欄に、両名、忘れない、の一行が書かれた。
サヤの「やさしくしてくれてた人ね」は、どの欄にも書かれなかった。 書かれない欄だった。 だが、リィナの「あなたは、やさしいの」は、その隣で、聴取されていた。
ご拝読ありがとうございました。次回でこの章は完結します。
次回の更新も明日15時を予定しています。




