第12話 保護対象一名
夜が明けきらないうちから、記録室の机にはもう三冊の帳面が並んでいた。
中央に避難民登録、左に配給帳、右に周辺集落記録帳。机の端には炭片が二本、新しい砂壺、黒印箱、紐の束。地図はまだ昨日のまま広げられている。ベルハイムの線の脇には、保留の二文字と、その下の新しい一行が残っていた。現地確認、完了。保留、解除。担当者、引き継ぎ、ジャサント。
ジャサントは椅子に座らなかった。
立ったまま、昨日の最終欄を読み返す。書き換えのない欄、書き換えられた欄、書き換えなければならない欄。三種類が同じ頁の中で並んでいた。彼女は炭を置き、新しい頁を開いた。今日は、書き換える側ではなく、書き加える側の作業が多かった。
数値を確認する。
死亡確認、追加七、礼拝堂内一、外周三、村内残存三。
保護対象、追加一、ノア。
損耗追加、ガルド、脇腹咬傷。経過観察。
未確認、村内残存、追加確認要、九件。
ベルハイム束、再編成対象、九十四。
配給対象、増一、ノア。
未配給繰り越し、一、変動なし。
保存登録、リィナ、二、変動なし。
単独未成年、増一、リィナ続き、ノア追加。
仮保護、増一、ノア。
数字を書き終えてから、彼女は補助欄をもう一度開いた。
ハイネ・ルツ。男。北井戸補修補助。死亡確認、外周。
サラ・ベルン。女。礼拝堂避難補助。死亡確認、礼拝堂内。
ミア・オル。女。乾パン配分補助。未確認、村内残存、追加確認要。
三つの行のうち二つに、黒印が入った。
一つだけが、まだ入っていなかった。
書ける欄ではない。書けない欄として残った。
ジャサントは砂を振る。
頁を乾かす。
閉じない。
今日、再配置の途中で書き加える欄が増える。
外はまだ薄い。鐘は一度だけ鳴った。煮炊き場の煙はいつもより細い。昨日の夜のうちに、王都街道から戻った兵の処理が一部残っているからだった。担当はエルヴァで、ジャサントの欄ではない。だが、影響は配給と区画再配置の両方に及ぶ。順番だけ整える必要があった。
扉の前で、足音が止まった。
軽い。一定の速さで、止まらない。
リィナだった。
「東列三番、出てきました」
ジャサントは扉を開けずに言った。リィナの足音が止まる位置と、東列の縄の前から記録室までの距離は、もう数日同じだった。
「うん」
「再編成は、本日午前から」
「うん」
「ノアの隔離棟経過観察は、エルヴァの判断後」
「うん」
「邪魔にならない位置で待機してください」
「ここなら」
「問題ありません」
リィナは扉の外で、壁際に立ったままだった。
今日は札を服の外には出していない。紐すら見えない。胸の内側に、彼女の札と二つの半分の乾パンと、それから昨日見たノアの布の高さの記憶が、まだ残っている位置にあった。
ジャサントは中庭へ出た。
長机が三つ並べられていた。再編成のための分類台だった。中央の台の前に立ち、各区画から集められた札の束を確かめる。東列の束、西列の束、隔離棟経過観察の束、南棟移送の束、未配置の束。そして、机の中央に置かれた、ベルハイムの束。
ベルハイムの束は、昨日の朝より薄くなっていた。
死亡確認済みの札が、別の束へ移されたぶんだった。
新しく加わった一枚は、束の上に重ねず、机の左端、記録台の脇に置かれていた。
ノア。男。四。保護対象、幼児一。母、死亡確認済み。父、未確認。
紐は新しい。
札の角はまだ柔らかい。
昨日の夕刻、ジャサントが書いた。
書いたまま、束には入れていない。
入れる欄が、まだ立っていなかった。
エルヴァが隔離棟の方から来た。
「ノア、経過観察、継続」
「発熱は」
「なし」
「咬傷は」
「なし」
「呼吸は」
「深い。安定している」
「食事は」
「煮炊き場の女が湯を含ませた。受け付けた」
「水分摂取、確認」
「完了しています」
エルヴァは机の左端のノアの札を見た。視線は短い。診断ではない。確認だけだった。
「あの子の隣に配置しますか?」
あの子とは、リィナのことを示しているのだろう。
「現時点では別欄です」
「保護対象、幼児一」
「はい」
「単独未成年欄ではなくですか?」
「保護者、母、死亡確認済み。父、未確認」
「未確認のうちは、単独欄に入れる扱いでしたね」
「規定上は」
「だけど別にしたのですか?」
「保護対象が新規に立っています」
エルヴァは少しだけ間を置いた。
「あの子が起きたら、伝えるのは誰ですか」
ジャサントは答えなかった。
書ける欄ではなかった。
だが、エルヴァはそれ以上聞かなかった。
診断ではないところで、ノアの行が一つ立っていた。それだけを確認して、彼女は隔離棟へ戻った。
午前の早い時間、ガルドが装備棚の前を通った。
脇腹には新しい布が当てられている。革帯ではなく、白い包帯になっていた。エルヴァが昨夜のうちに巻き直した。歩行は可能。剣は持てる。振りはまだ控える方がよい、という診断だった。彼の補助札は機動予備の方に戻され、後衛札の補助欄には、今朝、別の名前が書かれていた。保留扱いは解除になっていた。
ジャサントは机の前で札を見ていた。
「補助欄、書き換えました」
「ああ」
「機動予備の方も、待機解除」
「ああ」
「ベルハイム関係欄は、本日中に再編成」
「了解した」
ガルドはそれだけ言って、装備棚に札を戻した。
昨夜と違い、両方の手で札を整えた。
保留の二文字が消えた欄に、彼の名前は普通に並んでいた。並び方には、特別な意味はない。並び方が普通であること自体が、書き換えのあとの欄の形だった。
「ジャサント」
「はい」
「あの子は」
「ノア」
「隔離棟か」
「経過観察中です」
「いつまでだ」
「条件次第です」
ガルドは少しだけ間を置いた。
「条件って」
「発熱、咬傷、感染兆候の三項目について、規定の期間、変化なし」
「変化が出たら」
「再判断です」
「変化が出なかったら」
「保護対象として、再配置」
「どこに」
「現時点では未定」
ガルドはうなずかなかった。
うなずきもしなかったが、聞き終えた顔をしていた。昨日の礼拝堂の前で、立ち会いだけで足りた者の顔だった。
「俺の補助欄」
「機動予備のみ、運用中」
「ベルハイムの方は」
「再編成終了後、補助欄は閉鎖」
「閉じるのか」
「現地確認は完了しました」
「再評価で動くことはあるのか」
「未確認九件の追加確認次第です」
ガルドは札を整えた手を、もう一度棚に置いた。
保留が外れた欄は、書き換えても同じ位置に残る。
だが、閉じれば消える。
彼の名前が消える側の欄が、今日から立ち始めていた。
リィナは中庭の長机の左側に立っていた。
昨日と同じ位置だった。
ただ、昨日と違うのは、視線の位置だった。
机の中央に置かれたベルハイムの束ではなく、机の左端に置かれたノアの札を見ていた。
「これ」
「ノア」
「保護対象」
「幼児、一・・・」
「たんどくみせいねん・・・?」
「保護対象が新規に立っています」
「わたしと、違うの」
「あなたは仮保護、保存登録あり」
「あの子は」
「保護対象、母死亡確認、父未確認」
「同じ」
「欄の名前は別です」
「中身は」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「条件次第です」
リィナは札を押さえなかった。
今朝は、押さえる動作よりも、見る動作の方が多かった。
ノアの札を見る。
机の中央のベルハイムの束を見る。
机の右端の隔離棟経過観察の束を見る。
最後に、自分の胸の内側、服の外には何も出ていない位置を、軽くだけ確かめた。
午前の半ば、再編成が始まった。
最初に呼ばれたのは、王都街道戦の軽傷者三名だった。歩行可、発熱なし、付き添い不要。条件としては東列再分配に該当する。札を移す。書く。印をつける。移す。順番は変わらない。
二人目で、ガルドの名が呼ばれた。
彼は呼ばれた位置に立たなかった。
呼ばれる側ではなく、呼ぶ側に立っていた。
補助欄、運用回復。脇腹経過観察。歩行可。剣保持可。振り抜き、要控。
ジャサントは札を整え、機動予備の束へ入れた。後衛札の補助欄からは、彼の名は今朝、抜けていた。書き換えではなく、閉鎖の前段階だった。
三人目以降、ベルハイム関係の処理が始まった。
ジャサントは束から札を一枚ずつ取り、状態を確認し、欄を移した。
ハイネ・ルツ。死亡確認、外周。黒印付与。
サラ・ベルン。死亡確認、礼拝堂内。黒印付与、保護幼児ノア欄、別記。
ミア・オル。未確認、村内残存。追加確認要。保留欄に据え置き。
他、村内死亡確認、四、氏名照合中。
他、村内未確認、九、追加確認要。
書く。
印をつける。
移す。
紐を揃える。
ベルハイムの束は、薄くなっていた。だが、束そのものは残った。
死亡確認済みは別の束へ。
未確認は保留欄へ。
そして、束のいちばん上の位置には、新しい札が一枚だけ加わった。
ノアの札ではなかった。
ノアの母、サラ・ベルンの札の上に、括弧書きで一行だけ追記された札だった。
サラ・ベルン。死亡確認。
保護幼児、ノア。
保護対象、別欄、机左端。
この一行で、束の中の死亡確認と、机左端の保護対象が、欄として連結された。
書き換えのない方の欄と、書き換えなければならない方の欄が、初めて、同じ束の中で位置を持った。
リィナはそれを見ていた。
読めなかったかもしれない。
だが、束の中で、ノアの名前が二つの欄に挟まれていることは、見えていた。
午前の終わりに、エルヴァがノアを連れてきた。
子は布にくるまれたままだった。発熱はない。咬傷はない。眠りは浅い。だが、目を開けても泣かなかった。礼拝堂内で、母の腕の角度のまま運び出されたあと、その角度に近い位置で抱かれているのが、いちばん落ち着くようだった。
エルヴァはノアを長机の左端、ノアの札の脇に降ろした。降ろしたのではなく、座らせた。布の上から、子は片手だけを出した。指を握って、また開いた。何かを確認するような、規則的な動きだった。
「経過観察、継続」
エルヴァが言う。
「発熱、咬傷、感染兆候、いずれもなし」
「水分摂取は」
「継続中」
「食事は」
「軟食、少量」
「再配置先の予定は」
「現時点では、保護対象欄のまま」
「単独未成年区画には」
「移さない」
「理由を」
「四歳。同伴者なし。区画では持たない」
ジャサントは欄に書いた。
ノア。男。四。保護対象、幼児一。
母、死亡確認済み。父、未確認。
発熱なし。咬傷なし。感染兆候なし。
水分摂取、継続。軟食、少量摂取。
再配置先、現時点で未定。
保護対象欄、机左端、別欄。
書きながら、彼女はノアの方を見ない。
書く欄を、見ていた。
そのとき、リィナが机の左端、ノアの札の隣に立った。
立ったまま、何もしなかった。
ノアの方には触れなかった。
札にも触れなかった。
ただ、自分の位置を、ノアの札の隣に決めた。
「リィナ」
ジャサントが言う。
「うん」
「再編成対象は、午後です」
「うん」
「単独未成年欄のままです」
「うん」
「邪魔にならない位置で待機してください」
「ここなら」
リィナは机の左端から、半歩も動かなかった。
「じゃま・・・?」
ジャサントは机の左端を見た。
ノアの札の隣に、リィナが立っている。
記録台の動線からは、半歩外。
配給台の動線からも、半歩外。
通行の妨げにはなっていない。
だが、机の中央のベルハイムの束と、机の左端のノアの札の、ちょうど中間に位置していた。
「邪魔ではありません」
「じゃあ、ここにいる」
「リィナ」
「うん」
「あなたの再配置欄は、単独未成年です」
「うん」
「東列三番が継続されます」
「うん」
「保護対象欄ではありません」
「うん」
「位置を移したい場合、再評価が必要です」
リィナは少しだけ黙った。
それから、首を横に振った。
振ったというより、振らなかった、と言う方が近い動きだった。
「移してくれって、言ってない」
「では、現状維持です」
「うん」
「ここに立つことは」
「ここなら」
「邪魔になりません」
「じゃあ、いる」
それだけだった。
エルヴァが隔離棟へ戻る前に、机の脇でジャサントに低く言った。
「あの子」
「リィナ」
「ノアの隣に立ってる」
「位置は妨げにならない範囲です」
「分かっています」
「邪魔ではありません」
「分かっていますよ」
エルヴァは少しだけ間を置いた。
「隣にいるのと、同じ欄にいるのは、違うでしょう」
「規定では、そうです」
「あの子は、まだ違いを知らないのでは?」
「観察対象です」
「そうですか」
エルヴァはそれ以上言わなかった。
診断ではないところで、リィナの行が、もう一度立っていた。
ジャサントの帳面に書ける欄ではない位置に、エルヴァの観察があった。
それが今日も、置いていかれただけだった。
午後、リィナの再配置が呼ばれた。
「氏名を」
ジャサントが問う。
机の中央ではなく、左端の脇に立ったままで答えるリィナに、彼女は普段の問いを置いた。
「リィナ」
「年齢を」
「八」
「同行者は」
「いない」
「歩行は」
「できる」
「発熱は」
「ない」
「付き添いは」
「いらない」
「保存物は」
「ある」
「内訳を」
リィナは服の内側へ手を入れた。
昨日と同じ動作だった。
布に包まれた半分の乾パンを取り出した。今日はもう一つも一緒に取り出した。二つの半分が、彼女の掌の上にあった。
「これ」
「保管継続ですか」
「うん」
「乾燥した場所に」
「わかってる」
「保存欄、二、変動なし」
ジャサントは札に追記した。
リィナ。荷二、乾パン半二。自己保管。
保存登録、継続。
単独未成年、東列三番、継続。
仮保護、保存登録あり、継続。
保護対象欄、なし。
書き終えてから、彼女は炭を一度、止めた。
リィナはジャサントの手の動きを見ていた。
炭を止めた位置を見ていた。
書かれなかった欄の、空白の位置を見ていた。
保護対象欄、なし。
そう書かれた一行を、文字としては読めなかったかもしれない。
だが、欄が一つ書かれずに残っていることは、見えていた。
「ねえ」
「何ですか」
「保護対象って」
「保護者死亡または不在、要保護判定が出た者」
「わたしは」
「単独未成年、仮保護、保存登録」
「ノアは」
「保護対象、幼児一」
「同じ?」
「違います」
「どこが」
「欄の名前と、配置先と、判定の手順」
「中身は」
「条件次第です」
リィナは札を押さえなかった。
今朝から、押さえる動作はしていなかった。
代わりに、机の左端、ノアの札の上を、指で軽く撫でた。札には触れなかった。札の上の空気を、なぞるように動かしただけだった。
「同じところにいたい」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「再配置上、同じ欄ではありません」
「わかってる」
「位置は隣でも、欄は別です」
「わかってる」
「ここに立つことは、妨げにならない範囲で許可されています」
「うん」
「保護対象欄に入る要件は、現時点では満たしていません」
「うん」
「移したい場合は、再評価が必要です」
「うつしてって、いってない」
「では、現状維持です」
「うん」
リィナはそれだけ言って、もう一度、机の左端の位置に戻った。
ノアの札の隣だった。
札には触れない。
ノアの方にも触れない。
立っているだけだった。
立つことだけが、彼女が今日できる範囲のことだった。
午後の後半、ジャサントは再編成帳の最後の欄を埋めた。
当日再編成、四十一。
ベルハイム関係、死亡確認、八、黒印付与。
ベルハイム関係、未確認継続、九、追加確認要、保留欄。
保護対象、追加一、ノア。
単独未成年、継続、リィナ、ほか五。
配給、規定通り。
未配給繰り越し、一、変動なし。
保存登録、リィナ、二、変動なし。
損耗、ガルド、脇腹経過観察、歩行可、剣保持可。
補助欄、機動予備、運用中。
補助欄、後衛、本日付で閉鎖準備。
担当者欄、ベルハイム、引き継ぎ完了。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
机の中央のベルハイムの束は、薄くなっていた。だが、まだ束として残っている。九件の未確認は、保留欄の側で、まだ書き換えられていない。書き換えなければならない欄が、まだ残っている。
それは、明朝以降の業務だった。
机の左端には、ノアの札がある。
その隣に、リィナが立っている。
リィナの胸の内側には、自分の札と、二つの半分の乾パンがある。
ジャサントは机の左端を見た。
ノアの札と、リィナと、二つの半分の乾パンと、自分の帳面の脇に置かれた炭片。
それぞれは別の欄にあった。
だが、机の左端という同じ位置に、並んでいた。
夕刻、エルヴァがノアを隔離棟へ戻すために来た。
「経過観察、継続」
「承知しました」
「ノア、夜間も監視」
「はい」
「明朝、再判断」
「再配置先は、まだ未定です」
「分かっています」
エルヴァはノアを抱き上げた。
昨日の鞍の前と、同じ角度の抱き方だった。
ノアは目を開けたが、泣かなかった。
エルヴァはリィナの方を見ない。
だが、机の左端から離れる時、ノアの布の高さが、リィナの胸の内側の高さと、ちょうど揃っていた。
リィナはそれを見ていた。
ノアが運ばれていく方向を、目で追った。
追ったあと、机の左端から動かなかった。
ノアの札は、机の上に残された。
札だけが、欄として残った。
「あの子」
リィナが小さく言う。
「ノア」
「いっちゃった」
「経過観察です」
「もどる?」
「明朝、再判断」
「札は」
「机に残ります」
「ずっと」
「再配置が決まるまで」
「きまらないと」
「保護対象欄、机左端」
「ここ」
「はい」
リィナはうなずいた。
うなずいてから、自分の位置を変えなかった。
札の隣に立ったままだった。
日が落ちる頃、配給は半量で終わった。
ヨルは今日も配給を受けた側にいた。
未配給繰り越しは、まだ一のままだった。
火床の脇の棚の奥に、まだ半分の乾パンが残っていた。
名前は書かれない。
リィナは配給を受けたあと、半分を口に入れて、半分を布に包んだ。胸の内側に入れる。今日は、二つの半分の上に、もう一つの半分が重なった。三つになった。彼女はそれを誰にも見せなかった。
ジャサントはそれを見ていた。
保存欄に追記する。
リィナ。保存登録、変動。
乾パン半、二から三へ。
自己保管、継続。
書きながら、彼女はリィナの方を見ない。
書く欄を、見ていた。
「リィナ」
ジャサントが言う。
「うん」
「宿泊区画へ戻ってください」
リィナはうなずいた。
だが、机の左端から動かなかった。
「東列三番が継続です」
「うん」
「夜間は、規定の位置で過ごしてください」
「うん」
「ここに残ることは、規定外です」
「うん」
「戻ってください」
リィナは少しだけ黙った。
それから、机の左端、ノアの札の隣を、もう一度見た。
「明日も、ここにあるの」
「保護対象欄、机左端」
「ノアの札」
「再配置決定まで」
「わたしの札は」
「単独未成年、東列三番」
「同じところにない」
「欄が違います」
「うん」
リィナはそれ以上聞かなかった。
うなずいて、机の左端から半歩、離れた。
半歩だけだった。
それから、もう半歩、離れた。
二歩で、机から離れた。
振り返った。
「ねえ」
「何ですか」
「明日も、ここにいていい?」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「妨げにならない範囲で、邪魔にならない位置で」
「うん」
「再評価ではありません」
「うん」
「現状維持です」
「うん」
リィナはうなずいた。
うなずいて、東列の縄の方へ歩き出した。
途中で一度、止まった。
振り返らなかった。
首元には触れなかった。
胸の内側、三つの半分の乾パンの位置だけを、軽く確かめた。
それから、東列の縄をくぐった。
ジャサントは机を片づけた。
帳面三冊は閉じる。
地図はそのまま残す。
ベルハイムの線の脇には、保留の二文字の代わりに、現地確認、完了、と書かれている。だが、その下にもう一行、未確認九件、追加確認要、と書かれていた。
書き換えのない欄は、減った。
書き換えられた欄は、増えた。
書き換えなければならない欄は、まだ残っていた。
机の中央のベルハイムの束は、薄くなったまま残った。
机の左端のノアの札は、束には入らないまま残った。
机の脇の保存欄には、リィナの三つの半分の乾パンが書かれていた。
机の右端の損耗欄には、ガルドの脇腹の経過観察が書かれていた。
机の上のすべての欄が、それぞれ別の幅で並んでいた。
だが、同じ机の上にあった。
夜が近づくと、中庭の声は少しずつ下がった。
煮炊き場の鉄鍋は底を見せている。
椀の山は半分に減っている。
配給帳の不足欄は埋まっている。
未配給繰り越しの欄は、まだ一のままだった。
火床の脇に、半分の乾パンが一つ残っていた。
誰の名で書かれるかは、決まらない。
ジャサントは灯りを点けた。
記録室の机の上に、明朝の業務予定を書く。
ベルハイム、未確認九件、追加確認要、判断保留。
ノア、隔離棟経過観察、再判断予定。
ガルド、脇腹経過観察、運用継続可否、再判断予定。
リィナ、単独未成年、保存登録、現状維持。
配給、補充見込みなし。半量継続予定。
未配給繰り越し、一、据え置き。
ヨル、東列再分配、継続。
担当者欄、ベルハイム、ジャサント、変更なし。
補助欄、後衛、本日付で閉鎖。
書き終えて、砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
机の左端には、ノアの札が残っている。
札は束に入らないまま、机の端で一晩過ごす。
明朝、また同じ位置から始まる。
明日も、再編成の列ができる。
明日も、ベルハイムの未確認九件の欄を見ることになる。
明日も、保護対象欄に、ノアの名が一つだけ立っている。
明日も、リィナは、机の左端、ノアの札の隣に立つかもしれない。
立つことは、欄に入ることではない。
隣にいることは、同じ欄にいることではない。
だが、立つことだけが、今、彼女にできる範囲のことだった。
ジャサントの帳面の脇には、最後に書かれた一行が残っていた。
保護対象、一名。
氏名、ノア。
机左端、別欄。
再配置決定まで、現位置維持。
書かれた欄は、それだけだった。
書かれなかった欄は、机の左端の半歩、ずれた位置にあった。
書く欄ではなかった。
だが、消えてもいなかった———
ご拝読ありがとうございました。この話で一旦区切りになります。
次回からはまた別の角度から『戦姫メイド』を描いていきたいと考えています。
更新は少しあいて、5月18日の15時になります(自分の筆が早ければ短くなる見込みです.....)。
これからもこの作品を手に取ってくださる方がいれば幸いです。




