第7話 半分のパン
朝の配給は、東門ではなく中庭の煮炊き場の前で行われていた。
火床の脇には鉄鍋が二つ。湯気は薄い。煮込みは昨夜の残りで、新しい具は入っていない。乾パンの箱は三つ、椀の山は一山。配給台は板二枚を樽に渡しただけで、登録台より低い。子どもの背でもようやく届く高さだった。
ジャサントは配給台の右に立ち、配給帳を開いた。
左に炭片。
中央に当日分の人数票。
奥に未配給の予備札。
数字は前夜のうちに書いてあった。
配給対象、九十一。
歩行可、六十二。
歩行困難、十一。
発熱疑い、四。
単独未成年、六。
新規流入、八。
昨日喪失分、未補充。
乾パンの残数を確認する。
乾パン、二十二。
干肉、二束。
粗塩、半袋。
水、配給用小桶四。
ここで、前夜より一つ目減りしている欄がある。
乾パン、前夜時点二十四。
朝、二十二。
夜間、二、消費。
夜間消費の欄は空いている。記録上は、誰がいつ持ち出したかは未確認のままだった。鍵をかける箱ではない。配給前夜の数は申告制で残してある。減ること自体は珍しくない。だが二は多い。
ジャサントは欄外へ短く書いた。
夜間目減り、二。
配給対象数に対し、不足三。
朝の配給で、九十一人に行き渡る量はもとから足りていなかった。半量で配る予定だった者もいる。そこに二の目減りが重なる。
不足は三。
その数字を見たまま、ジャサントは炭を置いた。
配給の列はすでに伸びていた。
歩行可の列が中庭の壁沿いに長く並び、歩行困難の者は配給台の脇に直接寄せられている。発熱疑いは別棟へ運ばれる予定で、椀だけが先に渡される。子どもたちは大人の腰のあたりに立ち、列の前後に挟まっていた。
リィナは列の中ではなく、台の左側に立っていた。
今日は札を服の外へ出している。木片の角は乾いていた。手伝う位置ではない。だが昨日と違い、いちばん前ではなく台の側にいた。怒る者の側ではなく、書く者の側に立つ位置だった。
「配給は受け取りましたか」
ジャサントが問う。
「まだ」
「受領後にここへ戻ってください」
「うん」
リィナはうなずいたが、すぐには列へ移らなかった。
配給帳の数字を見ている。
昨日の崖道の喪失欄も、同じ頁の上の方に残っていた。
不足三という数字も見えている位置にあった。
だが、彼女が読めたかどうかまでは分からない。
配給が始まった。
歩行可の列から順に椀を出させ、乾パンを半分に割って渡す。今朝は最初から半量配給だった。割るのはジャサントではなく、煮炊き場の女が二人で受け持っている。割った断面は揃っていない。大きい方と小さい方が必ず出る。
「同じ大きさで」
最初の方、声を上げた女がいた。
「揃えています」
煮炊き場の女が答える。
「うちの子のは小さい!!」
「順番です」
ジャサントは口を挟まなかった。配給は煮炊き場の管理だった。割り方の差は、彼の欄ではない。だが受け取り後の不公平を理由に列を崩されると、配給が止まる。止まれば後段へ波が来る。
「列を崩さないでください」
そう言うと、女は黙った。
小さい方を子どもの椀へ落とし、自分は大きい方を受け取った。受け取りの順番で、母親はそれを子どもに渡し直した。リィナはその動きを見ていた。
歩行困難の列が動く。
配給台に近い順に椀が出される。
ベンの姿があった。崖道で内側を歩けと言われた老人だった。今日は南棟へ移されず、まだ東列に残っている。妻アダの照合欄はまだ閉じていない。
「氏名を」
「ベン」
「歩行は」
「遅いが」
「発熱は」
「ない」
ジャサントは札の裏に当日受領の印を入れた。乾パンを半分。煮込みを少量。塩を一つまみ。ベンは椀を受け取り、片手で持って下がった。何も言わない。妻の名前はもう聞かなかった。
リィナはその背中を見ている。
中ほどで、列が一度乱れた。
歩行困難列の途中にいた女が、椀を取り落としかけた。隣の男が支えたが、煮込みが少し床へこぼれる。煮炊き場の女が拾い上げ、新しい椀へ移し直す。配給は止まらない。だが、こぼれた分の補充はしない。同じ量が戻されるだけだった。
「もう少し」
女が言った。
「規定量です」
ジャサントが答える。
「こぼれたんだから・・・」
「再支給は予定にありません」
女は何か言いかけ、結局言わなかった。隣の男も、こぼした自分の手を見たままだった。
配給は次の者へ移る。
リィナは列の側面から、配給帳の不足欄を見た。
読めなかったとしても、そこに書かれている文字の量は見える。
単独未成年の列がきた。
子どもたちは年齢順ではなく、到着順に並ばされていた。トアの姿はない。隔離棟にいる。代わりに、新規流入の単独未成年が三人。名前はまだ仮札のままだった。
ジャサントは札を確認しながら、椀を出させた。
「氏名を」
「ミナト」
「年齢を」
「八」
「同行者は」
「いない」
ジャサントは札に印を入れる。乾パン半分。煮込み少量。子どもには塩は入れない。指示は煮炊き場の女が覚えている。
ミナトは椀を受け取ると、その場で食べ始めた。歩きながらでは落とすからだった。乾パンの大きい方をすぐ口に入れる。残った小さい方は、椀の縁に置いていた。
リィナの視線がそこで止まった。
椀の縁に残された小さい方の乾パン。
それを見ている。
ミナトはすぐに気づいて、椀を少し胸に寄せた。
リィナは近づかなかった。
札を押さえる。
離す。
列の脇からその場を離れた。
リィナの番が来たとき、彼女は列の中ではなく、台の左側からそのまま回り込んできた。
「氏名を」
ジャサントは普段通りに問う。
「リィナ」
「歩行は」
「できる」
「発熱は」
「ない」
「同行者は」
「……ない」
ジャサントは札の裏に当日受領の印を入れた。乾パン半分。煮込み少量。塩は入れない。
椀をリィナへ渡す。
リィナはそれを両手で受け取った。
すぐには離れなかった。
台の脇で椀を見て、それから乾パンの割れ口を見る。
大きい方と小さい方が、椀の中で並んでいた。
「半分ずつ」
リィナが言った。
「半量配給です」
「ううん、これ」
彼女は乾パンの大きい方を指で示した。次に小さい方を示した。
「もう半分」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「規定量です」
「うん」
それ以上は言わない。リィナは椀を持ったまま、台の左側へ戻った。配給は止まらない。次の者が出る。
ガルドは配給列の後ろの方にいた。
昨日の頬の裂けには細い布が当てられている。エルヴァが処理したのだろう。布の縁はまだ赤い。
今日は何も言わなかった。
椀を受け取り、乾パンを見ずにそのまま壁際へ移動する。
鍛錬場の隅で食べる癖があるらしかった。
途中、ガルドは一度だけリィナを見た。
台の脇に立つ子どもを、まず確認したのだった。
それから視線を逸らした。
怒鳴った相手の近くにいる子どもを、怒鳴り返さない距離で見るような目だった。
リィナは気づいていた。
気づいていたが、何もしなかった。
椀の中の乾パンの位置だけ、少しだけ動かした。
小さい方を、椀の中央へ。
大きい方を、縁の側へ。
配給が後半に入った頃、不足が表面に出始めた。
乾パンの残数、五。
配給対象残、八。
ジャサントは煮炊き場の女に目で合図し、欠落を確認した。
半量を、さらに半量へ。
四分の一の乾パンが、残りの八人へ配られる。
塩はもう出さない。
煮込みは底を見せている。
「足りないのか」
歩行可の列の最後尾で、男が言った。
「夜間に二、目減りしました」
「誰が持ってった」
「未確認です」
「未確認って何だ」
「夜間記録に欄がありません」
男は舌打ちした。
「お前らが管理してるんだろ」
「鍵管理ではありません」
「だから減るんじゃねえか」
「申告制です」
「同じだ」
男は四分の一の乾パンを受け取った。受け取ってから、自分の掌の上のそれを見た。掌より小さい。男は何も言わなかった。何も言わない方が、列の後ろまで届く声を出さずに済むからだった。
最後尾の数人が、四分の一にもならなかった。
ジャサントは配給帳に書いた。
未配給、二。
夜間目減り、二。
明朝補充予定、不明。
煮炊き場の女が小さく言った。
「うちらの分から出してもいい」
「規定外です」
「でも」
「翌朝の数が減ります」
女は答えなかった。
未配給の二人へ、煮込みの汁だけを多めに入れた椀を渡した。乾パンはない。代わりに椀の縁に湯気が残っていた。それで終わりだった。
二人の方も、何も言わなかった。
列を抜けて、自分の天幕の方へ歩いていく。
足取りは普段と変わらない。普段とは何かを、もう数えていない者の歩き方だった。
配給が終わると、中庭は急に静かになった。
椀を返す者、そのまま座り込む者、煮炊き場の脇で待つ子ども。火床の音だけが残った。
ジャサントは配給帳を閉じる前に、当日分の数字を整えた。
配給実施、八十九。
未配給、二。
四分の一配給、八。
夜間目減り、二。
明朝補充予定、不明。
こぼし再支給、なし。
書き終え、砂を振り、頁を閉じる。
炭片はまた短くなっていた。
リィナは台の左側に戻ってきていた。
椀の中の乾パンは、まだ二つに分かれて並んでいる。
彼女はそれを見て、それからジャサントを見た。
「半分」
そう言って、椀の縁から大きい方の乾パンを摘まみ上げた。
そのまま、ジャサントの帳面の脇へ置こうとした。
ジャサントは手で押し戻した。
「不要です」
「もらって」
「規定外の譲渡は記録できません」
「書かなくていい」
「全ての配給は記録対象です」
「これ、わたしの」
「だからです」
リィナは手を止めた。
乾パンは二人のあいだで、空中に残った形になった。
押し返した指の力は強くなく、リィナの手が下がるのを止めるほどでもなかった。
「お腹すいてるでしょ」
「規定量を受領していません」
「だから」
「だからこそ受け取れません」
リィナは少しだけ不思議そうな顔をした。
怒る顔ではない。
理解できないわけでもない。
ただ、自分の中の理屈と、ジャサントの理屈が合わない位置にあるのを、見ているような顔だった。
ジャサントは続けた。
「あなたの配給を受け取れば、あなたの記録欄に未充足が残ります」
「うん」
「あなたが半量未満になれば、明朝の調整対象になります」
「うん」
「優先順位が変わる場合があります」
「変わるの」
「単独未成年は補充対象に入ります」
「優しいから?」
「規定です」
リィナは黙った。
乾パンを摘まんだまま、しばらく動かなかった。
それから、椀の中へゆっくり戻した。
小さい方の隣ではなく、自分の口で半分割って、片方だけを口に入れた。
残った半分は、また椀の中へ置いた。
「半分は、置いとく」
「保存ですか」
「うん」
「乾燥した場所に」
「わかってる」
リィナは椀を抱え、台の左側からは離れなかった。
食べ終わるまで、そこにいた。
煮炊き場の女がジャサントの方へ寄ってきた。
「ねえ」
「はい」
「あの子、あなたに食べさせようとしてた」
「規定外です」
「分かってる」
「受け取れません」
「分かってるって言ってる」
女は少し笑いかけて、笑い切らなかった。
配給用の椀をまとめながら言う。
「あなたは、ああいうのを、断れる人なのね」
「規定に従っています」
「そう」
女はそれ以上言わず、煮炊き場の方へ戻っていった。
火床の脇で椀を洗う音がする。
湯はもうほとんど出ていない。
午後、補充の見通しが立たないまま、ジャサントは配給帳の翌朝予定欄を空欄のままにした。
未確認の物資搬入は予測に入れない。
入ったら入った時に書けばよかった。
エルヴァが煮炊き場の脇を通り、配給帳をのぞいた。
「未配給二」
「はい」
「四分の一が八」
「はい」
「明日も同じ数なら、足りない」
「承知しています」
「補充の見込みは」
「現時点では未定」
「そう」
エルヴァはそれ以上言わなかった。
病舎へ戻る途中、椀の縁に乾パンの半分を残した子ども――ミナトの方を一度だけ見た。
診断ではない。見たというだけだった。
リィナは午後の遅くまで、椀を抱えていた。
中の乾パンは、もう半分になっていた。
昼を過ぎても、それを食べなかった。
夕方の配給は今日はない。明朝、また同じ列ができる。彼女はそれを知っている顔だった。
「宿泊区画へ戻ってください」
ジャサントが言う。
リィナはうなずいた。
「乾パンは」
「持っていく」
「乾燥した場所に」
「うん」
立ち上がる。
歩き出す。
二歩進んで止まる。
振り返る。
「ねえ」
「何ですか」
「明日も、足りないの」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「補充次第です」
「足りなかったら」
「四分の一になります」
「みはいきゅうは」
「優先順位で決まります」
「わたしは」
「単独未成年は補充対象に入ります」
「あなたは」
ジャサントは答えなかった。
答えなければならない欄ではなかったからだった。
自分の配給未受領を欄外に書くことはあっても、リィナの問いに答える欄は帳面にはなかった。
リィナはそれ以上聞かなかった。
椀を胸に寄せ、宿泊区画の方へ歩いていった。
途中で一度、首元を押さえる。
札の位置を確かめる。
そのまま、東列の縄をくぐった。
ジャサントは配給台を片づけ、帳面を閉じた。
煮炊き場の鉄鍋は底を見せている。
椀の山は半分に減っている。
配給帳の不足欄は埋まっている。
未配給の二人の名は、欄に残ったまま朝を迎える。
火床の脇に、半分の乾パンが一つだけ残っていた。
誰のものかは分からなかった。
椀から落ちたものか、配り損ねたものか。
ジャサントはそれを拾い、煮炊き場の女へ渡した。
「未配給欄へ回します」
「分かった」
女はそれを布で包み、棚の奥へ置いた。
明朝、誰の名で書かれるかは、まだ決まっていなかった。
明日になれば、また配給の列ができる。
乾パンの数は変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
未配給の欄は、補充がなければ繰り越される。
リィナの椀の中の半分も、明日まで残るかもしれない。
それだけだった。
ご拝読ありがとうございました。




