第6話 怒る者
翌朝、ジャサントは鍛錬場にいた。
鐘はまだ鳴っていない。砂は夜の湿りを少し残し、踏み込んだ跡だけが濃く沈む。木杭が五本、一定の間隔で並び、その先に藁束が三つ吊られていた。昨日の崖道の縄は回収箱の中に残ったまま、まだ仕分けられていない。鍛錬場の隅には洗っていない布束が積まれ、煮沸を待っていた。
ジャサントは中央に立ち、足幅を確かめた。
右足を半歩。
重心を移す。
剣を抜く。
振る。
戻す。
藁束の表面に、細い線が増えた。
一撃目は胸。
二撃目は喉。
三撃目は手首。
順番は毎度同じではない。だが、確認する箇所は決まっていた。踏み込みの深さ。刃の入り方。戻りの速さ。感触ではなく、誤差を見るための反復だった。昨日、縄を切るときに手が滑った位置を確かめる必要があった。鉈と剣は重さが違うが、戻りの遅れる箇所はだいたい同じだった。
十回で止め、藁束へ近づく。切り口の高さを見る。半歩ぶんだけ立ち位置をずらす。
もう十回。
砂の上に残る足跡の間隔は、ほとんど変わらない。
鍛錬場の端で、別の木剣が打ち合わされる音がした。大きい。力が強い。打ち込みのたびに砂が跳ねる。ジャサントは振り向かなかった。藁束の紐を締め直し、三本目へ移る。
「朝からそれか」
声がした。低く、眠気より先に苛立ちがある声だった。
ジャサントが剣を納めて見ると、男が一人、木剣を肩に担いで立っていた。背は高く、肩幅がある。首筋に古い傷が一本、白く残っている。年は二十代半ばほど。前線で生き残ってきた者の顔だった。昨日、崖道の後衛についた男の顔だった。
別の兵が横を通りながら、その男を呼んだ。
「ガルド、そっち終わったら東側だぞ」
ジャサントはその名を聞いても、表情を変えなかった。西側外壁の巡回班。剣兵。記録上では確認済みだった。昨日の帳面の後衛欄にも、同じ名が書かれている。
「氏名確認は済んでいます」
そう言うと、ガルドは片眉を上げた。
「聞いてねえよ」
木剣を下ろし、彼は藁束の切り口を見た。均一だった。深さも位置も揃っている。
「人を斬るのも、そうやって確かめてんのか」
「精度確認です」
「楽しそうには見えねえな」
「楽しむ必要がありますか」
ガルドは鼻で息を吐いた。笑ったわけではなかった。木剣を藁束へ振る。深い傷が入る。だが位置はわずかにずれた。彼はそれを気にせず、二撃目を叩き込んだ。力はある。正確さは二の次だった。昨日の崖道の縁で、鉈を強く握りすぎていた手と同じ握り方だった。
その時、伝令が鍛錬場へ走ってきた。
「ジャサント、ガルド。東井戸道の護衛に回れ。難民移送だ」
ガルドが顔をしかめる。
「俺がこいつと?」
「指示だ」
伝令はそれだけ言って、別の持ち場へ走っていった。
ジャサントは剣を納め、藁束を元の位置へ戻した。精度確認は終わっている。次は移送の確認だった。昨日と同じ組み合わせの後衛と前衛。任務だけが入れ替わっている。それだけだった。
東井戸道の護衛任務は、砦の外にある小さな溜め井戸から、避難民をまとめて戻すものだった。前夜の見張りで魔物の影が出ている。道は林縁に沿い、途中で小さな崖道を一つ越える。人数が多ければ危険が増える。だが井戸を放置すれば水が切れる。昨日崖下に小桶を一つ落としたぶん、洗浄水の補充も急ぎだった。
厩舎前には、移送対象の難民がすでに集められていた。
女二、老人一、子ども三、少年一。
兵はガルドを含めて三。
荷は水袋と乾パンだけだった。
荷車は使わない。往復の速度を優先する。
ジャサントは人数を確認し、並び順を決めた。
「先頭に兵一。
中央に子ども。
老人は後列ではなく中列へ。
最後尾に兵一」
そう言ってから続ける。
「ガルド、右側の林縁を見てください」
「指図するな」
「導線の重複を避けています」
「お前が左を見る。俺が右を見る。そんなの言われなくても分かる」
「では問題ありません」
ガルドは何も言わなかった。分かっていても、言われること自体が気に入らない顔だった。崖道で「お前がやるのか」と低く問うた時と同じ顔だった。
出発前、リィナが宿泊区画の端からこちらを見ていた。今日は門の近くではなく、石壁の陰にいる。札は服の内側へしまわれ、紐だけが喉元に見えていた。昨日、崖道から戻ったあとと同じ位置に手をやっている。
「戻るの」
それだけを、ジャサントに向けて言う。
「予定では」
昨日と同じ返答だった。
リィナはガルドを見た。
ガルドはその視線に気づかなかったか、気づいても相手にしなかった。
護衛列は砦を出た。
井戸道は朝のうちはまだ静かだった。木々の影は短く、地面の湿りも乾ききっていない。ジャサントは列の左側につき、林の足元と枝の揺れを見た。ガルドは右へ広く視線を取っている。歩き方は速い。前へ出やすい癖があった。
東井戸での水汲みはすぐに終わった。水袋三、満。小桶二、満。昨日喪失した一桶分の補充にはならない。だが当面は足りる。問題は帰路だった。
戻り道の半ば、林の奥から声がした。
「誰か……!」
男の声だった。遠くはない。道から少し外れた斜面の下。乾いた葉を踏み荒らした跡がある。
ガルドがすぐに反応した。
「いたぞ!」
斜面の下では、兵が一人、倒れた木の根元に挟まれていた。肩当てに砦の印がある。東側見回りの者らしい。太腿に深い傷があり、血は乾きかけていた。自力では上がれない位置にいる。
「助けてくれ」
男は言った。
「夜からここで——」
ガルドが斜面へ降りようとする。
ジャサントは周囲を見た。斜面はぬかるんでいる。足場は悪い。難民列は道の上で止まっていた。子どもの一人が泣きそうな顔で林を見ている。林の奥では鳥が鳴いていない。空気の湿りに、わずかに獣の匂いが混じる。
「停止」
ジャサントが言った。
ガルドが振り向く。
「見れば分かるだろ」
「分かります」
「なら降りるぞ」
「護衛対象を先に動かします」
「一人だぞ」
「はい」
ジャサントは斜面を見る。倒木の重さ。負傷兵の傷の位置。引き上げるための人数。道に残る難民の数。林の静けさ。ここで兵を二人下ろせば、列の両側が空く。引き上げに時間がかかれば、道の上で難民が止まる。止まれば匂いが残る。匂いが残れば寄るものがある。崖道で道ごと崩れかけた時と、判断する材料は同じだった。
「先に列を進めます」
ジャサントが言う。
「最短距離で崖道まで移動。
その後に再判断します」
負傷兵が首を振った。
「待て、俺は——」
ガルドが一歩降りる。
「今なら間に合う!」
「ガルド」
ジャサントの声は変わらない。
「列を崩さないでください」
「ふざけるな!」
その瞬間、林の奥で枝が折れた。一つではない。二つ、三つ。乾いた音が短く続く。
ジャサントは剣を抜いた。
「前進」
子どもたちを囲むように難民列を寄せる。老人を中央へ押し込む。後衛の兵へ目で合図を送る。ガルドがまだ斜面の縁にいる。次の瞬間、灰色のものが林から飛び出した。
狼に似た魔物だった。脚が長く、背が低い。口先が裂け、腹が細い。単独ではない。二体目がすぐ後ろにいる。
「下がれ!」
ガルドが斜面から戻りながら叫ぶ。
ジャサントは一体目の喉へ剣を入れた。斜めに浅くではなく、確実に。倒れた個体を避けて二体目が飛ぶ。後衛兵が槍を出すが浅い。ジャサントが踏み込み、前脚の関節を断つ。
魔物は鳴かずに崩れた。
林の奥でさらに気配が動く。だが列は止まっていない。ジャサントが前進を命じたままだからだ。難民は半ば押されるように歩き、崖道の入口へ寄っていく。止まれば囲まれる。動いていれば、まだ狭められる。
「ガルド、右」
彼はほとんど怒鳴り返すように剣を振った。三体目の頭を叩き落とす。
護衛列は崩れなかった。
斜面の下にいた負傷兵の声は、途中から聞こえなくなった。
崖道へ入ってから、ようやくジャサントは停止を命じた。
数を確認する。
難民、六、生存。
兵、三。
軽傷、一。
子ども一人が転倒による擦過傷。
ガルドの頬に浅い裂けが入っていた。
「止血は不要です」
ジャサントが言う。
ガルドは答えない。呼吸だけが荒い。剣の柄を握る指の白さは、昨日鉈を返したときと同じだった。
砦へ戻るまで、誰も先ほどの負傷兵について言わなかった。言えば戻りたくなる。戻れないと分かっている時、人は黙る。崖道で崖下を見ながら歩かなかったのと同じ理由だった。
門をくぐって難民を引き渡したあと、ジャサントは護衛報告のために記録台へ向かった。そこで初めて、ガルドが声を上げた。
「お前は間違ってる!」
鍛錬場の方まで届く大きさだった。近くにいた従兵が振り返る。荷運びの手が一瞬止まる。
ジャサントは帳面を開いたまま、顔を上げる。
「何についてですか」
「分かってて言ってんのか」
「確認しています」
「見捨てただろうが!」
ガルドは一歩前へ出た。握った拳が白い。
「あいつは生きてた!
声も出てた!
あそこで二人降りれば引き上げられた!」
「列が止まります」
「止まったっていいだろ、一人を助ける間くらい!」
「その間に魔物が来ました」
「だから何だ!」
言ったあとで、自分でもその問いの形がおかしいと気づいた顔だった。だが怒りは止まらない。
「だからって、あいつを置いてくのか!」
「はい」
ガルドの拳が震える。
「お前には名前がある人間が、数字に見えてるのか」
「名前は確認しました」
「そういうことじゃねえ!」
その声は、宿泊区画の方にも届いた。石壁の陰から、リィナが顔を出していた。最初から聞いていたのではない。怒声に引かれて来たのだろう。彼女はガルドを見て、それからジャサントを見る。昨日、東門で「切ったの」と聞いた時と同じ位置に手があった。首元の札を、服の内側から押さえていた。
ジャサントは帳面に視線を戻した。
「東井戸道。
護衛対象六。
兵三。
帰還後欠員なし。
道中、負傷兵一名確認。
救援未実施。
理由、列全体の危険増大」
書きながら言う。
「記録します」
ガルドは帳面を叩き落としたい顔をした。だがしなかった。そこに書かれるものを壊しても、起きたことは戻らないと分かっているからだ。崖下の二人の札を黒印箱へ移した時と、同じ理屈だった。
「命は数じゃねえ」
低く、歯のあいだから押し出すように言う。
「お前みたいなのが決めていいことじゃねえ」
ジャサントは答えた。
「決めなければ、増えます」
「何が!!」
「損耗が」
ガルドはもう何も言わなかった。言葉では届かない相手に向ける顔になっていた。踵を返し、病舎の方へ歩いていく。途中で誰かに声をかけられても、振り向かない。
頬の裂けは、エルヴァの方で処理されるだろう。状態に応じて、ということだった。
その場に残った静けさの中で、リィナだけが動かなかった。少し離れたところに立ったまま、首元へ手をやる。札を押さえ、離さない。
「……みんな、怒るんだ」
小さな声で言った。
ジャサントは帳面を拾い上げた。土はついていない。頁も折れていない。
「はい」
「あなたに」
「評価は任務に含まれません」
リィナはガルドの去っていった方を見る。その背中はもう見えない。周りにいた兵たちは、それぞれの作業へ戻っている。だがジャサントの近くには寄らない。避けているのか、いつもの距離なのか、リィナにはまだ判断がつかない。
「でも」
彼女は言う。
「あなた、まちがってないんでしょ」
ジャサントは帳面の端を整えた。
「被害は最小でした」
リィナはうなずかなかった。首元を押さえたまま、しばらく黙っている。
ガルドの怒鳴り声と、ナハの「切ったの」の声が、彼女の中ではまだ離れていない。怒る人がいて、書く人がいて、それでもジャサントの言うことは間違っていない。その三つが、彼女の中ではどう並ぶのか、まだ位置が決まっていなかった。
「きらわれても」
「任務に影響はありません」
「そう」
その返答を、リィナはすぐには飲み込まなかった。ただ、少しだけ位置を変えた。周りの兵が一歩引いているぶんだけ、自分が近づくような動きだった。怒る者は離れていく。書く者は離れない。リィナはそちらに残った。その動きは、まだ言葉にはなっていなかった。
ジャサントは報告欄の続きを書いた。
東井戸道。
魔物三体確認。斬殺二、打撃一。
難民六、生存。
負傷兵一名、確認のみ。
救援未実施。
水袋三、補充。
小桶二、補充。
昨日喪失分、未補充。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
少し離れたところで、リィナはまだ立っていた。今日は札を服の内側へ戻したあとも、首元から手を離さない。だが視線は帳面ではなく、ジャサントの横に空いたままの場所を見ていた。ガルドが立っていた位置だった。
「宿泊区画へ戻ってください」
ジャサントが言う。
リィナはうなずいた。歩き出す。二歩進んで止まる。振り返る。
「ねえ」
「何ですか」
「さっきの人も、書くの」
「確認できたため」
「……そっか」
リィナはそれ以上聞かなかった。首元を押さえたまま、宿泊区画へ戻っていく。崖道の縁に立ったときより、足取りは少し速かった。
ジャサントは帳面を片づけた。
鍛錬場では、朝につけた藁束の傷がまだ残っている。
厩舎では馬が水を飲んでいる。
門の外では、戻れなかった者がいる。
帳面の中には、その名がある。
昨日落ちた二人の名も、まだ回収待ちのまま並んでいた。
それぞれは別の場所にあった。
だが記録の上では、同じ幅の行に収まっていた。
明日になれば、また書き足す必要がある。
回収待ち、救援未実施、確認のみ。
欄は違うが、扱いは同じだった。
それだけだった。
ご拝読ありがとうございました。




