第5話 小さな切り捨て
前夜のうちに、南側補助棟への移送札はまとめられていた。
病舎の寝台は埋まっている。隔離棟も空きが少ない。東列の仮配置は増え続け、煮炊き場に近い区画へ人が寄るせいで、通路は朝ごとに狭くなっていた。歩ける者を留めたままにすると、歩けない者のための場所が減る。場所が減れば、見回りも配給も遅れる。
そのため、南側補助棟へ移せる者を朝のうちに動かす必要があった。
補助棟は砦の外郭に近い低地にある。平地の道を回れば半日かかるが、東門外の崖道を使えば半刻で着く。崖道は狭く、雨のあとには使いにくい。だが、今朝の移送人数なら通せる。昨夜の帳面ではそうなっていた。
朝の鐘が鳴る前、東門の脇には荷車が二台並べられていた。
夜の湿りがまだ轍に残っている。門柱の影に縄束、車輪止め、予備の木杭。壁沿いには移送待機の者が座らされ、歩行可の列と荷車移送の列が縄で分けられていた。病舎から出る者、東列から出る者、南棟へ再配置される者。札の色で区分は済んでいる。あとは順番を間違えないだけだった。
ジャサントは門番台の板に帳面を置いた。
右に移送札。
左に炭片。
中央に前夜の再配置一覧。
今日の欄を開き、上段へ先に数字を書く。
徒歩移送、十四。
荷車移送、六。
護衛、四。
馬、一。
空荷車、一。
補給布束、二。
止血具箱、一。
洗浄水、小桶三。
その下に、崖道通過順を記す。
先導一。
徒歩列七。
荷車一。
歩行緩慢三。
荷車二。
徒歩列七。
後衛一。
崖道は二人並べない。荷車がすれ違える幅もない。途中に張り出した岩が一つあり、車輪は外側へ寄る。馬を急がせると軸が鳴る。昨日の雨で土が緩んでいれば、通過順だけで落下数が変わる。順番は必要だった。
医師——エルヴァが門の内側から来た。手には小札が三枚ある。寝台から外した移送許可札だった。
「動かしていい者だけ出します」
「氏名を」
「ミア・ナディ。発熱なし。歩行可。
サヤ・オル。付き添い可。歩行可。
ハルク・ダレス。荷車限定。揺らすと裂ける」
ジャサントは帳面へ追記した。
ハルク・ダレス。男。第三前衛。荷車一。体位固定。
サヤ・オル。女。歩行可。
ミア・ナディ。女。歩行可。再配置移送。
「ミナは」
「病舎に残します。固定継続」
「承知しました」
エルヴァは帳面を見ずに言った。
「崖道は乾いてないです。外側へ寄せないでください」
「通過順を調整しています」
「壊さないでくださいね、今日は」
ジャサントは返答しなかった。
エルヴァはそれ以上言わず、病舎へ戻った。
診断と許可だけを置いていく言い方だった。
門柱の影に、リィナがいた。
今日は札を服の外へ出している。紐の結び目は昨日より短く、木片は喉に近い位置で止まっていた。足元には何も持っていない。東列からそのまま出てきたらしく、裾の泥は乾いて白くなっている。
「東門前は宿泊区画ではありません」
ジャサントが言う。
「知ってる」
「移送対象ではありません」
「見てるだけ」
「通行の妨げになります」
リィナは半歩だけ下がった。
「ここなら」
「問題ありません」
ジャサントは次の札を取った。
移送前の確認は短く済ませる。
氏名。
歩行。
同行者。
運ぶ物。
崖道では、話している時間より進路を塞ぐ時間の方が損耗になる。
「氏名を」
「ベン」
左足を引く老人だった。妻アダの照合欄はまだ閉じていない。先日、登録台で名を書いたまま、未確認のまま残っている男だった。
「歩けますか」
「遅いが」
「同行者は」
「なし」
「荷物は」
「ない」
ジャサントは木札の裏に移送順を加えた。
ベン。歩行列後段。外側禁止。
「内側を歩いてください」
「わかった」
次。
ミア・ナディ。
歩行可。
荷物なし。
付き添い解除済み。
再配置先、南棟。
ミアは札を受け取ると、袖の内側へ差し込まず、今日は首にかけた。返却される持ち物ではなく、自分自身の札として扱う日の動きだった。リィナはそれを見て、自分の札を押さえた。
次。
ハルク・ダレス。
荷車一。
体位固定。
止血布交換済み。
再出血時は停止。
付き添い一名なし。
ハルクは荷車の上で目を開けたが、声は出さなかった。胸元の布は新しく巻き直されている。荷台の板の上には藁束を敷き、その上に寝かせてある。揺れを減らすためだが、崖道では完全には止まらない。
サヤ・オルは門の脇で立ち止まっていた。病舎へ残した娘の方角を一度だけ見たあと、視線を戻した。昨日、ミナの肩を支えてもらった母親だった。今朝はその娘を置いて、自分だけが補助棟へ移る。付き添いの可否はエルヴァが決め、移送順はジャサントが決めた。サヤの希望は欄外にも入らない。
ガルドが最後に来た。肩に縄を掛け、腰に鉈を差している。後衛札を受け取ると、帳面の数字を見た。
「荷車二台で行くのか」
「崖道の通過は可能です」
「昨日の雨だぞ」
「承知しています」
「平地を回せばいい」
「半日かかります」
「だからって」
「病舎の寝台が足りません」
ガルドは返事をしなかった。
札を首へ掛け直し、荷車の軸を自分で蹴って鳴りを確かめた。鳴りは乾いていない。だが動かせないほどではなかった。
門が開く。
先導が出る。
徒歩列が動く。
荷車が軋む。
朝の風はまだ冷たく、崖道の方から湿りが上がってきていた。
リィナは列の外側へ出ようとした。ジャサントが袖を掴んで止める。
「移送列に入らないでください」
リィナは止まり、ジャサントの手を見た。
「見えない」
「壁沿いを歩いてください」
「うん」
ジャサントは手を離した。
リィナは一歩だけ内側へ寄った。
それから、自分の首元に触れた。
押さえる。
離す。
また押さえる。
掴まれた位置と同じあたりを見ているようだった。
崖道は東門から半刻ほど下った先にある。片側は岩壁、もう片側は落ち込み。下には乾いた沢が見え、その先に補助棟の屋根が並んでいる。普段は荷車一台ずつしか通さない。だが北側の区画が詰まり、病舎と東列の間に寝台と仮置きが増えている今朝は、人も物もここを通して分けるしかなかった。
リィナが見ているのは、知らない場所へ向かう移動ではない。
登録台で札がかけられ、隔離棟で板の上を移り、病舎で寝台を割り当てられた。今朝はそれが、門の外まで延びているだけだった。
どこへ置くかを決める作業は、昨日も、その前の日も続いていた
だが、崖道に入れば、それは帳面の上だけでは済まなくなる。
道の入口で、ジャサントはもう一度帳面を開いた。
時刻。
天候。
路面湿り。
通過開始。
必要事項だけを書き、炭を戻す。
「先導、進行」
列が動く。
歩行者は岩壁側。
荷車は外輪に木止めを当てながら通す。
後衛は切離用の縄と鉈を持つ。
決めた順を崩さない。
崩れると、止まる場所がなくなる。
リィナは列の外にいる。移送対象ではない。だが東門からここまで、少し離れてついてきていた。今も崖道の入口の手前に立ち、荷車ではなく札を見ている。荷車の前につけた赤札。歩行列の黄札。後衛の黒紐。順番のための印を見ている。
ジャサントは何も言わなかった。崖道へ入る前なら、立ち止まれる。追い返すならここだった。だが今は、列を止める方が損だった。
最初の半刻は、事故なく進んだ。
岩から水が細く落ちている場所を越え、張り出した根を踏まないよう歩幅を狭め、荷車の外輪に石を噛ませながら進む。歩行緩慢の者は二度止まったが、転倒はない。ハルクの荷車も軸は鳴るが傾きはしない。
ジャサントは要所ごとに小さく数字を直した。
停止一。
歩行遅延二。
転倒なし。
荷車異常なし。
ガルドが後ろから言う。
「今日は持ったな」
「現時点では」
「縁起でもない言い方するな」
ジャサントは答えなかった。
崖道の中ほどに、いちばん狭い場所がある。外側の土がえぐれ、内側の岩が張り出している。荷車はそこで一度車輪を切り返す必要がある。事故が起きるなら、そこだった。
狭所の手前で、ジャサントは列を止めた。
「前段、待機。
荷車一、通過。
歩行列、壁側保持」
ガルドが後輪へ木止めを差し込む。
前の兵が馬の頭を押さえる。
ハルクの荷車は先に通す。揺らし続けるより、止まる回数を減らした方が裂傷にはましだった。
荷車一は通過した。
軸が一度鳴ったが、外輪は持った。
ハルクの呼吸も乱れてはいない。
次は二台目だった。
二台目の荷車には、歩行不能の女が一人と、補給布束二、洗浄水の小桶が積まれている。牽いているのは若い兵と、車輪脇に付いた民兵の男一人。名は朝に書いた。民兵の男はロウ。付き添いの女はナハ。どちらも歩行可。荷台の女だけが固定札付きだった。
ジャサントは帳面に目を落とした。
ロウ。男。荷車補助。
ナハ。女。付き添い。
歩行不能女。氏名確認済み。再配置先補助棟。
「進行」
馬が一歩出る。
前輪が石を越える。
後輪が外へ鳴る。
木止めが一度はまる。
次の瞬間、外側の土が崩れた。
音は短かった。
崩れた土が下へ落ち、後輪が外へ沈み、荷車の後ろが大きく傾く。
ロウが咄嗟に荷台へ手を掛ける。
ナハが叫ぶ。
小桶が一つ外へ転がり、崖下へ消えた。
「停止」
ジャサントが言う。
馬が暴れかけたが、前の兵が頭綱を引いた。
荷車は完全には落ちていない。前輪と軸だけが道に残り、後ろ半分が外へ傾いている。外輪の片側は空中だった。
ロウは荷台の脇にしがみついていた。
ナハは内側の岩へ背をつけ、荷台の女の腕を掴んでいる。
歩行不能の女は声を出していない。布固定のまま動けない。
馬がもう一度首を振れば、軸ごと持っていかれる。
ここで初めて、さっきまでの「移送」が、帳面から外へはみ出す。
ガルドが叫ぶ。
「引き戻すぞ」
ジャサントは車軸を見る。
地面の割れ目を見る。
土の崩れ方を見る。
外側へかかった重さと、残っている支点の位置を見る。
三人以上が同時に荷台へ掛かれば、道ごと崩れる。
「人数をかけないでください」
「まだ持ってる」
「支点が薄い」
「引ける」
「荷台を軽くします」
ジャサントは荷物札を見た。
布束二。
小桶残二。
固定患者一。
補助員二。
このままでは重すぎる。
「布束を落とします」
ナハが顔を上げた。
「だめ、それ洗浄の布でしょう」
「はい」
「向こうで要るんでしょう」
「承知しています」
「なら」
「先に軽くします」
ジャサントは荷台の後端に寄せてあった布束をひとつ掴み、外側ではなく内側の岩壁側へ投げた。もう一つも同じように落とす。道の内側なら回収できる。小桶は一つ失われた。残る一つも下ろす。これ以上、荷が動けば軸がずれる。
ガルドがロウへ手を伸ばす。
「掴め」
ロウは片手だけを離しかけ、すぐ戻した。荷台の女の脚がずれていた。掴めば自分は上がれる。だが荷台の女が滑る。そう見えた。
「先に女を」
「無理です」
ジャサントが言う。
「固定が外れる。荷重が後ろへ寄ります」
ナハが女の腕を引く。
女は重い。
板が鳴る。
外輪がさらに沈む。
ジャサントは路面のひびを見る。
足元の土が粉になっている。
これ以上の保持は長く持たない。
「ロウ、手を離して内側へ」
ロウは動かない。
「先にこの人を」
「荷台固定を解く時間がありません」
「まだ引ける」
「引けば道が落ちます」
ガルドが振り返る。
「おい」
ジャサントは荷車と、その後ろに詰まった歩行列を見る。
ベン。
ミア。
サヤ。
補助兵。
あと七人。
ここで道が落ちれば、後段まで巻き込む。
止まっている時間も長すぎる。
「切離の準備」
ガルドが一度、何も言わなかった。
それから低く言う。
「まだ乗ってる」
「承知しています」
「二人いる」
「把握しています」
「切るのか」
「はい」
ナハの手が止まる。
ロウがこちらを見る。
荷台の女は動かない。
馬が首を鳴らした。
リィナは崖道の入口側から、ずっとそのやり取りを見ていた。近くまでは来ていない。だが声は届いていた。視線は落ちそうな荷車より、ジャサントの口と手の方へ向いている。命令を出す口。縄を見る手。切離用の鉈へ伸びる手。
昨日、病舎で子どもの肩を支えていた手が、
いまは切るために動く。
リィナの中では、その二つがまだ繋がっている。
「後段、二歩下がって待機」
ジャサントが言う。
「ガルド、前綱保持。
兵一、馬頭固定。
兵二、ナハを引く。
ロウは二度目で離れない場合、切離」
ナハが叫ぶ。
「待って———!!」
ガルドが腕を伸ばし、内側からナハの肩を掴んだ。
ナハは一度抵抗したが、足元が滑って膝を打ち、そのまま引かれた。
荷台の女の腕が離れる。
板がもう一度鳴る。
ロウだけがまだ残った。
「離してください」
ジャサントが言う。
ロウは首を振った。
「まだ」
「持ちません」
「この人、動けない」
「承知しています」
「だったら」
「切離します」
ジャサントは鉈を受け取った。
縄は車軸ではなく、馬と荷台をつなぐ主綱にかかっている。そこを切れば、前だけは残る。後ろは落ちる。時間は一度きりだった。
ガルドが低く言う。
「お前がやるのか」
「命令です」
「……っ」
「前を見てください」
ロウが最後に何か言った。
風と馬の鳴きで、言葉は切れた。
聞き取れなくても、順番は変わらない。
「切離」
鉈が縄へ入る。
一度。
二度。
繊維がほどけ、張っていた綱が跳ねる。
次の瞬間、後ろ半分が崖下へ落ちた。
木の裂ける音。
短い叫び。
石へ当たる音。
それで終わった。
前輪と馬だけが道に残る。
ガルドの腕に綱の擦れが残った。
ナハはその場に膝をついた。
歩行列は誰も声を出さなかった。
出せる幅ではなかった。
ジャサントはすぐに帳面を開いた。
時刻。
崖道中部。
荷車二、後部落下。
切離実施。
補給布束二、回収可。
洗浄水一、喪失。
落下二。
ナハ救出。
後段停止時間、短。
炭を戻し、顔を上げる。
「後退一歩。
内側保持。
通過順を変更します」
ナハが膝をついたまま言った。
「書くの」
ジャサントは見下ろした。
「必要です」
「いま——」
「いまです」
ナハは口を開いたが、声にならなかった。
ガルドが彼女の腕を引き、岩壁側へ寄せる。
ミアは崖下を見なかった。
ベンはただ足元だけを見ていた。
サヤは自分の札ではなく、病舎へ残した娘の方角を見るように顔を上げたが、そこに見えるのは岩と空だけだった。
リィナは首元を押さえた。
強く。
離さない。
落下の音が消えたあとも、指だけがそこに残っていた。
ジャサントは荷車の残った前部を路肩へ寄せ、馬を外させた。
進路を塞ぐものをどける。
布束は内側へ落ちている。回収できる。
洗浄水は一つ失われた。
歩行不能の女とロウは回収不能。
現時点では。
ガルドが言う。
「まだ確認もしてねえ」
「崖下は後続処理です」
「生きてるかもしれない」
「可能性はあります」
「なら」
「今下りると、ここが止まります」
ガルドは答えなかった。
鉈を返すとき、柄を強く握りすぎていた。
その指の跡が白く残っている。
通過順は組み直された。
徒歩列を先に送る。
残った荷車は最後。
ナハは歩行可へ移し、付き添い欄を閉じる。
喪失分は欄外へ出す。
ジャサントは札を書き換えた。
ナハ。女。歩行列後段。同行者喪失。
ロウ。男。落下。確認待ち。
歩行不能女。落下。氏名確認済み。回収待ち。
リィナがその動きを見ていた。
札が書き換わる。
位置が変わる。
人が消えてから、札の方が先に残る。
隔離棟で見たことと似ていた。
ただ、今日は音が先にあった。
列は再び動いた。
誰も、落ちた場所を見ながらは歩かなかった。
見れば足元がずれるからだった。
ジャサントは先頭ではなく中ほどに入る。
数字を持っている者が、止まる位置を決める必要がある。
ガルドは最後尾についた。
何も言わない。
ナハのすぐ後ろに立った。
リィナは崖道の入口から先へは来なかった。
そこに立ったまま、残った荷車と歩行列が狭所を抜けるのを見ていた。
ジャサントが内側へ寄れと言った時だけ、一歩下がった。
そのあと、また札を押さえた。
補助棟へ着いた頃には、日が高くなっていた。
移送者を下ろし、再配置先を照合する。
ハルクの止血布を確認。
ミアを南棟へ。
ベンを壁沿い区画へ。
サヤは煮炊き場補助へ仮置き。
朝に書いた数字を、到着数へ直す。
徒歩移送、到着十三。
荷車移送、到着一。
落下二。
洗浄水一、喪失。
布束二、回収済み。
布束はあとから兵が拾ってきた。
崖下へは行っていない。
内側へ落ちた分だけだった。
ナハは補助棟の壁のそばで座らされた。
水を渡されても、すぐには飲まなかった。
ジャサントが新しい札を持っていく。
「氏名を確認します」
「……ナハ」
「同行者欄を修正します」
ナハは顔を上げた。
「切ったの、あなた」
「はい」
「すぐだった」
「保持時間がありませんでした」
「ロウ、まだ」
「確認待ちです」
ナハは札を受け取らなかった。
ジャサントは札を壁の釘へ掛け、帳面へ修正を入れた。
受け取れない者の分は、位置で残す。
それだけだった。
昼を過ぎて、帰路の準備に入る。
空いた荷車一。
回収した布束二。
洗浄水補充なし。
後続処理班二を追加。
崖下確認は往復の帰りに行う。
今下りるより、列を戻してからの方が損耗が少ない。
ガルドが帳面を見る。
「後続処理班って書くのか」
「必要です」
「名前じゃなくて」
「氏名欄は帰還後に埋めます」
ガルドは鼻で息を吐いた。
「お前、朝と同じ顔だな」
「変化はありません」
「……そうかよ」
それだけ言って離れた。
怒鳴りはしない。
だが、鉈を腰へ戻す手つきが荒かった。
帰路、崖道の狭所では兵二名が下へ回った。
土はまだ崩れている。
荷車の後部は見えない位置に落ちていた。
ロウは即死。
歩行不能の女も反応なし。
回収は後回し。
先に札だけを上げる。
ジャサントは上で待ち、引き上げられた二枚の札を受け取った。
泥と血で濡れている。
黒印を入れるには、まず記録が要る。
ロウ。死亡確認。崖下回収待ち。
女。氏名確認済み。死亡確認。崖下回収待ち。
ガルドが言う。
「下見たか」
「見ていません」
「見るべきだろ」
「札が確認できれば足ります」
ガルドは返事をしなかった。
リィナは少し離れた岩陰にいた。
今度は崖下を見ていた。
長くは見ない。
すぐに視線を戻し、自分の札を押さえる。
そのあと、ジャサントの手元の黒印を見る。
落ちたあとに付く印。
移った位置のための印。
それを見ている。
砦へ戻る頃には、空が鈍く曇っていた。
東門で再度人数を照合する。
出発、二十四。
帰還、二十二。
崖下回収待ち、二。
器具損耗なし。
補給布束二、維持。
洗浄水一、喪失。
門番台の前で、ジャサントは札の位置を移した。
歩行列の束から、死亡確認待ちの束へ。
確認待ちから、黒印付きの束へ。
順番は同じだった。
書く。
印をつける。
移す。
紐を揃える。
リィナはその横に立っていた。
朝より近い。
だが台には触れない。
視線は札が移るところへ固定されている。
「切ったの」
小さく言った。
ジャサントは帳面を閉じなかった。
「はい」
「落ちた」
「はい」
「書いた」
「必要です」
リィナは少し黙った。
首元を押さえる。
離す。
また押さえる。
「助けるためにじゃないの」
ジャサントは炭を置いた。
「後段を止めないためです」
「でも、さっきの子は支えた」
ミナのことだった。
病舎での朝の処置を指している。
リィナの中では、同じ手で行われた二つの動作が、まだ一つのものとして並んでいた。
「固定で保持が必要でした」
「今日は」
「切離が必要でした」
「同じなの」
「手順です」
リィナは返事をしなかった。
帳面ではなく、ジャサントの手を見ていた。
ミナを支えた手。
縄を切った手。
同じ位置にある指を見ている。
「やさしくしたのに」
そう言ってから、すぐに口を閉じた。
自分で言い直さないまま、札を服の内側へ押し込む。
今日は紐を引かなかった。
ただ、木片が胸の内側にある位置を確かめた。
ジャサントは今日の欄に最後の一行を加えた。
崖道事故。
切離一。
落下二。
後段維持。
再配置継続。
帳面を閉じる。
東門の外では、もう次の荷車が待っていた。
止まっている時間は長くなかった。
長くしないために切った。
それだけだった。
リィナはまだそこにいた。
「わたしも、あっちだったら」
ジャサントは顔を上げた。
「どちらですか」
「外」
「移送列に入っていません」
「入ってたら」
「状態に応じます」
リィナはうなずかなかった。
首元の内側を押さえたまま、少しだけ下を向く。
それから、帳面を見る。
札を見る。
黒印を見る。
最後に、ジャサントを見る。
「書いてあっても」
ジャサントは答えた。
「位置は変わります」
リィナはそれ以上聞かなかった。
踵を返し、東列の方へ歩き出す。
途中で一度だけ止まり、首元を押さえる。
確認して、また歩く。
門番台の上には、黒印のついた札が二枚増えていた。
右に死亡確認。
左に回収待ち。
中央に翌日の空欄。
炭は短くなっている。
明日になれば、また書き足す必要がある。
崖道はまだ閉鎖されていない。
切った縄だけが、回収箱の中に残っていた。
ご拝読ありがとうございました。




