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戦姫メイド  作者:
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5/19

第5話 小さな切り捨て

前夜のうちに、南側補助棟への移送札はまとめられていた。


病舎の寝台は埋まっている。隔離棟も空きが少ない。東列の仮配置は増え続け、煮炊き場に近い区画へ人が寄るせいで、通路は朝ごとに狭くなっていた。歩ける者を留めたままにすると、歩けない者のための場所が減る。場所が減れば、見回りも配給も遅れる。


そのため、南側補助棟へ移せる者を朝のうちに動かす必要があった。


補助棟は砦の外郭に近い低地にある。平地の道を回れば半日かかるが、東門外の崖道を使えば半刻で着く。崖道は狭く、雨のあとには使いにくい。だが、今朝の移送人数なら通せる。昨夜の帳面ではそうなっていた。


朝の鐘が鳴る前、東門の脇には荷車が二台並べられていた。


夜の湿りがまだ轍に残っている。門柱の影に縄束、車輪止め、予備の木杭。壁沿いには移送待機の者が座らされ、歩行可の列と荷車移送の列が縄で分けられていた。病舎から出る者、東列から出る者、南棟へ再配置される者。札の色で区分は済んでいる。あとは順番を間違えないだけだった。


ジャサントは門番台の板に帳面を置いた。

右に移送札。

左に炭片。

中央に前夜の再配置一覧。

今日の欄を開き、上段へ先に数字を書く。


徒歩移送、十四。

荷車移送、六。

護衛、四。

馬、一。

空荷車、一。

補給布束、二。

止血具箱、一。

洗浄水、小桶三。


その下に、崖道通過順を記す。


先導一。

徒歩列七。

荷車一。

歩行緩慢三。

荷車二。

徒歩列七。

後衛一。


崖道は二人並べない。荷車がすれ違える幅もない。途中に張り出した岩が一つあり、車輪は外側へ寄る。馬を急がせると軸が鳴る。昨日の雨で土が緩んでいれば、通過順だけで落下数が変わる。順番は必要だった。


医師——エルヴァが門の内側から来た。手には小札が三枚ある。寝台から外した移送許可札だった。


「動かしていい者だけ出します」


「氏名を」


「ミア・ナディ。発熱なし。歩行可。

 サヤ・オル。付き添い可。歩行可。

 ハルク・ダレス。荷車限定。揺らすと裂ける」


ジャサントは帳面へ追記した。

ハルク・ダレス。男。第三前衛。荷車一。体位固定。

サヤ・オル。女。歩行可。

ミア・ナディ。女。歩行可。再配置移送。


「ミナは」


「病舎に残します。固定継続」


「承知しました」


エルヴァは帳面を見ずに言った。


「崖道は乾いてないです。外側へ寄せないでください」


「通過順を調整しています」


「壊さないでくださいね、今日は」


ジャサントは返答しなかった。


エルヴァはそれ以上言わず、病舎へ戻った。

診断と許可だけを置いていく言い方だった。


門柱の影に、リィナがいた。


今日は札を服の外へ出している。紐の結び目は昨日より短く、木片は喉に近い位置で止まっていた。足元には何も持っていない。東列からそのまま出てきたらしく、裾の泥は乾いて白くなっている。


「東門前は宿泊区画ではありません」


ジャサントが言う。


「知ってる」


「移送対象ではありません」


「見てるだけ」


「通行の妨げになります」


リィナは半歩だけ下がった。


「ここなら」


「問題ありません」


ジャサントは次の札を取った。


移送前の確認は短く済ませる。


氏名。

歩行。

同行者。

運ぶ物。


崖道では、話している時間より進路を塞ぐ時間の方が損耗になる。


「氏名を」


「ベン」


左足を引く老人だった。妻アダの照合欄はまだ閉じていない。先日、登録台で名を書いたまま、未確認のまま残っている男だった。


「歩けますか」


「遅いが」


「同行者は」


「なし」


「荷物は」


「ない」


ジャサントは木札の裏に移送順を加えた。

ベン。歩行列後段。外側禁止。


「内側を歩いてください」


「わかった」


次。

ミア・ナディ。

歩行可。

荷物なし。

付き添い解除済み。

再配置先、南棟。


ミアは札を受け取ると、袖の内側へ差し込まず、今日は首にかけた。返却される持ち物ではなく、自分自身の札として扱う日の動きだった。リィナはそれを見て、自分の札を押さえた。


次。

ハルク・ダレス。

荷車一。

体位固定。

止血布交換済み。

再出血時は停止。

付き添い一名なし。


ハルクは荷車の上で目を開けたが、声は出さなかった。胸元の布は新しく巻き直されている。荷台の板の上には藁束を敷き、その上に寝かせてある。揺れを減らすためだが、崖道では完全には止まらない。


サヤ・オルは門の脇で立ち止まっていた。病舎へ残した娘の方角を一度だけ見たあと、視線を戻した。昨日、ミナの肩を支えてもらった母親だった。今朝はその娘を置いて、自分だけが補助棟へ移る。付き添いの可否はエルヴァが決め、移送順はジャサントが決めた。サヤの希望は欄外にも入らない。


ガルドが最後に来た。肩に縄を掛け、腰に鉈を差している。後衛札を受け取ると、帳面の数字を見た。


「荷車二台で行くのか」


「崖道の通過は可能です」


「昨日の雨だぞ」


「承知しています」


「平地を回せばいい」


「半日かかります」


「だからって」


「病舎の寝台が足りません」


ガルドは返事をしなかった。

札を首へ掛け直し、荷車の軸を自分で蹴って鳴りを確かめた。鳴りは乾いていない。だが動かせないほどではなかった。


門が開く。

先導が出る。

徒歩列が動く。

荷車が軋む。

朝の風はまだ冷たく、崖道の方から湿りが上がってきていた。


リィナは列の外側へ出ようとした。ジャサントが袖を掴んで止める。


「移送列に入らないでください」


リィナは止まり、ジャサントの手を見た。


「見えない」


「壁沿いを歩いてください」


「うん」


ジャサントは手を離した。

リィナは一歩だけ内側へ寄った。

それから、自分の首元に触れた。

押さえる。

離す。

また押さえる。

掴まれた位置と同じあたりを見ているようだった。


崖道は東門から半刻ほど下った先にある。片側は岩壁、もう片側は落ち込み。下には乾いた沢が見え、その先に補助棟の屋根が並んでいる。普段は荷車一台ずつしか通さない。だが北側の区画が詰まり、病舎と東列の間に寝台と仮置きが増えている今朝は、人も物もここを通して分けるしかなかった。


リィナが見ているのは、知らない場所へ向かう移動ではない。

登録台で札がかけられ、隔離棟で板の上を移り、病舎で寝台を割り当てられた。今朝はそれが、門の外まで延びているだけだった。

どこへ置くかを決める作業は、昨日も、その前の日も続いていた


だが、崖道に入れば、それは帳面の上だけでは済まなくなる。


道の入口で、ジャサントはもう一度帳面を開いた。

時刻。

天候。

路面湿り。

通過開始。

必要事項だけを書き、炭を戻す。


「先導、進行」


列が動く。


歩行者は岩壁側。

荷車は外輪に木止めを当てながら通す。

後衛は切離用の縄と鉈を持つ。

決めた順を崩さない。

崩れると、止まる場所がなくなる。


リィナは列の外にいる。移送対象ではない。だが東門からここまで、少し離れてついてきていた。今も崖道の入口の手前に立ち、荷車ではなく札を見ている。荷車の前につけた赤札。歩行列の黄札。後衛の黒紐。順番のための印を見ている。


ジャサントは何も言わなかった。崖道へ入る前なら、立ち止まれる。追い返すならここだった。だが今は、列を止める方が損だった。


最初の半刻は、事故なく進んだ。


岩から水が細く落ちている場所を越え、張り出した根を踏まないよう歩幅を狭め、荷車の外輪に石を噛ませながら進む。歩行緩慢の者は二度止まったが、転倒はない。ハルクの荷車も軸は鳴るが傾きはしない。


ジャサントは要所ごとに小さく数字を直した。

停止一。

歩行遅延二。

転倒なし。

荷車異常なし。


ガルドが後ろから言う。


「今日は持ったな」


「現時点では」


「縁起でもない言い方するな」


ジャサントは答えなかった。


崖道の中ほどに、いちばん狭い場所がある。外側の土がえぐれ、内側の岩が張り出している。荷車はそこで一度車輪を切り返す必要がある。事故が起きるなら、そこだった。


狭所の手前で、ジャサントは列を止めた。


「前段、待機。

 荷車一、通過。

 歩行列、壁側保持」


ガルドが後輪へ木止めを差し込む。

前の兵が馬の頭を押さえる。

ハルクの荷車は先に通す。揺らし続けるより、止まる回数を減らした方が裂傷にはましだった。


荷車一は通過した。

軸が一度鳴ったが、外輪は持った。

ハルクの呼吸も乱れてはいない。


次は二台目だった。


二台目の荷車には、歩行不能の女が一人と、補給布束二、洗浄水の小桶が積まれている。牽いているのは若い兵と、車輪脇に付いた民兵の男一人。名は朝に書いた。民兵の男はロウ。付き添いの女はナハ。どちらも歩行可。荷台の女だけが固定札付きだった。


ジャサントは帳面に目を落とした。

ロウ。男。荷車補助。

ナハ。女。付き添い。

歩行不能女。氏名確認済み。再配置先補助棟。


「進行」


馬が一歩出る。

前輪が石を越える。

後輪が外へ鳴る。

木止めが一度はまる。

次の瞬間、外側の土が崩れた。


音は短かった。

崩れた土が下へ落ち、後輪が外へ沈み、荷車の後ろが大きく傾く。

ロウが咄嗟に荷台へ手を掛ける。

ナハが叫ぶ。

小桶が一つ外へ転がり、崖下へ消えた。


「停止」


ジャサントが言う。


馬が暴れかけたが、前の兵が頭綱を引いた。

荷車は完全には落ちていない。前輪と軸だけが道に残り、後ろ半分が外へ傾いている。外輪の片側は空中だった。


ロウは荷台の脇にしがみついていた。

ナハは内側の岩へ背をつけ、荷台の女の腕を掴んでいる。

歩行不能の女は声を出していない。布固定のまま動けない。

馬がもう一度首を振れば、軸ごと持っていかれる。


ここで初めて、さっきまでの「移送」が、帳面から外へはみ出す。


ガルドが叫ぶ。


「引き戻すぞ」


ジャサントは車軸を見る。

地面の割れ目を見る。

土の崩れ方を見る。

外側へかかった重さと、残っている支点の位置を見る。

三人以上が同時に荷台へ掛かれば、道ごと崩れる。


「人数をかけないでください」


「まだ持ってる」


「支点が薄い」


「引ける」


「荷台を軽くします」


ジャサントは荷物札を見た。

布束二。

小桶残二。

固定患者一。

補助員二。

このままでは重すぎる。


「布束を落とします」


ナハが顔を上げた。


「だめ、それ洗浄の布でしょう」


「はい」


「向こうで要るんでしょう」


「承知しています」


「なら」


「先に軽くします」


ジャサントは荷台の後端に寄せてあった布束をひとつ掴み、外側ではなく内側の岩壁側へ投げた。もう一つも同じように落とす。道の内側なら回収できる。小桶は一つ失われた。残る一つも下ろす。これ以上、荷が動けば軸がずれる。


ガルドがロウへ手を伸ばす。


「掴め」


ロウは片手だけを離しかけ、すぐ戻した。荷台の女の脚がずれていた。掴めば自分は上がれる。だが荷台の女が滑る。そう見えた。


「先に女を」


「無理です」


ジャサントが言う。


「固定が外れる。荷重が後ろへ寄ります」


ナハが女の腕を引く。

女は重い。

板が鳴る。

外輪がさらに沈む。


ジャサントは路面のひびを見る。

足元の土が粉になっている。

これ以上の保持は長く持たない。


「ロウ、手を離して内側へ」


ロウは動かない。


「先にこの人を」


「荷台固定を解く時間がありません」


「まだ引ける」


「引けば道が落ちます」


ガルドが振り返る。


「おい」


ジャサントは荷車と、その後ろに詰まった歩行列を見る。

ベン。

ミア。

サヤ。

補助兵。

あと七人。

ここで道が落ちれば、後段まで巻き込む。

止まっている時間も長すぎる。


「切離の準備」


ガルドが一度、何も言わなかった。

それから低く言う。


「まだ乗ってる」


「承知しています」


「二人いる」


「把握しています」


「切るのか」


「はい」


ナハの手が止まる。

ロウがこちらを見る。

荷台の女は動かない。

馬が首を鳴らした。


リィナは崖道の入口側から、ずっとそのやり取りを見ていた。近くまでは来ていない。だが声は届いていた。視線は落ちそうな荷車より、ジャサントの口と手の方へ向いている。命令を出す口。縄を見る手。切離用の鉈へ伸びる手。


昨日、病舎で子どもの肩を支えていた手が、

いまは切るために動く。

リィナの中では、その二つがまだ繋がっている。


「後段、二歩下がって待機」


ジャサントが言う。


「ガルド、前綱保持。

 兵一、馬頭固定。

 兵二、ナハを引く。

 ロウは二度目で離れない場合、切離」


ナハが叫ぶ。


「待って———!!」


ガルドが腕を伸ばし、内側からナハの肩を掴んだ。

ナハは一度抵抗したが、足元が滑って膝を打ち、そのまま引かれた。

荷台の女の腕が離れる。

板がもう一度鳴る。


ロウだけがまだ残った。


「離してください」


ジャサントが言う。


ロウは首を振った。


「まだ」


「持ちません」


「この人、動けない」


「承知しています」


「だったら」


「切離します」


ジャサントは鉈を受け取った。

縄は車軸ではなく、馬と荷台をつなぐ主綱にかかっている。そこを切れば、前だけは残る。後ろは落ちる。時間は一度きりだった。


ガルドが低く言う。


「お前がやるのか」


「命令です」


「……っ」


「前を見てください」


ロウが最後に何か言った。

風と馬の鳴きで、言葉は切れた。

聞き取れなくても、順番は変わらない。


「切離」


鉈が縄へ入る。

一度。

二度。

繊維がほどけ、張っていた綱が跳ねる。

次の瞬間、後ろ半分が崖下へ落ちた。


木の裂ける音。

短い叫び。

石へ当たる音。

それで終わった。


前輪と馬だけが道に残る。

ガルドの腕に綱の擦れが残った。

ナハはその場に膝をついた。

歩行列は誰も声を出さなかった。

出せる幅ではなかった。


ジャサントはすぐに帳面を開いた。


時刻。

崖道中部。

荷車二、後部落下。

切離実施。

補給布束二、回収可。

洗浄水一、喪失。

落下二。

ナハ救出。

後段停止時間、短。


炭を戻し、顔を上げる。


「後退一歩。

 内側保持。

 通過順を変更します」


ナハが膝をついたまま言った。


「書くの」


ジャサントは見下ろした。


「必要です」


「いま——」


「いまです」


ナハは口を開いたが、声にならなかった。

ガルドが彼女の腕を引き、岩壁側へ寄せる。

ミアは崖下を見なかった。

ベンはただ足元だけを見ていた。

サヤは自分の札ではなく、病舎へ残した娘の方角を見るように顔を上げたが、そこに見えるのは岩と空だけだった。


リィナは首元を押さえた。

強く。

離さない。

落下の音が消えたあとも、指だけがそこに残っていた。


ジャサントは荷車の残った前部を路肩へ寄せ、馬を外させた。

進路を塞ぐものをどける。

布束は内側へ落ちている。回収できる。

洗浄水は一つ失われた。

歩行不能の女とロウは回収不能。

現時点では。


ガルドが言う。


「まだ確認もしてねえ」


「崖下は後続処理です」


「生きてるかもしれない」


「可能性はあります」


「なら」


「今下りると、ここが止まります」


ガルドは答えなかった。

鉈を返すとき、柄を強く握りすぎていた。

その指の跡が白く残っている。


通過順は組み直された。

徒歩列を先に送る。

残った荷車は最後。

ナハは歩行可へ移し、付き添い欄を閉じる。

喪失分は欄外へ出す。


ジャサントは札を書き換えた。

ナハ。女。歩行列後段。同行者喪失。

ロウ。男。落下。確認待ち。

歩行不能女。落下。氏名確認済み。回収待ち。


リィナがその動きを見ていた。

札が書き換わる。

位置が変わる。

人が消えてから、札の方が先に残る。

隔離棟で見たことと似ていた。

ただ、今日は音が先にあった。


列は再び動いた。


誰も、落ちた場所を見ながらは歩かなかった。

見れば足元がずれるからだった。

ジャサントは先頭ではなく中ほどに入る。

数字を持っている者が、止まる位置を決める必要がある。

ガルドは最後尾についた。

何も言わない。

ナハのすぐ後ろに立った。


リィナは崖道の入口から先へは来なかった。

そこに立ったまま、残った荷車と歩行列が狭所を抜けるのを見ていた。

ジャサントが内側へ寄れと言った時だけ、一歩下がった。

そのあと、また札を押さえた。


補助棟へ着いた頃には、日が高くなっていた。

移送者を下ろし、再配置先を照合する。

ハルクの止血布を確認。

ミアを南棟へ。

ベンを壁沿い区画へ。

サヤは煮炊き場補助へ仮置き。

朝に書いた数字を、到着数へ直す。


徒歩移送、到着十三。

荷車移送、到着一。

落下二。

洗浄水一、喪失。

布束二、回収済み。


布束はあとから兵が拾ってきた。

崖下へは行っていない。

内側へ落ちた分だけだった。


ナハは補助棟の壁のそばで座らされた。

水を渡されても、すぐには飲まなかった。

ジャサントが新しい札を持っていく。


「氏名を確認します」


「……ナハ」


「同行者欄を修正します」


ナハは顔を上げた。


「切ったの、あなた」


「はい」


「すぐだった」


「保持時間がありませんでした」


「ロウ、まだ」


「確認待ちです」


ナハは札を受け取らなかった。

ジャサントは札を壁の釘へ掛け、帳面へ修正を入れた。

受け取れない者の分は、位置で残す。

それだけだった。


昼を過ぎて、帰路の準備に入る。

空いた荷車一。

回収した布束二。

洗浄水補充なし。

後続処理班二を追加。

崖下確認は往復の帰りに行う。

今下りるより、列を戻してからの方が損耗が少ない。


ガルドが帳面を見る。


「後続処理班って書くのか」


「必要です」


「名前じゃなくて」


「氏名欄は帰還後に埋めます」


ガルドは鼻で息を吐いた。


「お前、朝と同じ顔だな」


「変化はありません」


「……そうかよ」


それだけ言って離れた。

怒鳴りはしない。

だが、鉈を腰へ戻す手つきが荒かった。


帰路、崖道の狭所では兵二名が下へ回った。

土はまだ崩れている。

荷車の後部は見えない位置に落ちていた。

ロウは即死。

歩行不能の女も反応なし。

回収は後回し。

先に札だけを上げる。


ジャサントは上で待ち、引き上げられた二枚の札を受け取った。

泥と血で濡れている。

黒印を入れるには、まず記録が要る。


ロウ。死亡確認。崖下回収待ち。

女。氏名確認済み。死亡確認。崖下回収待ち。


ガルドが言う。


「下見たか」


「見ていません」


「見るべきだろ」


「札が確認できれば足ります」


ガルドは返事をしなかった。


リィナは少し離れた岩陰にいた。

今度は崖下を見ていた。

長くは見ない。

すぐに視線を戻し、自分の札を押さえる。

そのあと、ジャサントの手元の黒印を見る。

落ちたあとに付く印。

移った位置のための印。

それを見ている。


砦へ戻る頃には、空が鈍く曇っていた。

東門で再度人数を照合する。


出発、二十四。

帰還、二十二。

崖下回収待ち、二。

器具損耗なし。

補給布束二、維持。

洗浄水一、喪失。


門番台の前で、ジャサントは札の位置を移した。

歩行列の束から、死亡確認待ちの束へ。

確認待ちから、黒印付きの束へ。

順番は同じだった。

書く。

印をつける。

移す。

紐を揃える。


リィナはその横に立っていた。

朝より近い。

だが台には触れない。

視線は札が移るところへ固定されている。


「切ったの」


小さく言った。


ジャサントは帳面を閉じなかった。


「はい」


「落ちた」


「はい」


「書いた」


「必要です」


リィナは少し黙った。

首元を押さえる。

離す。

また押さえる。


「助けるためにじゃないの」


ジャサントは炭を置いた。


「後段を止めないためです」


「でも、さっきの子は支えた」


ミナのことだった。

病舎での朝の処置を指している。

リィナの中では、同じ手で行われた二つの動作が、まだ一つのものとして並んでいた。


「固定で保持が必要でした」


「今日は」


「切離が必要でした」


「同じなの」


「手順です」


リィナは返事をしなかった。

帳面ではなく、ジャサントの手を見ていた。

ミナを支えた手。

縄を切った手。

同じ位置にある指を見ている。


「やさしくしたのに」


そう言ってから、すぐに口を閉じた。

自分で言い直さないまま、札を服の内側へ押し込む。

今日は紐を引かなかった。

ただ、木片が胸の内側にある位置を確かめた。


ジャサントは今日の欄に最後の一行を加えた。


崖道事故。

切離一。

落下二。

後段維持。

再配置継続。


帳面を閉じる。

東門の外では、もう次の荷車が待っていた。

止まっている時間は長くなかった。

長くしないために切った。

それだけだった。


リィナはまだそこにいた。


「わたしも、あっちだったら」


ジャサントは顔を上げた。


「どちらですか」


「外」


「移送列に入っていません」


「入ってたら」


「状態に応じます」


リィナはうなずかなかった。

首元の内側を押さえたまま、少しだけ下を向く。

それから、帳面を見る。

札を見る。

黒印を見る。

最後に、ジャサントを見る。


「書いてあっても」


ジャサントは答えた。


「位置は変わります」


リィナはそれ以上聞かなかった。

踵を返し、東列の方へ歩き出す。

途中で一度だけ止まり、首元を押さえる。

確認して、また歩く。


門番台の上には、黒印のついた札が二枚増えていた。

右に死亡確認。

左に回収待ち。

中央に翌日の空欄。

炭は短くなっている。

明日になれば、また書き足す必要がある。


崖道はまだ閉鎖されていない。

切った縄だけが、回収箱の中に残っていた。

ご拝読ありがとうございました。

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