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戦姫メイド  作者:
PR
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第4話 壊れている者たち

朝の鐘が鳴る前、病舎の裏手ではもう湯が沸いていた。


裏庭はまだ暗く、石敷きの隙間に昨夜の湿りが残っている。煮沸用の鉄鍋は三つ並び、中央の鍋だけが強く音を立てていた。火床(ひどこ)の脇には洗浄前の器具箱、乾いた布束、焼却待ちの汚染布、返却用と保留用の木箱。置き場は昨日と変わらない。変わらない方が数えやすい。


ジャサントは火の具合を見て、鉄鍋の縁に触れた。十分に熱い。火箸で蓋をずらし、湯の中に沈めていた器具を一本ずつ引き上げる。鉗子。縫合針。小刀。骨針。布の上へ並べ、柄の欠けと歪みを確認する。使えるものは右。研ぎ直しは左。曲がりが戻らないものは廃棄箱へ入れる。


器具は使われた順に傷むわけではない。刃の欠けは一度の衝撃でも起きる。柄の緩みは数日の使用で出る。どれが今日の処置に耐えるかは、湯から上げたあとでなければ分からない。


隣には使用済みの布が積まれていた。まだ湿っている。血の色は濃いものと薄いものがある。膿の色が混じったものもある。ジャサントは一枚ずつ広げ、裂け、汚染、繊維の傷みを見た。再洗浄。焼却。裁断して雑巾へ。分類が終わると、束を紐で分ける。順番はいつも同じだった。


裏口の脇には、死者の持ち物を入れる木箱が三つ並んでいる。氏名確認済み。照合待ち。返却不能。


ジャサントは箱の蓋を開け、中身を台へ移した。匙。革紐。欠けた櫛。小さな祈祷板。靴紐だけになった片方の靴。血で固まった布袋。乾いた泥のついた木笛。持ち物は小さい方が多い。大きいものは途中で失われるか、誰かが運ぶ前に別の用途へ回される。


帳面を開き、札の記載と持ち物を照らし合わせる。


ルシオ・ヴァン。匙一、革紐一。

未確認男。祈祷板一。照合待ち。

セナ・ルクス。布袋一。返却保留。

フェル・ナディ。木笛一。付添者照合済み、返却待ち。


物に感情はない。だが持ち主の欄は必要だった。名と物が離れると、返却先が曖昧になる。曖昧なものは残りにくい。残りにくいものは、帳面の外へ落ちやすい。


ジャサントは木箱の外側に新しい札を掛けた。返却待ちの箱には本日分の追記欄をつける。照合待ちの箱には未確認二、再照合一。黒印箱はまだ使わない。


そこで足音が止まった。


振り向かなくても分かった。軽い。ためらいがある。靴底を引きずらない。リィナだった。


裏口の柱の影に立っている。今日は札を服の外へ出していた。夜のうちに結び直したのか、昨日より首に近い位置に来ている。木片は胸の中央より少し上で止まり、紐は耳の下を通っていた。昨日までのように服の内側へ隠していない。だが手はすぐ触れられる位置にあった。


「病舎裏は宿泊区画ではありません」


ジャサントが言う。


「知ってる」


リィナは木箱を見た。次に、台の上の物を見た。最後に、ジャサントの手元の札を見た。


「それも、書くの」


「必要なものは」


「しんだひと・・・の?」


「返却のために」


リィナは祈祷板を見た。触れはしない。その代わり、自分の札に手をやった。首元を押さえ、離した。


「返す人、いるの」


「確認できれば」


「いないときは」


「保留します」


「ずっと」


「規定の期間までは」


リィナはうなずいた。理解したのかどうかは分からない。ただ、返却不能の箱ではなく、返却待ちの箱を長く見ていた。


ジャサントは器具を布で拭き、所定の箱へ戻した。次に焼却用の布束を持ち上げる。そのとき、病舎の正面から担架の音がした。木の軋む音と、誰かの息の上がった声が重なる。朝の配給前の静けさの中では、その音だけがはっきり聞こえた。


エルヴァが裏口から顔を出した。


「ジャサント。表へ来てください」


布束を置き、器具箱の蓋を閉める。帳面を持ち替え、前庭へ回る。リィナの足音が少し遅れてついた。


担架は二つあった。


一つ目には重装兵の男。胸当ては外され、肋の下に深い裂傷がある。布はすでに三枚重ねられていたが、いちばん外側まで赤が滲んでいる。顔色は悪いが意識はある。瞳は開いており、問いに反応できる。


二つ目には幼い女児。左腕を抱えたまま泣いている。泣き声は途切れず、息の入り方が浅い。肩口から胸にかけて青黒く腫れていた。付き添いの女が一緒にいる。母親らしい。女児の名を何度も呼んでいたが、泣き声でほとんど潰れていた。


エルヴァが傷を見て言った。


「器具は一組。湯もまだ足りない。先に対処できるのは1人だけです」


ジャサントは重装兵の傷口を見た。出血量。呼吸。瞳の動き。胸郭の上下。傷の深さ。

次に女児の肩と胸を見る。腫脹、泣き方、指先の色。呼吸の偏り。顎の位置。即時の介入で変わる余地。

母親は女児を支えながら、何かを言おうとして声がまとまらない。


「先にこの子を見てください」


ようやくそう言った。


「ずっと泣いてるんです、息が、息が苦しそうで」


ジャサントは女児の顎を少し上げ、呼吸の音を聞いた。詰まりではない。痛みで浅くなっている。胸郭の動きは左右で差がある。肩関節か鎖骨周囲のずれの可能性が高い。固定と安静が先だ。一方、重装兵は止血と縫合が間に合えば生存率が上がる。回復後の復帰も見込める。


「重装兵を先に」


ジャサントは言った。


母親が顔を上げた。


「この子の方が苦しんでるでしょう」


「承知しています」


「じゃあどうして・・・」


「重装兵は処置後の生存率が高い。歩行可能まで戻れば本日中に搬送、数日内に軽務へ復帰できます。女児は固定を優先。現時点で即時切開の効果は低い」


「この子はずっと泣いてるのよ」


「把握しています」


母親の声が一段高くなる。


「泣いてる子より、兵隊を先にするの」


「はい」


エルヴァは一度だけジャサントを見たが、反対はしなかった。止血具を広げ、重装兵の脇へしゃがむ。


「名前を」


ジャサントが男に問う。


「……ハルク」


声は掠れていた。


「ハルク・ダレス」


「所属を」


「第三前衛」


「年齢を」


「三十一」


ジャサントは帳面に書く。

ハルク・ダレス。男。三十一。第三前衛。胸腹部裂傷。優先処置。


次に女児を見る。


「氏名を」


母親が答えた。


「ミナ。ミナ・オル」


「年齢を」


「六」


「付き添いは」


「母親、サヤ」


「発熱は」


「ない」


ミナ・オル。女。六。左肩部損傷。呼吸浅。固定優先。

サヤ・オル。女。母。付き添い。


書き終えた時も、ミナは泣いていた。泣きながら肩を動かそうとする。動くたびに呼吸が乱れる。母親が押さえようとしてもうまくいかない。


「動かさないでください」


エルヴァが言った。


「ずれる」


ジャサントはミナの前に膝をついた。左腕の下へ手を入れ、背を支える。頭を胸へ寄せ、肩と首が動かない角度へ静かに引き寄せた。泣き声は止まらない。だが体の揺れは小さくなる。呼吸の乱れも少し下がる。


「そのままです」


エルヴァが重装兵の傷へ手を入れながら言う。


ジャサントは答えず、ミナを支え続けた。


子どもは泣きながら、ジャサントの服を掴んだ。白い布に小さな指が食い込む。ジャサントの腕は動かない。支える位置も変わらない。必要なのは、逃がさないことではなく、ずらさないことだった。


裏口の柱の影から、リィナがその様子を見ていた。視線はミナの顔から、ジャサントの腕へ移る。それから自分の札へ落ちる。札を押さえる。離す。もう一度押さえる。


重装兵の止血が進む。布が赤くなる。新しい布が重なる。エルヴァは一度だけ手を止め、ジャサントに言った。


「ミナの角度、そのままでお願いします」


ジャサントは女児の体をわずかに引き、顎を保つ。泣き声が細くなる。母親はその前で立ったまま、何もできずに見ていた。


「やさしくしてくれてるのね」


サヤが言った。


ジャサントは返答しなかった。ミナの肩がずれないことだけを見ていた。


しばらくして、エルヴァが重装兵の傷から手を離した。


「止まった」


ハルクの呼吸はまだ荒いが、先ほどより安定している。エルヴァは布を替え、固定具を当てる。


「次はこっち」


そう言ってミナを見る。


ジャサントはそのまま体を支え続けた。ミナの肩が動かない位置を保つ。サヤは女児の髪に触れたまま、今度は何も言わなかった。


「泣き疲れて少し落ちた。今なら入る」


エルヴァが肩の位置を見て、整復に入る。短い音がして、ミナの泣き声がまた大きくなった。ジャサントは腕を緩めない。必要がなくなるまで、その位置を保つ。


処置が終わると、ミナは泣きながら眠った。肩は固定され、呼吸も少し深くなる。ジャサントはそっと腕を抜き、寝台へ横たえた。毛布をかけるのではなく、寝返りを打たない位置へ体を戻す。寝台札を掛け直し、固定注意の印を足す。


サヤは寝台の脇にしゃがみこんだ。


「ありがとうございます」


相手が誰に向けて言ったのか、ジャサントは確認しなかった。エルヴァは道具を集め、従兵は血のついた布を回収している。病舎では、礼を向ける先はひとつではない。


その一連の動きを、リィナは見ていた。


表の騒ぎが落ち着いたあと、病舎の中はまた朝の手順へ戻った。使った器具を湯へ戻す。血のついた布を分ける。切り捨てた糸を集める。名前の書かれた札を寝台に掛け直す。処置が終わると、処置前より動きは単純になる。単純な作業ほど順番が崩れにくい。


ジャサントは洗浄台で器具を洗っていた。ハルクに使った鉗子の根元にはまだ赤が残っている。湯の中で開閉し、布で拭き、刃先の欠けを確かめる。使える。右へ置く。縫合針は一本曲がっていた。研ぎ直し箱へ回す。血の色の違い、乾き方、こびりつき方で、使われた時間が分かる。


リィナは少し離れたところで立っていた。今日は病舎の中へ入っている。だが寝台には近づかない。洗浄台と札の位置だけを見ている。


「何を見ていますか」


ジャサントが問う。


リィナは少ししてから言った。


「さっきの子」


「ミナ・オル」


「泣いてた」


「はい」


「あなた、抱いてた」


「固定していました」


リィナは黙った。洗浄台の上の鉗子を見る。それから寝台の方を見る。また自分の札へ手をやる。


「でも、落ちなかった」


声は小さかった。


ジャサントは鉗子を箱へ戻した。


「動くと状態が悪化します」


「そうじゃなくて」


リィナはそこまで言って止まった。言い直さない。札を服の内側へ入れ、紐を引く。確認する。離す。


エルヴァが裏口から入ってきた。手を洗いながら、洗浄台の横の木箱を見た。氏名確認済み。照合待ち。返却不能。その隣に、今朝仕分けた持ち物が整然と並んでいる。


「朝からずっとやってたの」


「日課です」


「器具洗浄、布の分類、持ち物の照合、記録の修正」


「はい」


エルヴァは布束を一つ持ち上げ、焼却用の紐を見た。置き直す。次に返却保留の箱の中をのぞく。セナ・ルクスの布袋が入っている。口は結ばれたままだ。


「死後処理まで、同じ顔でやる」


ジャサントは答えない。エルヴァは手を拭き、彼を見た。


「あなたは壊れている」


病舎の中にいた者は、誰もそれに反応しなかった。聞こえていても、口を挟まない。エルヴァの声は大きくなかったし、内容は新しい情報ではなかったからだ。


ジャサントは器具箱の蓋を閉じた。


「修復が必要ですか」


エルヴァはすぐに答えなかった。寝台のミナを見る。重装兵ハルクを見る。台の上の札を見る。リィナを見る。それから言う。


「まだ判断しない」


「承知しました」


それで会話は終わった。


リィナは洗浄台の横で動かなかった。壊れている、という語を聞いたあとも、病舎の空気は変わらなかった。器具は乾かされ、布は束ねられ、寝台札は掛け直される。言葉より作業が先に進む。


ジャサントは布束を持ち上げ、焼却場へ運ぶ。リィナがそのあとをついていく。


焼却場の火はもうついていた。湿った布を投じる。赤が黒へ変わる。形が崩れる。糸が縮む。布端の結び目から先に焼ける。ジャサントは空になった籠を返し、次の束を取りに戻る。


戻る途中、リィナが言った。


「壊れてるの」


「エルヴァはそう言いました」


「ほんとに」


「未確認です」


リィナはしばらく歩いてから、自分の札を服の内側から少しだけ出した。見て、またしまう。


「壊れてても、書ける」


ジャサントは返答しなかった。返答を要する項目ではなかった。


病舎へ戻ると、死者の持ち物箱の前で従兵が待っていた。午前中に死亡確認された者の持ち物が追加される。小さな靴。布切れ。木の笛。革の留め具。ジャサントは受け取り、台へ並べた。


「氏名を」


従兵が答える。ジャサントは札を作り、箱へ分ける。氏名確認済み。照合待ち。返却不能。順番は変わらない。


リィナはその横で、小さな靴を見ていた。触れない。自分の足元を見る。それから首元を押さえる。靴と札を同じ列には置かない。ただ、同じ台の上に並ぶものとして見ている。


昼を過ぎると、病舎内の音は落ち着いた。寝台の軋み、布を絞る音、水桶を置く音、低い咳。叫び声のない時間は、かえって作業の切れ目が見えやすい。ジャサントは朝の処置記録に追記を入れる。


優先処置一、止血完了。

固定処置一、経過観察。

器具損耗一。

焼却布束一。

返却保留、増一。


エルヴァはミナの寝台で包帯の位置を見ていた。サヤは椅子に座り、眠っている娘の指先だけを見ている。ハルクは意識が落ちていたが、呼吸は保たれている。どちらも、朝の時点よりは残る可能性が高い。帳面に書けるのはそこまでだった。


午後の短い配給のあと、ミナが一度だけ目を覚ました。泣かなかった。代わりに、左肩を動かそうとして眉を寄せた。サヤがすぐ手を添える。


「動かないでください」


エルヴァが言う。


ミナはうなずかなかったが、動きは止まった。ジャサントは寝台札の紐を直し、固定継続の印が見える位置へ向ける。


リィナはその近くまで来ていた。寝台に触れない距離で止まり、ミナの胸元の札を見ている。


「なまえ、ある」


小さく言う。


ジャサントは返答しない。ミナの母がその声を聞いたかどうかも確認しない。札の向きを揃え、次の寝台へ移る。返事をしなくても、札はそこにある。


午後の後半、ジャサントは再び裏手へ回った。残っていた器具を乾いた布へ移し、研ぎ直し箱と廃棄箱の数を確かめる。骨針一、柄割れ一、刃こぼれ軽微二。持ち物箱の照合欄に午後分を足す。木の笛はフェル・ナディの返却欄へ移す。小さな靴は未確認のまま据え置く。照合待ちの欄が一つ増える。


リィナは柱のそばから見ていた。


「それ、返すの」


「確認できれば」


「笛も」


「はい」


「靴は」


「未確認です」


「じゃあ、まだ」


「照合待ちです」


リィナはうなずき、自分の札を一度だけ服の外へ出した。表を見て、また入れる。札を見せる動作ではなく、自分の手元にあることを確かめる動作だった。


日が傾く頃、病舎の床はまた拭き直され、器具は乾いた布の上へ戻されていた。寝台の札は掛け直され、持ち物箱には新しい名札が増えている。重装兵ハルクは眠っていた。ミナ・オルも、泣き疲れたまま眠っている。サヤは寝台の脇で背を壁へ預け、目を閉じていた。


ジャサントは当日分の記録帳を開いた。

処置二。

優先処置一。

固定処置一。

持ち物照合追加三。

焼却布束二。

返却保留追加一。

研ぎ直し一。

廃棄一。


書き終える。砂を振る。頁を閉じる。順番に変わりはない。


少し離れたところで、リィナはミナの寝台と洗浄台を見比べていた。それから、自分の札を服の内側へ押し込み直す。今日は紐を引かなかった。ただ、位置だけを確かめた。


「宿泊区画へ戻ってください」


ジャサントが言う。


リィナはうなずいた。病舎の出口まで歩き、そこで一度振り返る。


「ねえ」


「何ですか」


「さっきの子、名前あるね」


「あります」


「じゃあ、明日もいる」


ジャサントは少しだけ間を置いた。


「記録は残ります」


リィナはそれ以上聞かなかった。うなずいて出ていく。首元には触れず、そのまま宿泊区画へ向かった。だが病舎の戸口を越える直前、胸の高さだけ一度下がった。服の内側の札を、外から押さえたのだと分かった。


病舎には洗浄の匂いが残っていた。器具は乾いている。持ち物箱の札は増えている。寝台の名は掛け直されている。記録帳は閉じられている。


明日も、同じ順番で始まる。

ご拝読ありがとうございました。

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