第3話 隔離棟
本日は2話投稿になります。
意外と多くの方たちからご拝読いただいているようで、投稿ペースを少し上げようかなと思い、本日から3日間は2話ずつ投稿していきます。
なるべく多くの方に見ていただければ幸いです。
翌朝、ジャサントは記録帳の修正から始めた。
窓の外はまだ白んだばかりだった。夜のあいだについた水滴が、記録室の外壁を細く伝っている。机の端に置いた灯りは消えていたが、昨夜の炭の粉が板の上に残っていた。黒印箱は閉じたまま、帳面は昨夜の頁で止まっている。
ジャサントは椅子を引き、帳面を開いた。
前夜分の追加。
死亡確認、八。
未確認から照合済みへ移行、五。
単独未成年一名、東列三番へ再配置。
高熱疑い、増三。
歩行不能、増四。
仮保護継続、一。
その下に、病舎の経過観察欄を追記する。
フェル・ナディ。男。九。頭部打撲。付添一名。
ミア・ナディ。女。付添継続。発熱なし。
トア。男。推定五。夜間発熱。
セナ・ルクス。死亡確認済み。札移動済み。
イオ・ルクス。男。所在区画未確認。照合継続。
昨日の終わりに書き切れなかった項目を、空いた欄へ差し込む。字の高さを揃え、炭の濃さを均し、時刻を書き入れる。砂を振る。頁を閉じる。時計を見る。鐘まで五分あった。
今日の業務は、収容区画の登録からではない。夜間に病舎から隔離棟へ回った者がいる。発熱者は区画帳だけでは済まない。寝台札、接触者、搬送経路、洗浄水、付き添いの可否。確認事項が増える。
ジャサントは帳面を二冊に分けた。
一冊は病舎経過。
もう一冊は隔離棟管理。
木札の束は少なめでよい。隔離棟で必要になるのは新規札より、位置移動の札だった。
扉を開けると、廊下の壁際にリィナがいた。
昨日と同じ仮札を服の内側へ入れている。紐だけが首元に見えていた。東列の天幕からそのまま来たらしく、裾に土がついている。まだ朝の配給前で、人の流れは細い。記録室の外は宿泊区画ではない。待っていてよい場所でもない。
「ここは宿泊区画ではありません」
ジャサントが言うと、リィナはうなずいた。
「知ってる」
「戻ってください」
「あとで行く」
「配給前です」
「わかる」
「では戻ってください」
「終わったら」
ジャサントはそれ以上言わなかった。従わせるには従兵を呼ぶ必要がある。従兵を呼ぶほどの妨げではない。彼女は壁から離れている。通路も塞いでいない。昨夜の修正欄には、指示反応ありと書いた。その記述に誤りはなかった。
ジャサントは病舎へ向かった。後ろに足音がつく。小さい。一定の速さで、止まらない。昨日の夜、死者確認所までついてきたのと同じ速さだった。
病舎の前ではエルヴァが湯を捨てていた。桶の底に薄い赤が残っている。捨てる場所はいつも同じで、壁際の排水溝に沿って流れる。湯気はもう少ない。夜通し使った水だった。
「一人、夜のうちに発熱しました」
エルヴァは桶を傾けたまま言った。
「隔離棟へ回しましょう」
「氏名を」
「トア。昨日の単独保護」
「発熱時刻は」
「夜半すぎ。咳なし、嘔吐なし。熱だけ」
「接触者は」
「昨夜は東列三番。付添なし」
「承知しました」
ジャサントは帳面を開き、欄外へ追記した。
トア。男。推定五。夜間発熱。隔離棟移送。
時刻を記す。
確認者、エルヴァ。
寝台札移動、未了。
「フェルは」
「まだ生きています。まだ、ね」
エルヴァは桶を脇へ寄せた。
「ミアは離れない」
「接触区分は」
「付き添い扱いで置いてる。熱はない」
「承知しました」
エルヴァはそれ以上言わず、中へ戻った。判断ではなく状態だけを置いていく言い方だった。ジャサントは帳面を閉じ、病舎奥の通路へ進む。
隔離棟は病舎のさらに奥にある。外壁寄りで、風の抜ける側に建っていた。石造りではなく板張りで、壁は薄い。病舎より一棟ぶん離して建てられている。窓は小さい。寝台の間隔は広い。入口の脇に洗浄桶が二つ、その横に札板が掛けられている。札の色は三種類。発熱者、接触者、経過観察。黒印は死亡確認済み。見分けがつけば足りる。
木の匂いより、水と布と薬草の匂いが強かった。まだ新しい板張りだが、内側にこもる空気は病舎より重い。隔離棟は治す場所ではなく、分ける場所に近い。熱のある者、熱のない付き添い、まだ決まっていない者。状態が変われば札も移る。
ジャサントは入口で手を洗った。桶の水位を見る。昨日より低い。交換が早い。発熱者が増えると洗浄水の減りも早い。布の使用枚数、寝台周りの拭き取り、吐瀉の有無。数字に出る前に水位で分かることがある。
札板を順に確認する。
欠けている札はない。
並びも崩れていない。
上段、発熱者。
中段、接触者。
下段、経過観察。
その脇に、黒印付きの一時掛け。
まだ空いていた。
リィナは中へ入らず、扉の脇に立った。視線は寝台ではなく、札板へ向いている。
「そこにいると導線に入ります」
ジャサントが言うと、リィナは半歩下がった。
「ここなら・・・」
「問題ありません」
「見てるだけ」
「触れないでください」
「うん」
最初の寝台にトアがいた。口を開けて眠っている。額に濡れ布が載っていた。足元の毛布が片方だけずれている。昨夜の東列三番の札は外され、寝台札に替わっている。まだ炭の色が新しい。小さな胸が早く上下していた。
ジャサントは布を外し、体温を測り、脈を数えた。熱は高い。呼吸は早い。汗は少ない。寝台札の下に印を一つ足す。経過観察から発熱者への移動ではない。最初から発熱者の列にある。ただし、熱の高さを示す記号を追加する必要があった。
「水分は」
エルヴァが奥から言う。
「昨夜、少量」
「嘔吐は」
「なし」
「承知しました」
次の寝台。
女。咳あり。三十代。発熱継続。付き添いなし。
次。
男。高齢。発熱と震え。手指硬直あり。
次。
フェル・ナディ。男。九。
ミア・ナディは寝台の横に座っていた。背が昨日より丸い。目は開いていたが、焦点は安定していない。昨夜と同じ服で、裾だけが濡れている。いつからそこに座っていたのか分からない。寝台札の紐を見ているのではなく、その向こうを見る目だった。
「体温を確認します」
ジャサントは言い、フェルの瞼を持ち上げた。瞳孔反応は鈍い。唇が乾いている。呼吸の間隔が長い。脈は細い。昨夜より悪い。体温を測り、帳面に記す。頭部打撲に伴う反応低下。発熱なし。反応鈍。脈拍低下。再観察要。
ミアが言った。
「この子の名前、書いてあるのよね」
「はい」
「消えないのよね」
「記録は残ります」
「残るのね」
「現時点では」
ミアはそれ以上言わなかった。フェルの手を握り直した。爪の先が白くなる。ジャサントは次の寝台へ移った。
扉の外で、リィナは札板を見ていた。フェル。トア。ミア。名の並びを目で追っている。指を出しかけ、一度止め、そのまま手を下ろした。
「触れないでください」
ジャサントが言う。
「うん」
「順番が変わると照合に時間がかかります」
「変わるの」
「状態に応じて移動します」
「どこに」
「必要な位置へ」
「戻ることもある」
「あります」
「なくなることもある」
「札は残ります」
リィナは首元に手をやった。服の内側の札を押さえ、離した。そのまま札板を見る。板に掛かっている札と、自分の胸の内側にある札を、同じものとして比べているようだった。
午前の半ば、水が足りなくなった。
入口の洗浄桶は半分を切っている。拭き布を替えるたびに水が減る。従兵の姿は見えない。病舎前で別の搬送が重なっていた。声をかけても返事が遅れる距離だった。
「水を一桶」
ジャサントは通路の向こうへ声をかけたが、返事はなかった。その間に、リィナが空の小桶を持ち上げた。
「どこ」
「井戸です」
「持てる」
「半量で足ります」
「わかった」
リィナは走らずに行った。小桶は大きすぎず、小さすぎない。子どもが両手で持てる大きさだった。足音が一度遠ざかり、しばらくして戻ってくる。
戻ってきた小桶をジャサントが受け取る。縁の半分まで水が入っている。こぼれていない。洗浄桶へ移す。半量で足りた。余りは出ない。
「もう一つ持ってくる」
「現時点では不要です」
「うん」
リィナは小桶を持ったまま少し立ち、次の指示がないと分かると扉脇へ戻った。また札板を見る。今度は自分の首元も一緒に見る。手を当てる。離す。
ジャサントは次の寝台の札を確認した。咳の女は熱が上がっていた。高齢の男は震えが増えている。別欄へ移す準備が要る。札板にかけたままでは足りないため、帳面の補助欄を追加する。
発熱者二名、再評価。
接触者一名、継続。
経過観察一名、改善なし。
必要な記述だけを増やす。
昼前、フェルの呼吸が変わった。
浅く、間が長い。肩が動かない。唇の色が昨日より薄い。エルヴァが呼ばれ、寝台の横で脈を取る。ミアは立ち上がろうとして、立てなかった。膝だけが浮き、すぐに寝台へ手をついた。
「時刻を」
エルヴァが言う。ジャサントは帳面を開いた。エルヴァの指がフェルの首元から離れる。
「死亡確認。午前二鐘前」
ジャサントは記した。
フェル・ナディ。死亡確認。午前二鐘前。確認者エルヴァ。
それから寝台札を外す。紐は湿っていた。乾いた布で拭く。入口の板へ戻る。経過観察の列から外し、黒印付き一時掛けへ移す。正式な死者確認所への移送前に、隔離棟内で位置を変える必要がある。
順番は変わらない。
書く。
外す。
拭く。
移す。
黒印を加える。
ミアはそれを見ていた。声は出なかった。寝台の端を握る手だけが白くなっていた。呼び止めない。引き留めない。札が動くところだけを見る。昨日のイオ・ルクスと同じ見方だった。
扉の外で音がした。
リィナの小桶が倒れ、石床を転がる。残っていた水が広がった。リィナはすぐには拾わなかった。札板を見ていた。少し遅れて、小桶を立てる。
「移動しました」
ジャサントは言った。
リィナは札板を見たまま立っていた。それから小桶の取っ手を握り直した。
「書いてあっても」
「はい」
「移るんだ」
「状態に応じて」
「ここからも」
「移ります」
「消えないのに」
「位置は変わります」
リィナは自分の札を服の内側から引き出した。表を見て、またすぐ戻す。紐を首の後ろで一度強く引いた。痛いほどではない。だが緩まない強さだった。
昼の短い配給が終わる頃、隔離棟の入口に従兵が二人来た。死者確認所へ回す担架を持っている。フェルの寝台の脇で止まり、ジャサントの記録を待つ。
「付き添いは」
ジャサントがミアに問う。
「……行く」
「接触区分が継続します」
「行く」
「承知しました」
ミアは立ち上がった。足がふらついたが、歩けた。再配置ではない。まだ付き添い継続として扱う。ただし、死者確認所まで同行したのち、隔離棟へ戻すか外すかは再判定になる。
ジャサントは札を一枚追加した。
ミア・ナディ。女。接触者。付き添い継続。移送同行。
彼女に渡す。
ミアはそれを見て、袖の内側へ差し込んだ。首にはかけなかった。手元に置いておきたい者の動きだった。
リィナはその動きを見ていた。自分の首元へ手をやる。押さえる。離す。また押さえる。
午後、札板には黒印が一つ増えた。トアの熱は少し下がり、印は増えない。高齢の男は咳が続き、発熱者の上段へ移す。咳の女は水分摂取あり、位置は据え置き。ナエの子、トトは熱なし。母親の寝台の脇で眠っている。ナエ自身は接触者として経過観察に置いたままだった。発熱はない。だが子どもを抱いたまま離れない。
ジャサントは板の並びを変えた。
左から、重症。
経過観察。
安定。
黒印付き一時掛け。
札の位置が変わるたび、木が軽く鳴る。
そのたび、リィナは首元に触れた。
板が動くたびに触れる。
黒印が増えるたびに触れる。
名が呼ばれるたびに触れる。
もう他人の札には手を出さない。
見るだけだった。
エルヴァが午後の診察を終えて、入口の札板を見た。位置が変わった札を一枚、指で軽く押し直す。曲がっていたからだ。感想は言わない。次に帳面を見る。
「トアはどうです」
「午前より低下。咳なし、嘔吐なし。脈拍は高めです」
「承知しました」
「ミアは」
「同行後、再判定待ち」
「そうですか」
エルヴァは札板の黒印を見た。フェルの名を一度見て、それだけで終えた。言葉は足さない。死を説明しない。確認だけが残る。
しばらくして、ミアが戻ってきた。発熱なし。外傷なし。付き添い終了。再配置対象。だが寝台の横から動かなかった。すでに空になった寝台を見ている。布はたたまれ、札も移っている。残っているのは木の枠だけだった。
「移動を」
ジャサントが告げる。
ミアは寝台を見たまま言う。
「この子の名前は、そこにあるのよね」
「はい」
「明日も」
「記録は残ります」
「どこに」
「記録帳と札板に」
「見られるの」
「必要時には」
「そう」
ミアは立ち上がった。足がふらついたが、歩けた。ジャサントは再配置札を作り、手渡した。ミアはそれを見て、袖の内側へ差し込んだ。最初の札と同じ場所だった。
リィナはその動きを見ていた。自分の首元へ手をやる。押さえる。離す。また押さえる。他人が札をしまう動作も、もう見逃さない。
午後後半、隔離棟の外で短い言い争いが起きた。発熱のある老人を病舎へ戻せと言う男と、戻せないと答える従兵の声だった。ジャサントは外へ出ず、帳面の欄を整理した。隔離棟は病舎の延長ではあるが、戻す場所ではない。熱が下がらない者は残る。接触が切れない者も残る。帳面の上では、残る理由が決まっている。
リィナは声の方を見ず、札板を見ていた。どの位置の札が残り、どの位置の札が消え、どの札が黒印へ移るのか。人の顔より先に、順番を見ている。
ジャサントはそこで初めて、彼女が昨日までとは違うものを見ていると認識した。登録台では、名前を書かれることを見ていた。死者確認所では、札が残ることを見ていた。隔離棟では、札が動くことを見ている。
だが、その認識は記録には書かなかった。必要項目ではなかった。
夕方、水桶が再び減った。今度は従兵が持ってきたが、量が少なかった。ジャサントは洗浄桶の片方だけを満たし、片方は半量のまま残した。夜間用としては足りる。不足が生じた場合は病舎から回す。その判断を帳面の余白へ記す。
洗浄水、残量注意。
補充遅延。
夜間対応可。
日が落ちる前に、ジャサントは当日分を修正した。
隔離棟移送、一。
死亡確認、一。
再配置、一。
接触区分変更、一。
フェル・ナディ。板移動済み。
トア。熱やや低下。
ミア・ナディ。付き添い終了。再配置。
記録帳を閉じる。扉の外で、リィナが待っていた。朝より少し離れた位置にいる。帰ってはいない。小桶は足元に置いてある。空だった。
「宿泊区画へ戻ってください」
ジャサントが言う。
リィナは首元を押さえた。
「これ、落ちない」
「結び直しています」
「うん」
「戻ってください」
「見てた」
「何を」
「動くの」
「札ですか」
「うん」
「状態に応じて移動します」
「わたしのも」
「状態に応じて」
「ここじゃなくても」
「移動します」
「書いてあっても」
「はい」
「そう」
それだけ言って、札板を見た。フェルの札は朝とは違う位置にある。トアの札はまだ上段にある。ミアの札は外された。リィナは近づかない。その場を動かない。小桶の取っ手を持ち替える。
「戻ってください」
ジャサントはもう一度言う。
今度はリィナがうなずいた。二歩進み、止まる。振り返る。
「わたしのも、動く」
「状態に応じて」
「なくならない」
「再発行は可能です」
「そうじゃなくて」
リィナはそこで止まった。続けなかった。代わりに、首元を押さえた。札を確かめる動作だった。
「もどる・・・」
「承知しました」
リィナは歩き出す。途中で一度、首元を確かめる。また歩く。宿泊区画へ入る前に、もう一度確かめる。東列の縄をくぐる前に、いったん立ち止まり、それから中へ入った。
ジャサントは隔離棟の板戸を閉め、夜間用の灯りを点けた。札の影が壁に落ちる。洗浄桶の水位は半分。寝台は四つ埋まり、二つ空いている。記録帳は閉じられている。
札は板に残った。灯りの下で影だけが揺れた。明日になれば、また位置が変わる。熱が下がれば外れる。上がれば増える。黒印が付けば別の列へ移る。記録帳は、また開かれる。
それだけだった。
ご拝読ありがとうございました。次の話は20時に投稿予定です。




