第2話 保護対象
朝の鐘が二度鳴る頃、登録台の上には前夜の帳面がまだ開いたままだった。
頁の下段に、前夜最後の記録が残っている。
死者、二十三。
うち氏名確認済み、十六。
所属確認済み、十四。
未確認、七。
余白に小さく、病舎発熱者一、配給秩序違反一、単独未成年一。
炭の色は乾いていた。
ジャサントはその一行を見てから、次の頁を開いた。
板2枚を木箱に渡しただけの登録台は、昨日と同じ場所にある。
右に空白の木札。左に炭片。中央に仮登録一覧。奥に黒印の小箱。紐の束は端へ揃えてある。夜のあいだに降った薄い雨が土を重くし、台の足元には靴底の跡が幾重にも残っていた。
収容区画の前には、すでに列ができていた。
東列は単独未成年。西列は歩行可。北側は発熱疑い。南端は搬送待機。杭と縄で分けただけの区画だが、昨夜より入口は整っていた。煮炊き場からは薄い煙が上がり、病舎の布幕は閉じたままだった。
ジャサントは帳面を置き直した。
今日の登録に必要なのは、氏名、年齢、歩行可否、同行者の有無、発熱、外傷。それ以外は欄外に回す。必要な項目だけを聞く。答えがなければ別の問いに変える。書ける形に変える。
「氏名を」
「年齢を」
「同行者は」
「歩けますか」
最初の者が前へ出た。
女だった。肩に乳児を抱いている。目は開いていたが、眠っていないだけの目だった。昨夜の泥が裾で乾き、布の端は白く硬くなっている。
「氏名を」
「エナ」
「姓は」
「ない」
「年齢を」
「三十」
「同行者は」
「いた」
「現在位置は」
「わからない」
「歩けますか」
「歩ける」
「発熱は」
「ない」
ジャサントは書いた。
エナ。女。三十。歩行可。乳児同伴。同行者一、所在不明。照合待ち。
乳児の項を分ける。
「子の氏名は」
「まだつけてない」
「推定月齢を」
「半年、たぶん」
木札を二枚作った。大きい方にエナ、小さい方に乳児。紐の長さを変え、女へ渡す。女は自分より先に乳児の胸元へ札を通した。木札が布に埋もれない位置を探り、一度外し、結び直す。それから自分の首へかけた。
ジャサントはもう次を見ていた。
登録台の左脇に、リィナがいた。
昨日渡された仮札を首から下げている。東列の天幕から来たままらしく、髪の片側だけ潰れていた。服は昨日のままだが、札の紐だけ結び直されている。結び目は耳の下に寄り、木片は胸の中央より少し高い。木箱にも帳面にも触れていない。ただ、離れていない。
「そこは通行の妨げになります」
ジャサントが言うと、リィナは足元を見て半歩下がった。
「ここなら・・・」
「問題ありません」
「じゃあ、ここにいる」
ジャサントは返答しなかった。
従兵が通れる幅は残っている。帳面の角にも触れていない。排除する理由はなかった。
次の者を見る。
老人だった。左足を引きずっている。袖口に乾いた泥が固まり、爪の間まで黒い。
「氏名を」
「ベン」
「姓は」
「ない」
「年齢を」
「六十は越えてる」
「同行者は」
老人は少し黙った。
「昨夜まではいた」
「氏名を」
「アダ」
「関係を」
「妻」
「現在位置は」
「わからん」
「歩けますか」
「遅いが」
ジャサントは書いた。
ベン。男。高齢。歩行可。左脚不全。
同行者、アダ。女。昨夜以降所在不明。照合待ち。
老人は帳面を見た。字を読んでいるのではなく、書く動きを見ている視線だった。
「残るのか」
「記録は残ります」
「見つかるか」
「照合できれば」
「そうか———」
老人はそれ以上言わず、渡された札を一度掌の中で返してから、西列へ向かった。左足を引くたび、木札が胸に当たる。リィナはその音を聞くように見ていた。
列は途切れない。
答える者、黙る者、怒る者、泣く者。
反応は違っても、記入欄は同じだった。
「氏名を」
「年齢を」
「同行者は」
「歩けますか」
「発熱は」
「外傷は」
答えられない者には別の問いを置く。
「呼ばれて反応しますか」
「昨夜、どの天幕にいましたか」
「同じ布を持っていた者はいますか」
「誰と並んでいましたか」
氏名欄が埋まらないままでも、空欄で残す。推定年齢を書き、服の特徴を添え、同行者不明を別欄に回す。書かないままにはしない。
若い女が来た。肩に幼児を抱いている。子どもは眠っていた。女は眠っていない目をしていた。
「氏名を」
「ナエ」
「姓は」
「わからない」
「子の氏名は」
「トト」
「年齢を」
「私は二十。子は三」
「発熱は」
「ない」
「歩行は」
「できます」
「同行者は」
「いない」
「親族照合の希望は」
「ある」
ジャサントは帳面に記した。
ナエ。女。二十。歩行可。幼児同伴。発熱なし。
トト。男。三。発熱なし。保護者同伴。
親族照合、希望あり。
木札を二枚作る。女はそれを受け取ると、先に幼児の首へかけた。自分の分はそのあとだった。その順番を、リィナは見ていた。女の顔ではなく、指と紐の動きを見ていた。
昼前、担架が一つ運び込まれた。
布が胸までかけられ、顔だけ出ている。呼吸は浅く、口の端に乾いた血があった。付き添いの男が横を歩いている。足元はふらついているが、自分では歩いていた。
病舎の前からエルヴァが出てきた。袖を捲った腕に水が残っている。担架の女の目を見て、喉元へ指を当て、それからジャサントを呼んだ。
「登録だけ先に」
「承知しました」
担架は登録台の前で止まった。付き添いの男は息を整える前に言った。
「名前を、書いてくれ・・・」
「氏名を」
「セナ。セナ・ルクス」
「年齢を」
「二十七」
「付き添いは」
「夫。イオ・ルクス」
「本人の歩行可否を」
「不可」
「外傷部位を」
「胸。脇も」
「発熱は」
「ない、と思う」
「同行者は他に」
「いない」
ジャサントは記した。
セナ・ルクス。女。二十七。歩行不能。胸部損傷。出血継続。
イオ・ルクス。男。夫。歩行可。同伴。
木札を二枚作る。セナの札には搬送の印を、イオの札には同伴の印を加える。セナの札は担架の端に結ぶ。イオの札は男に渡す。男は受け取ったまま、結ばずに握っていた。
「病舎へ———」
エルヴァが言う。
担架が動く。イオもついていく。布幕が持ち上がり、病舎の中へ消える。リィナはそのあとを目で追ったが、ついてはいかなかった。登録台の前に残った。
エルヴァはその場で一度だけ言った。
「止血剤、残一」
「鎮痛薬は」
「なし」
「処置待ちは」
「三」
「承知しました」
前日の不足が、そのまま続いている数字だった。ジャサントは新しい欄を増やさず、前夜の処置欄の余白にだけ小さく記した。
列が一度切れたところで、ジャサントは札の束を揃えた。
未成年単独。
高熱疑い。
歩行不能。
遺族照合待ち。
搬送済み。
死亡確認済み。
色ごとに分け、紐の長さを整え、順に並べる。
札の端が揃う音だけがした。
リィナが言った。
「書くと、探せるの」
ジャサントは札の位置を直しながら答えた。
「照合しやすくなります」
「死んだ人も」
「確認できれば」
「いなくなった人も」
「未確認として残ります」
「残ってる・・・」
「現時点では」
「どうして」
「書いていますから」
リィナは黙った。
昨日、登録台の前で、彼女は「ここにいると、消えないから」と言っていた。
今は自分の札に触れている。指で端をつまみ、刻印の溝をなぞる。離す。もう一度触る。文字を確かめるような動きだった。
昼の再配置が始まると、列はまた乱れた。
井戸に近い場所へ行きたい者。壁際を取りたい者。家族のいる天幕へ移りたい者。病舎から遠ざかりたい者。理由は多い。配置先は少ない。
ジャサントは再配置帳を開いた。前夜の仮配置を左、当日の修正欄を右に置く。煮炊き場からの距離、病舎までの搬送時間、見回りの導線、井戸との接触を順に確認する。
「高熱疑いは外側へ」
「幼児連れは煮炊き場側へ」
「単独未成年は東列三番へ」
「歩行不能は南端で待機」
そして、声が上がる。
「昨日はあっちだった」
「子どもがいる」
「一人にするな」
「病舎のそばは嫌だ」
「夫がまだ戻ってない」
ジャサントは帳面を見て答える。
「昨夜の体温が違います」
「移動距離が短くなります」
「見回りの導線に入ります」
「照合後に変更します」
説明はしているが、なだめてはいない。
理由を足しても区画数は増えないからだった。
列の外で、小さな男児が泣いていた。
札がない。名前を呼ぶ者もいない。足元には片方だけの靴が落ちている。周囲の大人は見ているが、誰も手を伸ばさない。
ジャサントはその前にしゃがんだ。
「氏名を」
男児は泣いていて答えない。
胸元を見る。布切れが縫いつけられていた。泥で汚れているが、文字が残っていた。
「トア」
そう読めた。
木札に記す。
トア。男。推定五。単独。発熱なし。外傷軽微。照合待ち。
首にかける。男児の泣き方が少し変わる。止まらないが、弱くなる。札を握り、離し、また握る。
「東列三番」
従兵に渡す。
「ありがとうございます」
男児は連れて行かれるあいだも泣いていたが、後ろは振り返らなかった。
リィナはその間、動かなかった。男児ではなく、札を見ていた。紐が首に通る位置。木片の大きさ。胸元で止まる高さ。自分の札に触れ、同じ位置まで指で引き上げた。
午後、病舎の前を通った従兵が一枚の札を持ってきた。新しい黒印がついていた。
「さっきの、ルクス」
ジャサントは受け取る。帳面を開き、セナ・ルクスの欄に印を加える。
死亡時刻、午後一鐘前。
確認者、エルヴァ。
それから札を移す。
生存者の束から、死亡確認済みの束へ。
書く。
印をつける。
移す。
紐の位置を揃える。
動作は同じだった。
少し離れた場所で、イオ・ルクスがそれを見ていた。近づかない。声も出さない。ただ、札が別の束へ入るところだけを見ている。自分の札はまだ首にある。妻の札だけが移る。その移る先だけを見ている。
ジャサントは帳面を閉じない。
炭が乾くあいだに次の確認を行う。未確認遺体二、照合継続。煮炊き場の配給人数修正。病舎の搬送待ち一。順番は変えない。
その横で、リィナが自分の仮札を外した。紐の結び目をほどき、木片を見て、また首にかけ直す。今度は少し高い位置にくるように結ぶ。
「締めすぎると痕がつきます」
ジャサントが言う。
リィナは手を止めた。
「落ちない」
「再発行は可能です」
「うん」
そう言ったが、結び目はほどかなかった。
午後の登録が再開すると、新しい流入者が十数名増えた。街道側ではなく、南の小道から来た者が多い。服に枝葉が絡み、足首まで泥で濡れている。
「氏名を」
「年齢を」
「同行者は」
「歩けますか」
「昨夜、どこで休みましたか」
「南の集落を見ましたか」
「灯りは」
「煙は」
答えがある欄だけ埋まる。
煙なし。
鐘なし。
通行跡あり。
犬の声なし。
単独では使えないが、重なれば位置の推定に使える。
途中で、リィナが一度だけ帳面をのぞき込んだ。ジャサントは制止しなかった。隠す必要がなかったからだ。
リィナは頁の端を見ていた。自分の名前を探しているようだった。見つけたのかどうかは分からない。ただ、そのあとから、彼女は他人の札に触れなくなった。自分の首の札だけを持つようになった。
エルヴァがもう一度だけ戻ってきた。
「その子、まだここですか」
「仮保護のままです」
「移しますか」
「東列三番に空きが出れば」
「出なければ」
「継続します」
「承知しました」
それだけ言って病舎へ戻る。
促しもしない。止めもしない。状態だけを確認していく。
夕刻、列が途切れた。
煮炊き場の煙が濃くなり、区画の声は少し下がった。空腹と疲労で、人は黙る。黙った者から順に座る。座る場所のない者は立ったまま壁にもたれる。
ジャサントは今日の総数を書く。
本日新規登録、六十三。
移送、三。
死亡確認、八。
未確認から照合済みに移行、五。
単独未成年、増二。
発熱疑い、増三。
歩行不能、増四。
右手で記し、左手で札の束を整える。未確認は左。死亡確認は右。再配置待ちは中央。仮保護は帳面の脇。
リィナが言った。
「まだ書くの」
「本日分が終わっていません」
「終わったら」
「死者確認です」
「そのあとは?」
「修正を行います」
「明日も?」
「必要があれば」
リィナはうなずいた。
今日はもう、登録台の横から離れろとは言われなかった。言われる前に、少しだけ下がっていた。
ジャサントが帳面を閉じる。
その動きを見てから、リィナは自分の首の札を服の内側へ入れた。落ちないように一度引く。確認する。もう一度引く。
「何をしていますか」
「なくさないように」
「再発行は可能です」
「うん」
「必要時には提示してください」
「できる」
そう言ったが、札はしまったままだった。
ジャサントは登録台を離れた。
病舎、死者確認、夜の巡回、記録修正。残りの手順がある。帳面二冊を抱え、黒印箱を腰の袋へ入れる。
後ろに足音がつく。小さい。一定の速さで、止まらない。
「なぜついてきますか」
振り返らずに言う。
少ししてから、リィナが答えた。
「呼ばれるから」
昨日は、消えないから、と言っていた。
今日は、呼ばれるから、と言った。
ジャサントは差を確認しなかった。必要がなかった。
病舎の前を通る。中には入らない。外で札の照合をする。リィナは入口を見ず、ジャサントの手元だけを見ていた。札を受け取る手。帳面を開く手。黒印を加える手。そのたびに自分の首元へ手をやる。札があるかを確かめる。離す。しばらくしてまた触る。
死者確認所では、布をかけた遺体が四列に並んでいた。
足元に仮札。胸元に照合札。氏名がある者とない者がいる。家族が来れば確認させる。来なければ、衣服と持ち物で仮記録を残す。
ジャサントは一体ずつ札を見た。
年齢推定。
性別。
外傷。
持ち物。
照合可否。
書く。
めくる。
戻す。
次を見る。
少し離れたところで、リィナは立ったままだった。布の下は見ていない。札だけを見ている。白い布の上に置かれた木札。胸元に残る札。足元に移された札。その位置の違いを見ていた。
一体の遺体の横で、ジャサントは布袋を開いた。
中に小さな匙、布切れ、乾いた豆が三粒。帳面に記す。照合継続。持ち物保管。木箱番号を振る。
「それも書くの」
リィナが言った。
「必要です」
「いらないものでも」
「照合に使います」
「誰のかわかる?」
「場合があります」
「そうしたら?」
「氏名欄を埋められます」
リィナは答えなかった。
自分の首元を押さえる指に、少し力が入った。
夜が近づくと、収容区画の声はさらに下がった。
病舎、煮炊き場、死者確認所。灯りの残る場所だけが見えている。
ジャサントは当日分の修正欄を開いた。
未確認一名、照合継続。
単独未成年一名、東列三番へ移動。
高熱疑い一名、北側へ変更。
死亡確認一名、病舎より移行。
その下に、一行空けて書く。
リィナ。女。推定八。単独。痩身。仮保護。
登録台周辺滞在。指示反応あり。
そこまで書いて、炭を置いた。
少し離れた場所で、リィナは自分の天幕へ入る前に一度だけ振り返った。呼びはしない。手も振らない。ただ、首元を押さえてから、中へ入った。
ジャサントは帳面を閉じた。
空白の木札は、朝より半分以下に減っていた。炭片も短くなっている。翌朝の分を補充する必要がある。黒印箱はまだ足りる。
木箱の蓋を閉める。
今日の記録は終わった。
明日、また更新される。
それだけだった。
ご拝読ありがとうございました。次回更新も明日の15時を予定しています。




