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戦姫メイド  作者:
1/2

第1話 正しい朝

初めまして、白です。これが人生初めての投稿になります。

描いていく作品は『戦姫メイド』という作品です。


まずは目を通そうと感じてくださった皆様に感謝の意を

そして、独特な世界観を演出しますので、最後まで付き合っていただけますと光栄です。


可能であれば、毎日投稿を目指したいと考えています。

最後までお付き合いいただけたら幸いです。

夜明けの前だけ、砦は少し清潔に見えた。


血の匂いも、煮出した薬草の匂いも、まだ薄い——

人の声が満ちる前の空気は冷えていて、石壁も床も、何事も起きていないような顔をしている。前日までに運び込まれた死者も、傷病者も、補給不足も、まだこの時間だけは表へ出てこない。汚れや欠乏は消えていない。ただ、光が足りない分だけ見えにくい。


その時間に、ジャサントは目を開けた。


覚醒というより、予定された時刻に動作を再開したような起き方だった。寝台を下り、(かかと)を床につける。毛布を畳み、折り目を揃え、端を寝台の鉄枠と平行に置く。水差しを持ち上げて残量を確認し、昨夜の半分より少し多いことを確かめる。顔を洗い、手の水気を布で拭き、壁の釘に掛けてあった服を取る。


白と黒の給仕服。


本来なら皿と銀器のための衣装だが、ここでは違った。袖口は血が染み込みにくい布に替えられ、裾は走行の邪魔にならぬ長さに断たれている。腰帯の内側には細身の短剣を固定するための留め具。背の留め紐は、引き裂かれても解けにくい結び方に改められていた。襟の芯は硬く、首を振っても乱れにくい。見た目だけが給仕服で、用途は別のものに変わっている。


ジャサントは襟を正し、髪を一筋も残さず後ろでまとめた。袖を通し、留め具の位置を指で確かめ、腰帯の締め具合を直す。短剣を差し込み、外套(がいとう)は取らなかった。まだ走る必要はなかった。


机の前に座る。


机の上には記録帳がある。昨夜の(ページ)が開かれたままになっていた。炭片が一本、乾いたインク砂の袋の脇に置かれている。左端には回収された札が三枚、裏向きのまま重ねられていた。ひとつは未確認死者、ひとつは持ち物照合待ち、ひとつは所属不明の補足札。ジャサントはその順序を変えず、先に帳面へ目を落とした。


死者、二十三。

うち氏名確認済み、十六。

所属確認済み、十四。

未確認、七。


視線が止まる——下から三行目。第三防塁西端、槍兵一名。氏名不詳。


昨夜遅く、遺体の胸当てに刻印が見つかった。煤と血で擦れていたが、照合はできた。彼女はその一行を消し、細い字で書き直す。


第三防塁西端、槍兵一名。

ルシオ・ヴァン。十九。


それだけだった。


祈りはない。悼む仕草もない。誤差を訂正しただけである。


人は死ぬ。戦場では、それは事実に近く、出来事から遠い。だが名前が抜けると記録の精度が落ちる。精度が落ちれば、次の配置と補給に誤差が出る。誤差は損耗を増やす。忘却は感傷の問題ではなく、管理の瑕疵(かし)だった。


彼女はその頁の余白に小さく印をつける。胸当て刻印照合済み。所属補記可。後で物品照合帳へ移す必要があった。


扉が二度、短く叩かれた。


「起きていますか?」


医師——エルヴァの声だった。


ジャサントは記録帳を閉じずに答える。


「起きています」


「病舎の薬が足りない。来て」


「不足数を」


「止血剤二、鎮痛薬一。処置待ち四。重症は三」


「搬送可能人数は」


「二」


ジャサントは記録帳に砂を薄く振り、頁を閉じた。机上の時計を見る。鐘まであと七分。十分だった。


廊下へ出ると、砦の内部はまだ半分眠っていた。見張り交代前の兵が壁にもたれ、煮炊き場では火が起こされ始め、遠くの階段で木桶を運ぶ音がした。朝は毎日同じ順番で始まる。水、火、配給、点呼、処置、補修。どこかひとつでも遅れれば、その遅れが昼の損耗になる。


病舎の前には、夜のあいだに外した血布が入った桶が二つ並べられていた。片方は洗浄待ち、片方は焼却行きだった。エルヴァは戸口に立ち、袖を肘までまくっている。目の下に薄い色が残っていたが、動きは遅くなっていない。


「こちらです」


彼は丁寧な所作で奥を示した。


病舎には朝の青い光が差し込んでいた。窓際の寝台の鉄枠だけが冷たく光り、包帯の白が不自然に浮いている。呻き声はいくつかある。泣き声はなかった。泣く余力のある者は少ないし、いたとしても、夜のうちに使い切っている。


乾いた血の匂いに、煮詰まった薬草の匂いが混じっている。床板の節目には古い染みがあり、新しい血はまだ黒くなりきっていない。寝台のあいだに置かれた木箱には、残り少ない止血剤と、包帯の束と、刃先の短い鋏が入っていた。


エルヴァが順に寝台を示す。


「先に見てください」


最初の寝台には若い作業兵がいた。左腿の裂傷。出血は多いが熱はない。脈は速い。目は開いている。応答に遅れはない。止血後に歩行可能まで戻る見込みがある。


二つ目は弓兵。腹部損傷。布の下でまだ滲むように血が続いている。唇が乾いている。だが呼吸は保たれていた。処置が早ければ生存率は高い。


三つ目は炊事係の女。転倒による肋骨損傷。呼吸が浅い。動くたびに胸郭の片側が遅れる。強い痛みで息を抑えている。鎮痛が入れば呼吸は安定する。


四つ目は男児。頭部打撲。目は閉じたまま。そばで母親が手を握っていた。握る力は弱い。母親自身の腕も震えている。夜を越えた者の震えだった。


ジャサントは一人ずつ見た。


瞳孔。脈。呼吸間隔。皮膚色。体温。視線の動き。言葉の返り方。ためらいがないというより、ためらいが入る余地のない手順だった。見る順番も、触れる位置も、毎回ほとんど同じだった。


「止血剤は二人に」


彼女は続けて言う——

「弓兵と作業兵。鎮痛薬は炊事係へ。男児は経過観察」


母親が顔を上げた。目の縁が赤い。昨夜からほとんど眠っていないのだろう。髪は乱れたまま、袖には乾いた血がついている。息を吸う前に、一度だけ子の手を強く握った。


「待ってください。この子は、まだ小さいんです」


「承知しています」


「じゃあどうして」


「頭部外傷です。現時点で意識回復の見込みが低い。一方で弓兵は止血後の生存率が高く、作業兵は歩行可能まで戻れば本日中に修繕班へ復帰できます。炊事係は疼痛の緩和で呼吸が安定します。処置総量に対する損耗が最も少ない配分です」


母親は何も言わなかった。


言葉を失ったというより、言葉の行き先を失った顔だった。怒鳴るだけの力が残っていないのかもしれないし、残っていても、それが何も増やさないと分かっているのかもしれない。どちらでも結果は同じだった。


エルヴァが低く呼ぶ。


「ジャサント」


「はい」


「この子の母親は一晩起きています。倒れれば付き添いも途切れるでしょう」


「把握しています」


「それでも———」


「はい」


これ以上余計な言葉は不要だと判断し、ジャサントは母親の手を子の額から外した。乱暴ではない。手首の角度を崩さず、子の呼吸を妨げない位置へ移す。必要なだけ正確で、余分がなかった。慰めに見える動きは、ここではたいてい別の理由で行われる。


「水を」


従兵へそう告げる。


母親はジャサントを見た。初めて見たような目だった。


「あなた、何も感じないの……?」


問いに、ジャサントは少しも考えずに答えた。


「感じる必要がありますか」


病舎の空気がわずかに変わった。声を荒らげる者はいない。ただ、そこにいた誰もが、その返答を自分の中で持て余した。否定もできず、納得もできず、しかし今すぐ反論しても薬が増えないことだけは理解できる。そういう種類の沈黙だった。


エルヴァは止血の準備を始めた。弓兵の腹部へ新しい布を当て、作業兵の腿へ圧をかけ直す。彼はジャサントを止めない。止めた先に何が増えるかを知っているからだ。だが、理解と肯定は同じではない。そのこともまた、彼は知っていた。


処置の合間、ジャサントは男児の寝台の足元に掛けられた札を見た。未記入欄がある。


「氏名は」


母親はしばらく答えなかった。やがて、乾いた声で言う。


「……フェル。フェル・ナディ」


「母親の氏名は」


「ミア」


ジャサントは木札に炭で書きつけた。


フェル・ナディ。男。九。

ミア・ナディ。母親、付添。


それを掛け直し、次へ移る。泣き声も礼もなかった。


病舎を出ると、砦はもう起き始めていた。見張りが交代し、煮炊き場から湯気が上がり、鍛錬場では木剣が打ち合わされている。配給所の前には列ができていた。生きている場所には列ができる。食糧、水、薬、順番。戦場ではそれらすべてが生存率の別名だった。


配給係の兵が彼女を見つける。手には板が一枚、脇にはまだ開けていない乾パン箱が二つある。顔の片側に煤がついていた。


「乾パンが三十足りません。補給車が一台、昨夜のうちに着かなかった」


「配給表を」


板を受け取り、目を走らせる。重作業兵、軽作業兵、負傷者、高齢者、子ども。必要熱量と本日の任務量を見比べ、欠乏をどこで吸収するかを決める。欠乏そのものは避けがたい。問題は、それが混乱に変わることだった。


「歩行不能の負傷者は粥へ変更。乾パンは前線勤務と修繕班へ優先配布。高齢者と幼児は半量を温湯でふやかして渡してください」


「子どもまで減らすのか」


「全員ではありません。年齢と体格で再分類を」


配給係は板を覗き込み、言い返さずに頷いた。反対しても量は増えない。そこも病舎と同じだった。


ジャサントは列へ出た。


大人の脚のあいだに、痩せた子どもたちが立っている。押されても黙っている子は損をする。だが声の大きさは必要量の基準にならない。彼女は一人ずつ見る。頬のこけ方、目の高さ、立ち方、足元のふらつき。倒れそうな者を先に分ける。働く予定の兵と、待機の兵を分ける。怪我で咀嚼が難しい者は粥へ回す。


列の途中で、ひとりの老人が札を出せずにいた。紐が固く結ばれている。ジャサントはそれを解き、名前を確認し、再び掛け直す。別の子どもは札を逆に下げていたので向きを直す。札そのものが配給の入口だった。紛失は飢えに近い。


その中に、妙に静かな少女がいた。


痩せている。煤で髪がくすんでいる。八つか九つほど。ほかの子のように食べ物を見ていない。見ているのはジャサントの手元だった。誰の札に印をつけ、誰を後ろへ回し、誰へ何を渡すのか。その順番だけを黙って追っている。乾パン箱の中身より、板の上の記号の方を見ていた。


「前へ」


ジャサントが言うと、少女はすぐに出た。


「氏名を」


「……リィナ」


「姓は」


「ない」


ジャサントは配給板の余白に記した。


リィナ。女。推定八。単独。痩身。

保護札未配布。


「札は」


「もらってない」


「仮札を渡します」


木片に印を刻み、差し出す。リィナは乾パンより先に、その札を見た。指先で刻印をなぞる。なぞる順番が、文字を読む者の手つきではなく、傷の深さを確かめる手つきに近い。


「……書くんだ」


「記録します」


「みんな?」


「確認できる限りは」


そこで初めて、リィナはジャサントの顔を見た。長く見て、それから言う。


「忘れないの?」


「忘れると誤差が出ます」


リィナは小さく息をついた。理解した顔ではない。だが、理解できなかったことを気にする顔でもなかった。


「へんなの」


その直後、列の後方で揉め事が起きた。大人の男が、子どもの分の乾パンを奪おうとしている。痩せた手首に、働いていない者の札がついていた。子どもは声を出さない。奪われることに慣れた手つきで、ただ乾パンを離しかけていた。


ジャサントは一歩で距離を詰め、男の手首を止めた。


「返してください」


「ガキに食わせるより俺が働いた方が――」


「本日の労務表で、あなたは待機です」


「待機でも腹は減る」


「把握しています」


「じゃあ!!」


「返してください」


男は舌打ちした。ジャサントは乾パンを子どもに戻し、男の札に黒印を加えた。


「次回配給は最後尾。異議があれば監督兵へ」


男は何か言いかけ、やめた。彼女を殴ることはできる。しかしその後、自分に何が減るかも理解できる程度の分別はあった。列の後ろへ下がり、今度は前を見なくなった。


列が落ち着いても、リィナはそこに残っていた。半量の乾パンを持ったまま、まだ食べていない。指先には仮札の木の粉が少しついている。


「何か?」


ジャサントが問う。


「わたしのも、残る?」


「記録は残ります」


「死んでも?」


「確認できれば」


リィナはそこでようやく乾パンを齧った。固い音がした。表情は動かなかった。


「そっか」


それだけ言う。悲しいとも安心とも言い切れない声だった。


朝日が壁を越える頃、配給はまだ続いていた。不足分の補正、高齢者の振り分け、温湯用の桶の追加、子ども二名を後列から前へ回す。ジャサントは板の欄を埋め、足りないところを細かく削る。誰かに多く渡すのではなく、誰も飢えで倒れない程度へ揃える。その揃え方が、公平と呼ばれる必要はなかった。


配給係が戻ってきて、小声で言う。


「前線班の一人が今朝から発熱です。半量に落としますか」


「本日の任務は」


「西壁補修」


「歩行可否を確認後に決定してください。現時点では保留」


「分かった」


「記録欄を空けておいてください」


「はい」


会話はそれで終わる。配給台の上には、乾パンの欠片、木杯の水滴、板の炭粉が残る。どれも後で拭えばいい程度の汚れだった。


リィナはまだそこにいた。


列から離れ、配給台の端に立っている。邪魔にはならない位置だった。半量の乾パンのうち、まだ半分ほどを残していた。食べる速度が遅いのではなく、配分しているように見えた。


「保護区画はあちらです」


ジャサントが言う。


「知ってる」


「では移動を」


「その前に」


リィナは残っていた乾パンを持ち上げた。差し出すというより、確認を求めるような持ち方だった。


「これ、あげる」


「不要です」


「でも、あなた食べてない」


「摂取は後で行います」


「ふうん」


リィナは引っ込めなかった。恐れていない目だった。懐いていると言うにはまだ早い。ただ、避ける相手とは思っていない目だった。大人に向ける目ではなく、配給台や記録板へ向けていた目に近い。機能へ向ける視線だった。


「じゃあ、あとで食べるの」


「はい」


「忘れないで」


その言い方だけが少し強かった。


ジャサントは、欠けた乾パンの縁を見る。歯型、細かな粉、割れ目。衛生上は望ましくない。だが廃棄は損失だった。


「保管してください」


そう言うと、リィナはわずかに笑った。


「うん。じゃあ、あなたの分、残しておく」


ジャサントは答えなかった。返答が必要な項目に分類できなかったからだ。


彼女は歩き出す。病舎の不足、配給の補正、午前の巡回、昼の点呼、夕刻の死者確認。やることは尽きない。一つの朝が終わる前に、もう次の損耗は始まっている。


配給所を離れて中庭へ出ると、鍛錬場の打音がはっきり聞こえるようになった。五本の木杭、三束の藁、砂でならした地面。兵たちは交代で打ち込みをしている。遠くで荷車の軸が軋み、修繕班が木材を運んでいた。見張り塔の上では旗の確認が行われている。砦の朝は広いようでいて、どこも狭い。空きがある場所にはすぐに別の作業が入る。


ジャサントは午前巡回の前に、もう一度記録帳の補記を行う必要があった。配給板の余白に書いた名を、正式な避難民登録へ移す。単独未成年、仮札未配布から仮札配布済みへ。そうしないと次の配給で重複や漏れが出る。


記録台はまだ前夜のままだった。未照合の物品札、死者数の補記、病舎から回ってきた発熱者の札。ジャサントは腰を下ろし、朝に追加された名前を一つずつ写した。


リィナ。女。推定八。単独。仮札配布。

配給済み。保護区画未移動。


そこまで書き、最後の欄で手を止める。保護区画未移動。理由欄は空いたままだった。命令違反と書くほどではない。放置とも違う。現時点ではただ、移動していないだけだった。


後ろで足音が止まる。


振り返らずに分かる程度の軽さだった。


「なぜ移動していませんか」


ジャサントが問う。


「まだ呼ばれてない」


リィナの声だった。


「指示しました」


「うん」


「では移動を」


「あとで」


ジャサントは記録帳を閉じなかった。


「あと、とは」


「あなたが終わったあと」


その返答は、順番の確認としては不完全だった。誰かの作業終了を待って自分が動く理由は、本来そこにはない。


「保護区画への移動は優先です」


「じゃあ見てるだけ」


ジャサントはそこで初めて振り返った。リィナは壁際に立ち、まだ乾パンを半分残している。仮札はもう服の内側へ入れていた。外から見えるのは結び目だけだった。


「何を——」


「みたいの・・・」


答えは短い。迷いがなかった。


ジャサントは記録帳の頁を見た。書く。確認する。移す。数える。朝から繰り返していることだった。そこに見られて困る項目はない。だが、必要でもない。


「邪魔にならない位置で」


「うん」


リィナはすぐに動いた。記録台の横ではなく、少し下がった位置に立つ。人の出入りを塞がず、帳面の頁だけが見える場所だった。そういう位置を選べるのは、最初から周囲を見ていた者の動きだった。


ジャサントは作業を続ける。


病舎発熱者一、再確認待ち。

配給秩序違反一、黒印付与。

西壁補修班、追加二。

単独未成年一、仮札配布済み。


炭片が紙を擦る音だけが、しばらく続いた。リィナは喋らない。視線だけが、行の端から端へ動く。字を読んでいるのか、手順を見ているのか、私には分からなかった。


やがて、病舎から従兵が一人来る。


「フェル・ナディ、変化なし。母親はまだ付き添ってます」


ジャサントは帳面の病舎欄へ追記する。


意識回復なし。

付添継続。

再確認、昼。


それを見て、リィナが初めて言う。


「だれ?」


「病舎の男児です」


「名前・・・書いてる?」


「記帳済みです」


リィナはそれ以上聞かない。乾パンをもう一口だけ齧る。噛む回数が少ない。飲み込む前に、また帳面を見る。


見張り塔から伝令が下りてきた。南側外壁で小規模な魔物痕を発見。新規侵入なし。西門補修は予定通り。ジャサントは要点だけを聞き、稼働兵欄に小さく補記を入れる。戦闘は発生していない。発生していないことも、予定維持として書く。


リィナは伝令を見ていない。帳面に増えた一行を見る。書き足されるたびに、ほんの少しだけ呼吸が変わる。緊張とは断定しない。ただ、止まって、また動き出すまでの間が分かる程度には、体の動きが小さくなる。


「それ、全部残るの」


「必要なものは残ります」


「いらないのは」


「移します」


「なくなる?」


「欄が変わります」


リィナは少し考えたようだった。しかし何か理解した様子ではなく、言葉の形だけを持っていた。


「ふうん」


それだけで終わる。


午前の巡回が始まる頃、記録台の周囲は騒がしくなった。水の運搬、鍋の移動、修繕材の点呼、病舎への布の搬送。ジャサントは立ち上がり、記録帳を閉じる。砂を振り、炭片を揃え、札の束を端へ寄せる。


その動作を見て、リィナも姿勢を変えた。ついてくる位置を確かめるように、一歩だけ後ろへ下がる。


ジャサントは見張り塔側から順に巡回した。配給所、病舎、井戸、修繕班。人が生きている限り、どこにも不具合はある。井戸桶の縄が摩耗していれば交換の指示を出し、修繕班の釘束が減っていれば補給に回す。病舎では止血布の残り枚数を確認し、煮炊き場では温湯の配分を見直す。


リィナは一定の距離を置き、呼び止めるでもなく、ただついてくる。病舎の前では中を覗かない。井戸では桶に触らない。煮炊き場では火に近寄らない。そこにいてよい位置を、まだ教えられていないのに外していなかった。


巡回の途中、ガルドが鍛錬場の脇で木剣を肩に担いだままこちらを見た。朝の訓練を終えたばかりなのか、額に汗が残っている。


「まだ子どもを連れてるのか」


彼の言い方は、問いというより確認だった。


「同行ではありません」


ジャサントは答える。


「保護区画未移動者です」


ガルドはリィナを見た。リィナはガルドを見返さず、ジャサントの袖の少し後ろを見ていた。


「だったらさっさと送れ」


「巡回後に再指示します」


ガルドは鼻で息を吐いた。それ以上は言わず、木剣を持ち直して去る。感情の大きい者は、朝から大きいままだった。


昼前、病舎へ戻ると、フェル・ナディの状態は変わっていなかった。母親のミアはまだ手を握っている。従兵が運んだ水は半分減っていた。ジャサントは札を見て、記録帳に追記する。


意識回復なし。

発熱なし。

付添継続。


ミアはジャサントを見なかった。見る必要がない位置に、すでに置き終えているようだった。


病舎を出たところで、リィナが小さく言う。


「残ってる」


「現時点では」


「書いてあるから?」


ジャサントは返さなかった。その因果は帳面にはない。だが、否定の必要もなかった。


記録台へ戻る。昼の点呼までに、午前の変更をまとめる必要がある。ジャサントが帳面を開くと、リィナはまた同じ位置に立った。距離も、視線の落ちる場所も、朝とほとんど変わらない。


彼女は残していた乾パンをようやく最後まで食べた。最後の欠片だけは飲み込む前に少し見て、それから口へ入れた。自分の分を食べ終えたあと、袖で口元の粉を払う。


「もうない」


報告のように言う。


「把握しています」


「あなたの分は」


「不要です」


「でも、残しておいた」


ジャサントはその返答を分類できなかった。実際には乾パンは彼女の手の中になく、残っていない。残した、という言い方だけが帳面にない。


「廃棄はありませんでした」


そう言うと、リィナは少しだけ目を細めた。笑ったのかどうかは、外からは分からなかった。


昼の鐘が鳴る。砦の中で音が広がり、列がまた動き始める。昼は朝よりも騒がしい。欠乏がはっきり見え始める時間だからだった。


ジャサントは点呼表へ手を移す。生存者、負傷者、補修班、前線、待機。数を写し替え、午前中の損耗が出ていないことを確認する。損耗ゼロもまた、書いて残す対象だった。


リィナはそのあいだ、ひとことも話さなかった。ただ、名前が増え、印が付き、札が移るたびに、首元の結び目を指で押さえる。自分の仮札が服の内側にあることを、何度も確かめるように。


午後、保護区画への再移送が行われた。従兵が人数を数え、区画ごとの札を配る。子どもたちは順に移される。リィナの番も来るはずだったが、彼女は列へ戻らなかった。戻れと言われれば従う構えはある。けれど、言われるまでは記録台の横にいる。そこが今の自分の位置だと決めた者の立ち方だった。


ジャサントは一度だけ言う。


「移動が必要です」


リィナは帳面を見たまま答える。


「終わったら」


「何が」


「書くの」


そこでジャサントは短く沈黙した。長くはなかった。炭片を置き、次の札を持つまでの間に収まる程度の沈黙だった。


「記録は続きます」


「じゃあ、ここでいい」


その返答は誤りだった。記録が続くなら移動も続く。けれどリィナは、記録の途切れない場所を、消えない場所と誤って結び始めていた。


ジャサントはそれを訂正しない。訂正しても区画は増えないし、説明しても必要量は変わらない。


夕刻前、配給の再調整と死者確認が終わる。砦の光は朝より濁り、石壁の影が長くなる。ジャサントは最後の欄へ本日の補記を行った。


死者、増加なし。

病舎重症、変化あり。

配給不足、継続。

単独未成年一、仮札配布済み。

保護区画未移動。


最後の行だけ、まだ保留の形をしていた。だが現時点で削除もできない。


ジャサントが帳面を閉じると、リィナが言った。


「明日も書く?」


「書きます」


「わたしのも」


「必要であれば」


「じゃあ、いる」


その言い方に、願いはなかった。決めたことを確かめる声だった。


ジャサントは帳面を揃え、炭片をしまい、札束を重ねる。返答はしなかった。返答を要する項目に分類できなかったからだ。


そのまま歩き出す。宿泊区画の方へ向かう。後ろで、足音が続いた。一定の距離を置き、呼び止めるでもなく、ただついてくる。


見張り塔の影に入るところで、ジャサントは一度だけ立ち止まった。


「なぜついてきますか」


問われて、リィナは不思議そうに首を傾げる。朝と同じだった。ただ、答えは少しだけ短くなっていた。


「だって」


そして、ごく自然に言う。


「ここにいると、消えないから」


その意味を、ジャサントは正確には理解しなかった。理解しないまま、宿泊区画の方向を示す。


「そこです」


「うん」


リィナは頷き、先に行かず、ジャサントが動くのを待ってから歩き出す。一定の距離を保つ。近すぎず、離れすぎず、呼べば届く位置だった。


それはいつも通りの朝から始まった一日だった。

誰かが先に処置され、誰かが後回しにされ、誰かの名前が帳面に加わる。正しい手順で始まった一日は、正しい損耗で終わる。


ジャサントはそう信じていた。

まだ一度も、それを疑ったことはなかった。

ご拝読ありがとうございました。次回の更新は明日の15時を予定しています。

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