第18話 数えない者
ジャサントは記録室の机の前に立っていた。机の上の帳面は、昨夜のまま閉じられている。配給帳、避難民登録、周辺集落記録帳。机の中央には、ヴィスタの新しい束が立っていた。署名札のない、人口票の数字だけの束だった。机の左端には、束に入らないままのノアの札。机の右端には、リュド・カインの隔離棟経過観察、明朝再判断の欄。机の脇には、観察記録欄の二者連名所見が、二日連続のまま残っていた。
新しい伝達札が、配給前のうちに届いていた。
兵が一人、扉の脇に立った。封のついた小札を一枚、差し出す。封は赤糸。決定通達のしるしだった。
「ダグラス殿より」
「承知しました」
ジャサントは札を受け取り、糸を切った。
規定改定、議題、本日朝、保留。
理由、ベルハイム別班派遣、ヴィスタ別班派遣、両方本日中。
担当者、ジャサント、本日は砦内業務、配給監督。
リュド・カイン、隔離棟経過観察、解除可、軽傷者欄へ移行。
配給、本日も半量。
補充、未定。
決定者、ダグラス。
ジャサントは札を二度読んだ。
砦内業務、配給監督。担当者欄に、彼女の名が書かれている。本日は外へ出ない。出ない代わりに、配給場の人数の数え方を、彼女が見る。書ける欄ではあった。書かれる対象が、外の戦場ではなく、内の人だった。
リュドは隔離棟から出てきた。
左前腕の咬傷は、まだ薄い赤を残していたが、感染兆候は最後まで出なかった。エルヴァが軽傷者欄への移行の札を切り替えた。
「リュド・カインさん」
エルヴァが言う。
「は、はい」
「経過観察、解除します」
「ありがとうございます」
「軽傷者欄へ移行、軽務復帰可」
「はい」
「振り抜きは、まだ控えてください」
「はい」
「左前腕の腱は、完全には戻っていません」
「分かりました」
リュドはうなずいた。
彼はジャサントの方へ歩いた。札の切り替えの確認のためだった。
「ジャサント殿」
「はい」
「経過観察、解除されました」
「了解です」
「軽務は何をすればよろしいですか?」
「本日は配給監督補助です」
「配給場、ですか」
「はい」
「振らない、で」
「振らないでください」
「はい」
リュドはうなずいた。剣は持つ。だが抜かない。それが本日の役割だった。
中庭の長机の左端には、リィナが立っていた。
ノアもいた。煮炊き場の女が、ノアの脇に立っていた。ノアの手は、リィナの脇の方に伸びている位置にあった。今朝も、ノアはリィナの方を見ていなかった。だが、リィナが動くと、ノアも動いた。同じ拍だった。
「ねえ」
リィナが言う。
「何ですか」
「きょうは、いる?」
「砦内、配給監督」
「外、いかない」
「はい」
「うん」
リィナはうなずいた。
胸の内側に手をやる動作はしなかった。
ノアの札の角を、もう一度整え直した。
「リュドは」
「経過観察解除、軽務復帰、配給監督補助」
「ふらないんだね」
「はい」
「うん」
リィナはそれだけ言った。
配給場は、中庭の煮炊き場の前に設けられていた。
配給台は板二枚を樽に渡しただけで、登録台より低い。火床の脇には鉄鍋が二つ、湯気は薄い。煮込みは前夜の残り、新しい具は入っていない。乾パンの箱は二つ。椀の山は半分。配給台の右に、ジャサントが立つ位置。左に、リュド。後ろに、煮炊き場の女が二人。
ジャサントは配給帳を開いた。
配給対象、八十六。
歩行可、五十八。
歩行困難、十一。
発熱疑い、三。
単独未成年、六。
新規流入、八。
昨日からの繰り越し、未配給、一。
数字を書き終えてから、彼女は本日の半量配給の手順を確認した。乾パンは半分に割って渡す。煮込みは少量。塩は子どもには入れない。湯は、半分減ったあとに新しい湯を注がない。湯の補充は、配給対象の半分が済んだあとに、まとめて行う。
リュドは配給台の左に立っていた。剣は持っている。抜かない。指の位置は、剣の柄の外側。深く握り込まない位置だった。前線経験のある者の指の位置を、彼は真似ていた。
配給の列は、すでに長く伸びていた。
歩行可の列が中庭の壁沿いに長く並び、歩行困難の者は配給台の脇に直接寄せられている。発熱疑いは別棟へ運ばれる予定で、椀だけが先に渡される。子どもたちは大人の腰のあたりに立ち、列の前後に挟まっていた。
配給は、煮炊き場の女が手渡す。札の確認は、ジャサントが行う。リュドは列の外側で、列の崩れを見る。
最初の数十人は、規定通りに進んだ。
「氏名を」
ジャサントが問う。
「エナ」
「歩行は」
「できる」
「発熱は」
「ない」
「同行者は」
「子、一」
「了解です」
札に印を入れ、煮炊き場の女が乾パン半分と煮込み少量を渡す。エナは椀を受け取り、子の方へ先に渡した。順番だった。リィナは机の左端から、その順番を見ていた。ノアもリィナの脇から、それを見ていた。
ベンが来た。崖道で内側を歩けと言われた老人だった。
「ベン」
「歩行は」
「遅いが」
「発熱は」
「ない」
「了解です」
ベンは札を受け取り、配給台の脇から下がった。
妻アダの欄は、まだ閉じていない。
彼の隣の天幕の女の欄も、まだ閉じていない。
列の中ほどで、一度、空気が変わった。
ジャサントは札の確認の途中、視線を上げた。
理由は、特定の音ではなかった。
列の中に、呼吸のおかしい者が一人いた。距離、配給台から十数歩。順番でいうと、あと二十人ほど後ろ。男だった。三十代の半ばほど。服の袖の中に、汗が滲んでいた。今朝の気温では、汗が出る理由はなかった。
リュドが、彼女の視線の方向を、目で追った。
「ジャサント殿」
リュドが小さく言う。
「あの男、ですか」
「はい」
「発熱、疑いますか」
「現時点では確認できません」
「呼ぶ?」
「列の中で、確認します」
ジャサントは札の確認を続けた。だが、視線は時々、その男の方に向けた。男は列の中で、少しずつ前に進んでくる。普通の歩幅だった。だが、汗の量が、ほかの者より多かった。それから、右腕の動きが、ほかの者より少なかった。袖の中に、何かを抱えていた。
距離、配給台から五歩。
ジャサントはエルヴァの方角を見た。エルヴァは隔離棟の前で、リュドの代わりに別の経過観察者を診ていた。配給場までの距離、十数歩。声をかければ届く位置だった。
「リュド」
「はい」
「列の外へ移動して、エルヴァを呼んでください」
「はい」
リュドは、剣を抜かずに、列の外を歩いた。配給場の流れを止めない速さで、エルヴァの方へ向かった。煮炊き場の女が、そのあいだも乾パンを渡し続けた。配給は止まっていない。止めない方が、列が崩れにくかった。
距離、配給台から二歩。
男が、配給台の前に来た。
「氏名を」
ジャサントが問う。
「……ヨル」
「年齢を」
「三十六」
「歩行は」
「できる」
「発熱は」
「ない」
「同行者は」
「いない」
ジャサントは札を確認した。ヨル。男。三十六。歩行可。本人申告残留、東列再分配、継続。先日、南棟への移送を「行かない」と言った男だった。今日も配給を受け取る側にいた。
「袖の中の物を、確認させてください」
ジャサントが言う。
声は変わらなかった。
ヨルは、少しだけ間を置いた。
「乾パンを、もう一個もらえないか」
「規定外です」
「明日はいない」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「氏名欄、変更されていません」
「そうじゃない」
「現時点では、配給対象として在籍中です」
「俺、明日、いない」
「移送ですか」
「ちがう」
「では、何ですか」
ヨルの右手が、袖から出た。
刃物だった。
刃の長さ、指三本ぶん。煮炊き場の小刀ではない。私物だった。刃は錆びていない。手入れされていた。
「もう一個」
ヨルが言う。
「乾パンは、規定通り半分です」
「もう一個、もらう」
「規定外です」
ヨルが踏み込んだ。
ジャサントは動かなかった。
動かないことが、相手の動作を読むための位置だった。彼女は配給台の右側に立っている。煮炊き場の女は、配給台の後ろ。リュドはエルヴァを呼びに、列の外を歩いている。リュドの位置は、配給台から十歩離れている。後ろの煮炊き場の女に、刃物が届く距離ではなかった。だが、ジャサントの位置には、届いた。
ヨルの刃物の角度は、上から下へ。
振り下ろし。
腕の動作は、深く握り込まない位置からの振り出しではなかった。深く握っていた。前線経験のない男の振り方だった。深く握る癖は、戻りを遅らせる。
距離、半歩。
ジャサントは半歩、左へ動いた。
半歩だけだった。
ヨルの刃物の振り下ろしの軌道から、半歩外れた位置に、彼女が立った。
ヨルは、その半歩の差に対応できなかった。
深く握り込んでいるため、進路の修正が遅れた。
刃物が、配給台の板に当たった。
刃が板の中ほどに、半分まで入った。乾いた木の音だった。煮炊き場の女が、半歩、後ろへ下がった。配給を受けようとしていた次の女が、椀を取り落としかけた。落とさなかった。彼女は子どもの腕を引き、列の外側に下がった。
ジャサントは、まだ動いていなかった。
剣も抜いていなかった。
鉈も抜いていなかった。
ヨルは、配給台の板に刺さった刃物を、引き抜こうとした。深く握り込んでいるため、引き抜く動作も遅れた。彼女は、引き抜く動作の半拍前に、剣を抜いた。
抜く動作は、振る動作ではなかった。
剣の柄を持って、刃の腹を、ヨルの手首の上に当てるだけだった。
押さえる動作だった。
「武器を、放してください」
ジャサントが言う。
声は変わらなかった。
呼吸も変わらなかった。
ヨルは、刃物の柄を握ったままだった。手首は、彼女の剣の腹に押さえられている。動かせなかった。彼は左手で、刃物を引き抜こうとした。だが、配給台の板に刺さった刃は、まだ抜けなかった。
「武器を、放してください」
ジャサントが、もう一度言う。
ヨルは、答えなかった。
答える代わりに、左手を彼女の方へ伸ばした。素手だった。爪で、彼女の右袖を掴もうとした。
ジャサントは、剣の腹を、ヨルの手首から離した。
離した瞬間、剣を立てた。
剣の動作は、振り抜きではなかった。
突きでもなかった。
押さえる動作の延長で、剣の刃が、ヨルの首の側面に当たった。
骨の浅い位置ではなかった。
首の側面、頸動脈の上の皮の位置だった。
深く入れば、動脈に届く。
深く入れなければ、皮を切る程度で済む。
彼女は、深く入れなかった。
剣は、ヨルの首の皮を、わずかに切った。血の滲みが、ヨルの首から、革帯の方へ落ちた。深い傷ではない。だが、刃が首の側面に当たっている、という事実は、ヨルの動きを止めるのに十分だった。
ヨルの左手が止まった。
「武器を、放してください」
ジャサントが、三度目を言う。
ヨルは、刃物の柄を、ようやく放した。
左手を、彼女の方から下ろした。
両手とも、力が抜けた。
彼の右手首の皮には、剣の腹が押さえた赤い線が、残っていた。
ジャサントは、剣を、ヨルの首の側面から離した。
離す動作は、当てる動作と同じ拍だった。
剣を鞘に戻すまでの動作も、同じ拍だった。
剣はもう、抜かれていなかった。
エルヴァとリュドが走ってきた。
「ジャサント」
「処理済みです」
「武装解除、完了」
「ヨル、首側面に軽傷一」
「私が斬りました」
「深さは」
「皮のみ、動脈に届かず」
「了解しました」
エルヴァは、ヨルの方へ歩いた。彼女は、ヨルの首の傷を確認した。深さは、ジャサントの言った通りだった。動脈には届いていない。出血は少ない。だが、傷は残った。
「ヨルさん」
エルヴァが言う。
「氏名は確認しました」
「うん」
「武装解除、了解です」
「乾パンを」
ヨルが言う。
「もう一個」
「規定外です」
エルヴァが言う。
「明日、いないんだ」
「移送予定ですか」
「ちがう」
「病気ですか」
「ちがう」
「では、何ですか」
ヨルは答えなかった。
答える代わりに、配給台の板に刺さったままの刃物を、見た。
それから、自分の右手首の赤い線を、見た。
左手で、首の側面の血を、軽く拭った。
拭った手を、見た。
「乾パン、もう一個」
ヨルがもう一度言う。
「規定外です」
ジャサントが言う。
「半分、しかもらえない」
「半量配給です」
「明日、いない」
「明日も配給対象です」
「俺、いない」
「氏名欄は、配給対象です」
ヨルは黙った。
ヨルは、しばらく黙っていた。
それから、配給台の板に刺さった刃物を、自分の左手で、引き抜こうとした。今度は、引き抜けた。深く握っていない位置で握ったから、抜けた。彼は刃物を、配給台の上に置いた。柄を、ジャサントの方へ向けた。
「もう、振らない」
ヨルが言う。
「武装解除、確認しました」
「乾パン、もう一個」
「規定外です」
「分かってる」
「では、半分です」
「分かってる」
ヨルは札を受け取った。
煮炊き場の女が、規定通りの乾パン半分と、煮込み少量を渡した。塩は出さなかった。彼は椀を受け取り、配給台から離れた。歩く速度は、列に並んでいた時と同じだった。汗の量も、変わっていなかった。
リュドが、彼の後ろを歩いた。剣は抜かなかった。指の位置は、剣の柄の外側のままだった。ヨルが東列の壁際に座り、椀を抱えるまで、リュドは少し離れた位置で見ていた。それから、配給台に戻ってきた。
配給は、止まらなかった。
列の中の女と子どもが、半歩下がった分は、戻った。配給は続いた。煮炊き場の女が、配給台の板に刺さった跡を、布で軽く拭いた。木の傷は残った。だが、配給は続いた。
ジャサントは、配給帳に欄を立てた。
配給時刻、本日午前。
配給対象、八十六。
未配給繰り越し、一、本日も繰り越し。
配給場、対人事案、一件。
氏名、ヨル。
事案、刃物所持、振り下ろし一回、配給台に到達、人体未到達。
処理、武装解除、首側面軽傷一、動脈未到達。
処理者、ジャサント。
処置、エルヴァ、軽傷者欄へ移行。
備考、規定外要求、乾パン追加一、却下。
書きながら、彼女は炭を一度、止めた。
書く欄ではあった。
書ける欄でもあった。
書く対象は、魔物ではなかった。
人だった。
彼女は炭を再び動かし、最後の一行を加えた。
処理は必要でした。
要求は規定外、武器使用に対する応戦は、規定の範囲。
帳面記録、本日付。
書きながら、炭の戻りが、一度だけ遅れた。
半拍だった。
半拍だけ、剣の戻りより遅れた炭の戻りだった。
リィナは、机の左端から、配給台の方を見ていた。
ノアもいた。だが、ノアは配給台の方を見ていなかった。リィナの脇から動かなかったが、視線は机の左端の自分の札の方を向いていた。リィナだけが、配給台の方を見ていた。
ヨルが東列の壁際で椀を抱えてから、リィナはジャサントの方へ歩いてきた。半歩、机の左端から離れた。ノアもついてきた。同じ拍だった。
「ねえ」
リィナが言う。
「何ですか」
「あの人」
「ヨルです」
「斬ったの」
「皮のみ、動脈に届かず」
「死なない?」
「死亡確認なし、軽傷者欄へ移行」
「うん」
リィナはうなずいた。
ノアは、リィナの脇で、机の左端の方を、まだ見ていた。
リィナは、ノアの方を見なかった。
「あの人、なまえあった」
リィナが言う。
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「氏名は確認しました」
「ヨル、って」
「はい」
「本人申告残留、東列再分配」
「うん」
「あの人、明日いない、って」
「はい」
「どこ、いくの」
ジャサントは答えなかった。
リィナの問いの形は、確認だった。
だが、答える欄が、彼女の帳面の中になかった。
ヨルは「明日、いない」と言った。だが、移送予定はない。病気でもない。氏名欄は配給対象のままだった。
「書いた?」
リィナが言う。
「はい」
「あの人、いる?」
「現時点では」
「あした」
「氏名欄は、明日も配給対象です」
「あの人、いない、って言ったよ」
「言いました」
「いるの? いないの?」
ジャサントは、もう一度、間を置いた。
「現時点では、確認できません」
「うん」
リィナはうなずいた。
うなずいてから、机の左端の方へ戻った。ノアもついていった。同じ拍だった。
午後、配給は終わった。
未配給は、繰り越し一名のままだった。火床の脇の棚の奥に、新しく半分の乾パンが一つ、布に包まれて置かれた。煮炊き場の女が、本日付で保存欄に入れた。氏名は書かれなかった。書く対象が、未確定だったからだった。
ヨルは、東列の壁際で、椀を抱えたまま、しばらく動かなかった。乾パン半分と煮込み少量を、ゆっくり食べていた。食べ終わった頃、彼は椀を返しに来た。配給台の脇に、椀を置いた。彼の動作は、普通だった。それから、東列の方へ歩いていった。
リュドが、彼の後ろを少し離れて歩いた。
剣は抜かなかった。
夕方、ヨルは東列の天幕の中に入った。
入ってから、出てこなかった。
ジャサントは、午後の遅くに、エルヴァに会った。
「ジャサント」
「はい」
「ヨルさんの首の傷、確認しました」
「はい」
「動脈には届いていません」
「はい」
「腕の動作は、規定の範囲でしたか」
「武装解除、首側面、皮のみ、動脈未到達」
「分かりました」
エルヴァは少しだけ間を置いた。
「ジャサント」
「はい」
「炭の戻り、半拍遅れましたか」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「書く時に、半拍遅れました」
「書く対象は、魔物ではなかった」
「人でした」
「そうですね」
「規定の範囲です」
「はい」
「ですが、半拍は、半拍です」
エルヴァはそれだけ言った。
診断ではない。観察だった。所見でもなかった。
ただ、半拍、という言葉を、彼女が使った。
ジャサントは答えなかった。
答える欄ではなかった。
夕方、ヨルが東列の天幕から出てこないことを、煮炊き場の女が知らせに来た。
「ジャサント殿」
「はい」
「ヨルさんが、夕方の配給に来ません」
「夕方の配給は、本日ありません」
「あ」
「ですが、確認します」
ジャサントは東列の方へ歩いた。リュドが後ろを歩いた。エルヴァは隔離棟から離れて、ジャサントの方へ近づいた。
ヨルの天幕の前で、ジャサントは止まった。
天幕の入口は閉じていた。中から、音はしない。
「ヨルさん」
ジャサントが言う。
返事はなかった。
エルヴァが、天幕の入口の布をめくった。
中は暗かった。
床に、ヨルが横たわっていた。
動かなかった。
エルヴァは中に入り、ヨルの首に手を当てた。それから、首の側面の傷を確認した。傷は、ジャサントが朝につけたままの位置だった。深さも、変わっていなかった。皮のみ。動脈には届いていない。
「ジャサント」
エルヴァが言う。
「はい」
「ヨルさん、自死です」
「死因は」
「自分の刃物による、首側面、深い切創」
「武器は」
「彼の右手の脇に」
ジャサントは天幕の中に入った。
ヨルの右手の脇に、刃物が一本、置かれていた。柄は、彼の手から離れていた。配給台の板に刺さっていた、あの刃物だった。
「ジャサント殿」
リュドが入口の外で言う。
「死亡確認です」
「はい」
「氏名」
「ヨル」
「了解です」
リュドはそれだけ言った。
彼の指は、剣の柄の外側のままだった。剣は抜かれなかった。
ジャサントは、記録室に戻った。
帳面に、新しい欄を書き加える。
東列、本日夕方。
ヨル、男、三十六。
死亡確認、自死。
死因、自身の刃物による首側面切創、深い。
発見者、煮炊き場の女、ジャサント、エルヴァ、リュド。
確認者、エルヴァ。
時刻、夕方。
本日午前の配給場での対人事案、関連の可能性あり。
書きながら、彼女は炭を一度、止めた。
書く欄ではあった。
書ける欄でもあった。
書く対象は、人だった。
朝、半拍遅れて書いた人と、同じ人だった。
「あの人、明日いない、って」
リィナの言葉が、書く欄の上に、半拍ぶん、もう一度残った。
ヨルは「明日、いない」と言った。
午後の配給では、彼の氏名欄は配給対象のままだった。
夕方、彼は「いない」側になった。
氏名欄は、本日付で閉じる側に移った。
ジャサントは、最後の一行を加えた。
ヨル、本日付、配給対象欄から死亡確認済み欄へ移動。
氏名欄、本日付、閉鎖。
本人申告、明日いない、整合。
処理、規定通り。
帳面記録、本日付。
書きながら、炭の戻りが、もう一度、半拍遅れた。
リィナは机の左端にいた。
ノアもいた。煮炊き場の女が、二人の脇に立っていた。
「ねえ」
リィナが言う。
「何ですか」
「ヨル、いない?」
「死亡確認、本日夕方」
「あした、いない、って言ってた」
「はい」
「あの人、ほんとうに、いなくなったの」
「氏名欄、本日付、閉鎖」
「うん」
「のこる?」
「死亡確認済みの束に、氏名欄が残ります」
「ずっと?」
「保存期間内であれば」
「うん」
リィナはうなずいた。
ノアの方は見なかった。
机の左端のノアの札の角を、もう一度、整え直した。胸の内側に手をやる動作はしなかった。
「ねえ」
「何ですか」
「あの人、書いた?」
「氏名欄、ヨル、と書きました」
「いるの?」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「氏名欄は残ります」
「いるの?」
リィナは、もう一度問うた。
今度は、声の高さが、少しだけ低かった。
胸の内側を押さえる動作は、まだ、しなかった。
「氏名欄は残ります」
ジャサントは、同じ言葉を返した。
リィナはうなずかなかった。
うなずく代わりに、ノアの脇から、もう一度、ノアの札の角を整え直した。
ノアは、リィナの動作を見ていなかった。
だが、リィナの動作と同じ拍で、半歩、机の左端の角に近づいた。
夜が近づくと、中庭の声は少しずつ下がった。
煮炊き場の鉄鍋は片付けられた。配給帳の不足欄は閉じている。未配給繰り越し欄は、本日の半分の乾パンの分が、まだ立っていた。氏名欄は、空白だった。書く対象が、決まっていなかった。
ヨルの天幕は、エルヴァの指示で布が掛けられ、夜のうちに別班が遺体を運び出すことになった。彼の刃物は、回収用の箱に入れられた。回収者の欄に、ジャサントの名と、エルヴァの名と、リュドの名が、連名で書かれた。
ジャサントは、記録室の灯りを点けた。
明朝の業務予定を書く。
ヨル、死亡確認、本日付、氏名欄閉鎖。遺体搬送、本日夜、別班。
本日午前の対人事案、報告、明朝、ダグラス殿に提出。
配給、半量継続、補充見込みなし。
未配給繰り越し、一、氏名欄空白、保存欄に半分。
リュド、軽傷者欄、軽務復帰。
ガルド、軽務継続、機動予備指揮当分外す、脇腹経過観察。
ヴィスタ、別班派遣中、本日中帰還予定。
ベルハイム、別班派遣中、本日中帰還予定。
ノア、保護対象欄、机左端、据え置き、煮炊き場仮預け継続。
リィナ、現状維持、立ち会い欄、規定外追記済み、煮炊き場補助。
種別未確認個体、本日確認なし、要注視継続。
担当者、ジャサント、変更なし。
その下に、もう一行。
観察記録、追記、本日付。
あの子は、リィナさんの隣にいると、泣きません。
所見二者連名、三日連続。
処理、現状維持、要継続観察。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
机の上の帳面は、すべて閉じられた。
机の中央のベルハイムの束は、薄くなったままだった。
机の中央の隣のヴィスタの束は、署名札のないまま立っていた。
机の左端のノアの札は、束に入らないまま朝を待った。
机の右端のリュド・カインの欄は、軽傷者欄へ移行済みだった。
机の脇の観察記録欄は、三日連続の所見が並んでいた。
そして、新しく書かれた欄が一つ。
ヨル、死亡確認、自死、本日付、氏名欄閉鎖。
書かれた欄だった。
書ける欄だった。
書かれた対象は、人だった。
朝、半拍遅れて書いた人だった。
夕方、もう一度、半拍遅れて書いた人だった。
火床の方角で、煮炊き場の女が、夜の片付けの最後の桶を運んでいた。
新しい半分の乾パンは、棚の奥に布で包まれて残っていた。氏名欄は空白だった。明朝、誰の名で書かれるかは、まだ決まらなかった。
リュドは隔離棟から軽傷者の天幕へ移った。
ガルドは脇腹の包帯を新しいものに替え、自分の天幕で休んでいた。
ノアは煮炊き場の脇の小屋で、煮炊き場の女の毛布の中に、また入った。
リィナは東列の縄をくぐる前に、机の左端のノアの札の角を、もう一度だけ整え直した。
「リィナ」
ジャサントが言う。
「うん」
「東列の縄をくぐってください」
「あした、ここにいる」
「明日です」
「うん」
「今は戻ってください」
「うん」
リィナは机の左端から、半歩、離れた。半歩だけだった。それから、もう半歩、離れた。二歩で、机から離れた。振り返らなかった。胸の内側を押さえなかった。だが、東列の縄の前で、一度だけ立ち止まった。
「ねえ」
リィナが言う。
「何ですか」
「ヨル、いた?」
「氏名欄、書きました」
「いた?」
ジャサントは、少しだけ間を置いた。
「いました」
「うん」
リィナは、それだけ言った。
それから、東列の縄をくぐった。
ジャサントは記録室の灯りを消した。
戦闘記録は閉じない。
配給場の対人事案の欄は、本日付で閉じた。
ヨルの氏名欄は、本日付で閉じた。
だが、彼の名前は、保存期間内、死亡確認済みの束に残った。
書かれた名前は、消えなかった。
魔物の処理欄は、種別と数だけ残る。
人の処理欄は、氏名と日付が残る。
両方とも、書く欄だった。
書ける欄でもあった。
朝、ジャサントの炭の戻りが、半拍遅れた。
夕方、もう一度、半拍遅れた。
合計、一拍。
書く動作の中に、戻りの遅れが、二回、残った。
だが、戦闘の動作には、戻りの遅れは、なかった。
書く動作と、戦闘の動作は、別の幅で並んでいた。
だが、同じ手で行われた。
書かれた欄。
書ける欄。
書かなければならない欄。
そして、書く時に半拍遅れた欄。
それぞれが、別の位置に並んでいた。
ヨルは「明日、いない」と言った。
明日、彼の氏名欄は、配給対象から、死亡確認済みの束へ移っている。
書く欄ではあった。
書ける欄でもあった。
だが、書く対象が、人であったということだけが、半拍の遅れとして、ジャサントの炭の戻りに残った。
ご拝読ありがとうございました。




