第17話 二度目の鐘
ジャサントは記録室の机の前に立っていた。机の上の帳面は、昨夜のまま閉じられている。配給帳、避難民登録、周辺集落記録帳。机の右端には、リュド・カインの隔離棟経過観察、感染兆候なし、明朝再判断の欄。机の左端には、束に入らないままのノアの札。机の脇には、観察記録欄の二者連名所見が、本日も継続のまま残っていた。
ガルドの欄は、軽務、機動予備指揮、当分外す、脇腹再縫合、経過観察。
昨日の戦闘の補正動作の欄は、二回、半歩、半歩、と書かれている。
外はまだ薄い。
煮炊き場の煙はいつもより細い。
ノアは煮炊き場の脇の小屋で、煮炊き場の女の毛布の中で眠ったらしい。今朝、リィナが机の左端に来た時、ノアもまた、煮炊き場の女に手を引かれて、リィナの脇に立った。
ジャサントが机の左端を通った時、リィナは言った。
「ねえ」
「何ですか」
「きょうも、いる?」
「煮炊き場仮預け、継続です」
「うん」
リィナは胸の内側に手をやらなかった。ノアは机の左端のノアの札を見ていた。リィナはノアの札の角の位置を、もう一度整え直した。
伝達札が記録室に届いたのは、配給前のことだった。
兵が一人、扉の脇に立った。封のついた小札を一枚、差し出す。封は赤糸ではなかった。今日は青糸だった。緊急報告の伝達だった。
「ダグラス殿より」
「承知しました」
ジャサントは札を受け取り、糸を切った。
南方、別集落、壊滅報告。
集落名、ヴィスタ。
人口票最終確認、十二日前。
通過者証言、本日早朝。
状態、灯り無、煙無、鐘無、外周一部崩落。
偵察派遣要請、最小編成。
担当、ジャサント。
補助、偵察兵二。
出発、即時。
帰還期限、本日中。
決定者、ダグラス。
ジャサントは札を二度読んだ。
ヴィスタは砦の南方、徒歩で半日と少しの位置にある集落だった。ベルハイムよりやや遠い。周辺集落記録帳の頁を開く。十二日前の更新で止まっていた。定住者四十九、流入十一、合計六十。歩行困難三、幼児二、単独未成年一、発熱報告なし。共同井戸、汚染なし。荷車、なし。馬、一。応援要請、なし。
ベルハイムと比べて小さい集落だった。
だが、止まり方は同じだった。
ジャサントは欄を立てた。
ヴィスタ。
更新停止、十二日目。
通過者証言、本日早朝。
灯り無、煙無、鐘無、外周一部崩落。
偵察派遣、本日。
担当者、ジャサント。
補助、偵察兵二、未充足。
編成、最小。
書きながら、彼女は炭を一度、止めなかった。書く欄ではあった。書ける欄でもあった。書かれた欄が、また一つ増えた。それだけだった。
ダグラスは中央会議室にはいなかった。中庭の、装備棚の脇に立っていた。
「読んだか」
「はい」
「ヴィスタだ」
「人口、最終確認時点で六十」
「外周、一部崩落」
「灯り無、煙無、鐘無」
「同じ兆候だな」
「はい」
「最小編成で行け」
「補助は」
「偵察兵二、選んでおいた」
「ガルドは」
「軽務より、外れている」
「了解しました」
ダグラスは少しだけ間を置いた。
「ジャサント」
「はい」
「大型は、確認されているか」
「現時点で報告なし」
「ベルハイムでは出なかった」
「はい」
「ヴィスタでも、同じとは限らない」
「承知しています」
「最小編成で大型に当たる場合の規定は」
「現地確認のみ、戦闘は避けられない時だけ」
「逃げてもいい」
「はい」
「逃げ方も、規定の範囲だ」
「承知しました」
ダグラスはそれだけ言って、装備棚から離れた。
止める手と、渡す手は、いつも同じ手だった。
偵察兵二名は厩舎の前で待っていた。
一人はクラ・タス。ベルハイムの帰路で並んだ男だった。もう一人は別の男。名はトール。三十代前半、林の中での偵察を専門にする。声は低い。問いは少ない。クラと同様、報告すべきことだけを欄に上げる男だった。
「ジャサント殿」
クラが言う。
「クラ、トール、了解しました」
「装備、軽装。馬は二」
「了解です」
「ヴィスタまで、徒歩半日と少し」
「はい」
「進路、南南西、林沿い」
「了解です」
クラはそれだけ言った。トールは黙っていた。剣の柄の位置を確かめる動作だけが、彼の確認だった。指の位置は外側。深く握り込まない位置だった。前線経験の癖だった。
ジャサントは札を確認した。
ジャサント、担当者。
クラ・タス、偵察補助。
トール・ヴェン、偵察補助。
編成三名、最小。
馬は二頭。装備、剣、鉈、止血具、水袋、乾パン半量、黒印箱小型一。
偵察用の黒印箱には、新しい小札が三十枚ほど入っていた。死亡確認の印を入れる札だった。書く対象が増えるかどうかは、現地で決まる。
リィナは中庭の長机の左端にいた。
朝、見送る位置と同じだった。ノアが脇に立っていた。ノアの札の角は、リィナが整えたままの位置だった。煮炊き場の女は、朝の片付けのために棚を整えていた。
ジャサントが机の左端を通った時、リィナは言った。
「いくの」
「南方、ヴィスタです」
「ベルハイムじゃない」
「別の集落です」
「おなじ?」
「灯り無、煙無、鐘無」
「おなじだね」
「現地確認のみです」
リィナはうなずいた。
胸の内側に手をやる動作はしなかった。
だが、ノアの札の角を、もう一度だけ整え直した。
「もどる?」
「予定では」
「ガルドは」
「軽務より、不在」
「うん」
リィナはそれだけ言った。
ノアはリィナの方を見ていなかった。
だが、リィナの脇から動かなかった。
ジャサントは振り返らなかった。
振り返らないことも、欄の上では同じだった。
南南西の道は、林沿いに長く続いていた。
風は弱い。地面は固い。ベルハイムへ向かう南の小道とは方角が違う。林の影は東側に伸び、日は進路の右肩から差していた。馬の蹄の音は乾いた土の上で一定に続き、後ろからついてくる足音は二つだけだった。クラとトール。
クラが言った。
「ジャサント殿」
「はい」
「林の中の音、減ってます」
「鳥は」
「鳴かない」
「獣の足跡は」
「林の縁に、中型のもの。乾いている」
「いつ頃のものか」
「半日以上前」
「了解です」
クラは短い男だった。報告すべきものだけを言う。トールはさらに短かった。彼の報告は、首を一度横に振る動作だけのことが多かった。
半刻ほど進んだあたりで、トールが初めて声を出した。
「ジャサント殿」
「はい」
「林の奥、水気の匂い」
「井戸ですか」
「いえ。動物のものではない、水の腐敗」
「位置」
「進路の左、林の奥、距離不明」
「ヴィスタの方角ですか」
「同じ方角」
「了解です」
ジャサントは欄に上げる札を頭の中に書いた。
書ける欄だった。
帰還後に書く。
ヴィスタの外周が見えたのは、午刻を過ぎた頃だった。
最初に目に入ったのは、外周の柵の崩落だった。
長さ、三歩ほど。土ごと地面が削れ、柵の杭が半分、外側に倒れている。倒れている方向は、外から内ではなく、内から外。中から外へ、何かが押し出された痕だった。だが、押し出された痕跡の脇に、外から内への爪の跡が三本、残っていた。深い線だった。
中型ではない。
深さが違う。
もっと大きい個体のものだった。
ジャサントは馬を止めた。
「クラ、トール、止まってください」
「了解」
「外周、柵の崩落、長さ三歩」
「はい」
「爪痕、三本、深い」
「中型より深いですね」
クラが言う。
「はい」
「中型なら、こんなには」
「大型の可能性があります」
「ヴィスタで、初めてですね」
「現時点では、痕跡のみです」
「了解です」
トールは林の縁の方を見ていた。視線は、進路ではなく、爪痕の延長線上にあった。爪痕がどこから来て、どこへ抜けていったかを読んでいる目だった。
「ジャサント殿」
トールが言う。
「はい」
「爪痕、林の方から来てます」
「進入経路ですか」
「進入と退出、両方の可能性あり」
「現在、近くに気配は」
「現時点でなし」
「了解です」
ジャサントは馬を降りた。
クラとトールも馬を降りた。馬は林の縁に繋ぎ、装備を確認する。ヴィスタの内部に入る前に、外周をまず一周する。それが手順だった。ベルハイムの時と同じ動作だった。
外周一周の途中、トールがまた声を出した。
「ジャサント殿」
「はい」
「南側、外周内の地面、また同じ爪痕」
「数」
「三本一組、二箇所」
「中型ではない」
「大型のもの」
「進路は」
「中央へ」
「中央には何が」
「集落の広場、煮炊き場、礼拝堂は不明」
「礼拝堂は」
「ヴィスタには、なかったはずです」
「鐘楼は」
「あった」
「位置」
「広場の中央」
ジャサントは欄を頭の中に書いた。
鐘楼が中央。
爪痕が中央へ向かっている。
鐘は鳴っていない。
外周一周を終え、彼女は剣を抜いた。
「私が先に入ります」
「了解」
「クラ、トール、外周で待機。気配があれば合図」
「了解」
「中央に大型の可能性。距離を取って観察」
「了解です」
クラはうなずいた。トールも一度だけうなずいた。彼の指は、剣の柄の外側に置かれたままだった。深く握り込まない位置。戦闘になる前提の位置だった。
ジャサントはヴィスタの内部に入った。
道の左右に、家屋が並んでいた。ベルハイムより小さい集落だった。家屋の数は、外周から数えて十数軒。戸の開いたものと、閉じたままのものが混ざっていた。閉じたままのものの中に、人がいる気配はない。開いたものの中には、引き出された家具と、残された椀があった。煮炊き場の火床は冷たい。鐘楼の縄は切れていた。鐘は地面に落ち、半分だけ土に埋まっていた。
ベルハイムと、同じ景色だった。
違うのは、地面の爪痕の深さだった。
ベルハイムには、なかった深さだった。
広場が見えた。
広場の中央に、鐘楼があった。鐘楼の脇に、何かが座っていた。
座っている、ではなかった。
伏せていた。
低い姿勢だった。脚が長く、口先が裂け、腹が深い。中型と同じ種だった。だが、背の高さが、中型の倍以上ある。
大型だった。
距離、三十歩。
気配は、まだ伏せたままだった。彼女の動きには、まだ反応していない。
ジャサントは剣を構えなかった。
構えるより先に、退路を確認した。広場の入口、左の小道、右の家屋の影。三つあった。退路は確保されている。次に、大型の周囲を確認した。中型、小型は、見える範囲にいない。大型は単独だった。
それから、地面を見た。
爪痕、三本一組、地面に複数。鐘楼の脇に、特に深い一組。鐘楼の縄が切れているのは、大型が払ったからではない。縄は内側から切られていた。村人が、最後に鳴らせなかったのだろう。鳴らす前に、何かが起きた。
中型四、と最初に書く欄に書いた。
だが、中型は見えない。
見える範囲にいるのは、大型一だけだった。
大型が、頭を上げた。
ジャサントの方を、見た。
見たというより、気配を捉えた。
伏せていた姿勢から、ゆっくりと脚が立ち上がる。
距離、三十歩。
彼女は剣を抜いた。
抜いた瞬間、大型の脚は地面を蹴っていた。
跳躍ではなかった。
走りだった。
中型の跳躍の倍以上の歩幅で、地面を踏んでくる。
距離、十五歩。
ジャサントは動かなかった。
動かないことが、相手の進路を読むための位置だった。
彼女は地面の爪痕の方向を、頭の中に置いていた。
大型の進路は、爪痕の延長線上にあった。広場の中央、彼女の正面、まっすぐだった。
距離、五歩。
彼女は半歩、左へ動いた。
半歩だけだった。
大型の進路から、半歩外れた位置に、彼女が立った。
大型は、その半歩の差に対応できなかった。
体重が大きい個体ほど、進路の修正が遅れる。
大型の右前脚が、彼女の正面を抜けた。
剣は、もう振られていた。
振り抜きではない。
突きに近い角度。
だが、首ではなかった。首は届かない高さだった。
剣の先は、右前脚の関節に入った。
骨の浅い位置ではなかった。
大型の関節は、中型より深い。
剣は半分まで入って、止まった。
剣を引いた。
引いた瞬間、彼女は半歩、後ろに下がっていた。大型の右前脚は、関節を半分まで斬られていた。だが、崩れなかった。脚は半分のまま、まだ動いた。重心は崩れたが、姿勢は保てた。
第一撃。
大型は鳴かなかった。
中型と同じだった。鳴かずに、動きを変えた。後脚で踏みとどまり、体の向きを変える。彼女の方を向き直した。半歩のずれを、今度は修正してきた。
距離、三歩。
彼女は剣を中段に戻し、もう一度、半歩、左へ動いた。
大型は、今度は跳んだ。
低い跳躍。脚の関節が半分斬られているため、高くは跳べない。横に跳んだ。彼女の左側を、抜けようとする角度。
剣の先が、跳躍中の腹に当たった。
振り抜きではない。
戻りの動作の途中、剣の重さだけで、腹を斜めに切る角度。
深くは入らない。
だが、走るための筋を、半分だけ断った。
第二撃。
大型は跳躍の途中で軌道を失い、地面に落ちた。
落ちた位置は、彼女の左、五歩の距離。
立ち上がる動作に入った。
だが、立ち上がるための筋が、半分しか動かなかった。
ジャサントは数えなかった。
第三撃、後脚の関節。
第四撃、別の前脚の腱。
第五撃、首の側面、骨の浅い位置を探す。届かない。
第六撃、首の側面、もう少し奥。届かない。
第七撃、喉の浅い位置。
皮の厚さが中型の倍以上ある。剣は半分しか入らなかった。
第八撃、喉の同じ位置に、もう一度。
皮を半分まで切る。
第九撃、首の付け根、骨の浅い位置を探す。
届く位置を、ようやく見つけた。
第十撃、骨の浅い位置に、剣を真っ直ぐ通す。
半分まで入る。
動脈には届かない。
大型の脚は、まだ動いていた。
彼女は走らなかった。
走らなくても、距離は保てた。
大型の動きは、彼女の動きより遅くなっていた。
第十一撃、喉の半分まで切られた位置に、もう一度。
皮を四分の三まで切る。
第十二撃、同じ位置。
皮を抜ける。
第十三撃、剣の先が、ようやく動脈に届いた。
血が出た。
止まらなかった。
だが、大型はまだ動いていた。
第十四撃、別の動脈、首の側面。
第十五撃、同じ位置に、もう一度。
第十六撃、喉の深い位置。
剣が半分まで入った。
第十七撃、喉の深い位置を、最後まで通す。
剣の戻りで、首の半分を断つ。
大型は、ようやく崩れた。
崩れる方向は、彼女の右前。
彼女は半歩、後ろへ下がった。
半歩だった。
彼女の足は、最初の踏み込みから、合計で四歩しか動いていなかった。
呼吸は変わらなかった。
剣を布で拭いた。布は半分以上、赤くなっていた。布は途中で替えた。新しい布で、もう一度拭いた。剣の刃の欠けを確認する。三箇所。皮の硬さで欠けたものだった。鉈の柄の位置を確認する。抜いていない。
「ジャサント殿」
クラの声が、外周の方から聞こえた。
「はい」
「終わりましたか」
「はい」
「数は」
「大型一」
「中型は」
「現時点で確認なし」
「小型も」
「なし」
「了解です」
クラとトールが広場まで歩いてきた。
クラは大型の死骸を見た。
トールは地面の爪痕と、大型の崩れた位置を見た。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「十七撃です」
ジャサントが言った。
「は?」
「処理に、十七撃を要しました」
「ジャサント殿」
クラが言う。
「はい」
「それ、書くんですか」
「処理欄に書きます」
「数を」
「数も書きます」
「分かりました」
トールは、剣の柄の位置を確認した。彼の指は、戦闘の前と同じ、外側にあった。大型と対峙する瞬間、彼の指は、深く握り直されなかった。クラはうなずいた。彼の剣は、最後まで抜かれなかった。
死骸の処理は、その場では行わなかった。
大型の死骸は重い。三人で運ぶことはできない。回収は別班、明朝以降。彼女は死骸の位置を、地図の中に書く位置に置き換えた。鐘楼の脇、爪痕の中央、広場の中央寄り。
外周の家屋の中も、確認した。十数軒、すべて無人。中型、小型、いずれも見えなかった。生存者も、いなかった。死者の確認はあとで別班が行う。今日の任務は、現地確認のみだった。
ジャサントは札を一枚ずつ書いた。
ヴィスタ。
広場、大型一、死亡確認。
処理、十七撃。
中型、確認なし。
小型、確認なし。
家屋、無人確認、十二軒。
死者確認、別班、明朝以降。
井戸、汚染確認、別班、明朝以降。
書きながら、彼女は炭を一度も止めなかった。
書く欄ではあった。
書ける欄でもあった。
十七、という数字も、欄の中に収まった。
帰路、林の縁を抜けるまで、誰も口を開かなかった。
クラが、半刻ほど経ってから、ようやく言った。
「ジャサント殿」
「はい」
「大型、十七撃」
「はい」
「中型なら、何撃ですか」
「二撃です」
「八倍以上、ですか」
「皮の厚さと、関節の深さが違います」
「了解です」
「次に大型に当たる場合は、編成を変える必要があります」
「規定改定の対象ですね」
「帰還後、欄に上げます」
クラはそれだけ言った。トールは何も言わなかった。
だが、彼の指は、剣の柄の外側のままだった。
深く握り込まない位置だった。
前線経験のある男たちが、二人とも、握り方を変えなかった。
砦が見えた頃、空はまだ夕方の前だった。
日が長くなっている時期だった。
帰還期限は、まだ余裕があった。
東門で、ジャサントは止まった。
リィナは中庭の長机の左端にいた。ノアもいた。煮炊き場の女が、ノアの脇に立っていた。
「もどったの」
リィナが言う。
「はい」
「ヴィスタ」
「壊滅、確認」
「ひと、いた?」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
リィナの問いは、生存者のことだった。短い問いだった。核心を突いていた。
「現時点で、生存者の確認なし」
「みんな?」
「現地確認では、誰も見えませんでした」
「死んだの」
「死者確認は、別班、明朝以降」
「みんな、死んだの」
「未確認です」
リィナはうなずかなかった。
ノアの方も見なかった。
机の左端のノアの札の角を、もう一度だけ整え直した。
胸の内側を押さえる動作はしなかった。
「クラは」
リィナが言う。
「同行、無事です」
「もう一人」
「トール」
「うん」
「無事です」
「あなたは」
「現時点では」
「うん」
リィナは、それだけ言った。
それから、机の左端から半歩、離れた。半歩だけだった。ノアは、リィナの脇から動かなかった。リィナが半歩離れると、ノアも半歩離れた。同じ拍だった。
ジャサントは記録室へ向かった。
ダグラスが記録室の前で待っていた。
「ジャサント」
「はい」
「ヴィスタは」
「壊滅、確認」
「生存者は」
「現時点で、なし」
「大型は」
「一、確認、処理済み」
「単独?」
「はい」
「中型は」
「なし」
「処理に要した時間は」
「十七撃」
ダグラスは少しだけ間を置いた。
「十七、か」
「はい」
「初めてだな、お前で十七は」
「皮の厚さが、中型の倍以上ありました」
「規定改定の対象だ」
「帰還後、欄に上げます」
「明朝、会議室で」
「承知しました」
ダグラスは、それだけ言って、装備棚の方へ歩いた。
止める手と、渡す手は、いつも同じ手だった。今日の手は、止めも渡しもしなかった。書く欄に、新しい数字が入ることだけを、確認した。
エルヴァは隔離棟の前で、ガルドの脇腹の経過観察をしていた。
ジャサントが記録室に入る前、エルヴァが机の左端の方を一度だけ見た。リィナとノアの位置を見た。それから、ジャサントの方を見た。
「ジャサント」
「はい」
「ヴィスタの数字、お聞きしました」
「はい」
「十七撃」
「はい」
「規定改定の対象ですね」
「はい」
「あの子は」
「机の左端、ノアと一緒です」
「ノアさんは」
「リィナさんの隣で、泣きません」
「本日も、ですか」
「半日、ずっと」
エルヴァはうなずいた。
「本日付の所見、二日連続で同じです」
「観察記録欄、追記します」
「お願いします」
エルヴァはそれだけ言った。診断ではない。所見だった。所見が二日連続で同じだったということは、書ける欄が、もう一段、規定の中に近づいたということだった。エルヴァはそれを言葉にしなかった。だが、ジャサントの方を見る目の止まり方が、昨日より一拍長かった。
ジャサントは記録室で、新しい欄を書き加えた。
ヴィスタ。
壊滅、現地確認、本日。
担当者、ジャサント。
補助、クラ・タス、トール・ヴェン。
広場、大型一、死亡確認。
処理時間、十七撃。
処理者、ジャサント、単独。
中型、確認なし。
小型、確認なし。
家屋、十二軒、無人確認。
死者確認、別班、明朝以降。
井戸、汚染確認、別班、明朝以降。
鐘楼、縄、内側から切断。
爪痕、地面、複数、大型のもの。
通過者証言、本日早朝、灯り無、煙無、鐘無、外周一部崩落と一致。
損耗、なし。
剣、刃欠け三箇所、洗浄、研ぎ直し要。
その下に、もう一行。
規定改定要請。
大型処理、最小編成では困難。
皮厚、関節深、中型の倍以上。
処理時間、最大十七撃の事例あり。
明朝、会議室で議題化。
書きながら、彼女は炭を一度、止めなかった。
書く欄ではあった。
書ける欄でもあった。
十七、という数字は、戦闘記録の頁の中に、もう一度、書かれた。
周辺集落記録帳の頁を、ヴィスタの方に切り替えた。
ヴィスタ。
更新停止、十二日目。
本日、現地確認、壊滅確認。
人口、最終確認時点で六十、現時点で生存者確認なし。
担当者欄、引き継ぎ、ジャサント。
補助欄、クラ・タス、トール・ヴェン、保留。
死者確認、別班、明朝以降。
その下に、補助欄を開いた。
ベルハイムの時と同じだった。
ヴィスタの補助欄には、署名札がなかった。集落が小さく、定住者と流入の中に、特定の補助役がいなかったらしい。氏名は最終確認時点の人口票にしか残っていない。
書ける欄ではあった。
だが、書く対象に、補助役の名がなかった。
ジャサントは欄を閉じなかった。
明朝、会議室で議題化されたあと、補助欄の処理が決まる。
リィナはまだ机の左端にいた。
ノアはリィナの脇に立っていた。煮炊き場の女は、夕方の配給の準備のために、棚を整えていた。リィナはノアの方を見ていなかった。だが、ノアが一度だけ、机の左端の角に手をかけようとした時、リィナがそっと、ノアの手の下に自分の手を置いた。
ノアの手は、机の角ではなく、リィナの手の上に乗った。
ノアはそれを、見ていなかった。
だが、手の位置だけは、変わらなかった。
煮炊き場の女が、それを見て、何も言わなかった。
書く欄ではなかった。
「ねえ」
リィナがジャサントに言う。
「何ですか」
「十七、って」
「処理に要した撃の数です」
「おおい?」
「中型は二撃です」
「八倍くらい?」
「八倍以上です」
「ふらないで、って言われたの?」
「振り抜きを控える、ではなく、振り抜きを最後まで通す、です」
「ちがうの?」
「皮が厚いと、振り抜きを最後まで通さないと、抜けません」
「うん」
リィナは少しだけ黙った。
「のこる?」
「処理欄、保存期間内であれば」
「数も?」
「十七、と書いてあります」
「ずっと?」
「規定改定の対象です」
「変わるの?」
今日のリィナはやけに、質問が多かった。
「次に大型と当たる場合の編成が、変わる可能性があります」
「あなたは」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「担当者欄、変更なし」
「うん」
リィナはうなずいた。
それから、ノアの方を見た。ノアはまだ、リィナの方を見ていなかった。リィナの手の上に、ノアの手が乗ったままだった。リィナはその手を、外さなかった。
夕方の配給は半量で行われた。
ヴィスタからの追加物資はなかった。ヴィスタは小さい集落だった。物資の余剰は、最終確認時点でほぼなかった。配給帳の不足欄は、本日も埋まっていた。未配給は、繰り越し一名のままだった。
リュドは隔離棟で、感染兆候のないまま、明朝の再判断を待っていた。
ガルドは脇腹の包帯を新しいものに替えてから、自分の天幕で休んでいた。
ジャサントは記録室の灯りを点けた。
明朝の業務予定を書く。
リュド・カイン、隔離棟経過観察、明朝再判断。
ガルド、軽務継続、機動予備指揮当分外す、脇腹経過観察。
ヴィスタ、別班派遣予定、死者確認、井戸汚染確認。
ヴィスタ補助欄、署名札なし、保留。
規定改定議題、明朝会議室、大型処理編成について。
ノア、保護対象欄、机左端、据え置き、煮炊き場仮預け継続。
リィナ、現状維持、立ち会い欄、規定外追記済み、煮炊き場補助。
種別未確認個体、本日確認なし、要注視継続。
配給、半量継続、補充見込みなし。
担当者、ジャサント、変更なし。
その下に、もう一行。
観察記録、追記、本日付。
あの子は、リィナさんの隣にいると、泣きません。
所見二者連名、二日連続。
処理、現状維持、要継続観察。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
机の上の帳面は、すべて閉じられた。
机の中央のベルハイムの束は、薄くなったままだった。
机の中央の隣に、ヴィスタの新しい束が立った。署名札のない、人口票の数字だけの束だった。
机の左端のノアの札は、束に入らないまま朝を待った。
机の右端のリュド・カインの欄は、夜間継続のままだった。
机の脇の観察記録欄は、二日連続の所見が並んでいた。
書かれた欄、書ける欄、書かなければならない欄。
それぞれが、別の幅で並んでいた。
そして、新しく書かれた欄が一つ。
大型一、処理、十七撃。
書かれた欄だった。
書ける欄だった。
書かれた数字は、明朝、規定改定の議題になる。
火床の方角で、煮炊き場の女が、夜の片付けの最後の桶を運んでいた。
ノアは煮炊き場の脇の小屋で、煮炊き場の女の毛布の中に、また入った。
リィナは東列の縄をくぐる前に、机の左端のノアの札の角を、もう一度だけ整え直した。整えた位置は、朝、彼女が整えた位置と、夕方、整え直した位置と、同じ高さだった。
「リィナ」
ジャサントが言う。
「うん」
「東列の縄をくぐってください」
「あした、ここにいる」
「明日です」
「うん」
リィナは机の左端から、半歩、離れた。半歩だけだった。それから、もう半歩、離れた。二歩で、机から離れた。振り返らなかった。胸の内側を押さえなかった。東列の縄の前で、一度だけ立ち止まり、首を振らずに中へ入った。
ジャサントは記録室の灯りを消した。
明朝、会議室で議題が立つ。
大型処理、最小編成では困難。
編成の見直しが行われる。
書ける欄に、書かれる文言が増える。
ヴィスタは、書く対象になった。
ベルハイムは、書き換えなければならない欄のままだった。
リュドは、明朝、再判断される。
ガルドは、軽務継続のままだった。
ノアは、煮炊き場の脇の小屋で眠っていた。
リィナは、東列の縄の中で、眠ったか、眠っていないかは、書く欄ではなかった。
戦闘記録は閉じない。
観察記録は閉じない。
保存期間内は、書かれた名前は残る。
ヴィスタの集落では、誰の名前も書かれなかった。
人口票の数字だけが、現時点での生存者確認なしの欄の上に、残っていた。
書く対象に名前のないものは、種別と数だけが残る。
それは、林の中で並走した一個体と、同じ書き方の欄だった。
氏名欄は、空白のままだった。
そして、新しい数字が一つ、書かれていた。
大型一、処理、十七撃。
ジャサントの戦闘記録の頁の中に、もう一度、書かれた。
ご拝読ありがとうございました。




