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戦姫メイド  作者:
ひび割れ
PR
16/19

第16話 復帰戦

ジャサントは装備棚の前に立っていた。中庭の石は夜の湿りを残し、踏み込んだ跡だけが濃く沈む。棚の上には、機動予備の補助札が並んでいた。札の角はすべて揃っている。昨夜のうちに整えたままだった。


ガルドはもう装備を着けていた。


革鎧の脇腹のあたり、包帯の白い線は、表からは見えない。革帯の下にしまわれている。剣帯の位置は普段より少し高く、鉈の柄は腰の前ではなく真横に置き直されていた。振り抜きの邪魔にならない位置だが、抜く動作は普段より一拍遅れる位置でもある。


「振り抜きはまだ控える」


ガルドが言う。


「了解しました」


「指揮は俺か」


「機動予備の指揮は、ガルドです」


「お前は」


「後段に入ります」


「後段、ね」


「補助欄の運用です」


ガルドはうなずいた。指の位置を確かめる動作はしなかった。だが、剣の柄に置かれた手は、前のように深く握り込んでいなかった。柄の外側に、指の腹だけが当たる位置だった。


ジャサントは札を一枚、彼に渡した。


ガルド・ダレン。男。第三前衛、軽務復帰初日。機動予備指揮。

ジャサント・ヴァロス。女。担当者、後段補助。


紐の長さは普段通り。彼は札を首にかけ、首元で位置を整えた。


中庭の長机の左端には、リィナが立っていた。


朝の配給前で、人の流れはまだ細い。札は服の内側にしまわれている。紐すら見えない。ノアの札の隣の位置に立っているのは普段通りだった。だが、今朝は、机の左端のすぐ脇、煮炊き場の方から、もう一人、立っていた。


ノアだった。


隔離棟の経過観察が解除された初日だった。発熱なし、咬傷なし、感染兆候なし。エルヴァが朝のうちに札を切り替えた。保護対象、隔離棟経過観察、解除。再配置先、未定、煮炊き場仮預けへ。


ノアは煮炊き場の女に手を引かれていた。だが、女が手を放すと、ノアは机の左端のリィナの方へ歩いた。歩幅は小さい。まだ完全には歩き慣れていない。だが、止まらずに歩いた。リィナの脇まで来て、そこで止まった。


煮炊き場の女が、机の左端まで来て言った。


「ノアさんは、こちらでお預かりします」


「はい」


「リィナさんも、隣で」


「うん」


リィナはうなずいた。胸の内側に手をやる動作はしなかった。ノアは、リィナのすぐ脇に立っていた。背の高さは、リィナの腰のあたりまで。リィナはノアの方を見なかった。机の左端のノアの札の方を見ていた。


ジャサントは記録帳の脇で、欄を一つ立てた。


ノア。男。四。隔離棟経過観察解除。

保護対象欄、机左端、据え置き。

本日、煮炊き場仮預け。

監督、煮炊き場の女、補助、リィナ。


書きながら、彼女はリィナとノアの方を見ない。書く欄を、見ていた。


王都街道へ向かう機動予備は、十六名だった。


ガルドが指揮を取り、ジャサントが後段に下がる。それ以外の兵は、前段、中段、後衛の三組に分かれていた。装備は通常編成。荷車はなし。馬は三頭。


出発の時、リィナは机の左端から動かなかった。ノアもリィナの脇から動かなかった。ジャサントは振り返らなかった。振り返らないことも、欄の上では同じだった。


馬の蹄の音が裏門を抜けるまで、煮炊き場の女が一度だけ、リィナとノアの方を見た。

リィナはノアの方を見ていなかった。

ノアもリィナの方を見ていなかった。

だが、二人とも、机の左端から動かなかった。


王都街道は、午前のうちに視界の良い平地に出た。


風は弱い。地面は固い。林縁は街道の北側に長く続いている。先頭群の出現が予想される位置は、その林縁の三本目の木のあたりだった。偵察の報告は、本日の早朝に届いていた。中型四、小型十前後、林縁から扇状に展開、進路は北東。


ガルドが地図の上に印を加えた。


「先頭群、林縁を抜けて来る」


ジャサントが言う。


「数を」


「中型四、小型十前後」


「了解しました」


「前段、ガルド。後段、私」


「指示は俺だ」


「了解です」


ガルドは前段の兵に手で指示を出した。中段は左、後衛は右、ジャサントは中央の少し後ろ。馬は街道の脇に下げる。徒歩での迎撃に切り替えた。荷物は最小限だった。


待機の時間は短かった。


林縁の三本目の木のあたりで、葉が動いた。一度。二度。三度。乾いた葉の擦れる速さから、中型一、小型二、と判断できた。先頭群の散発分だった。


「来るぞ」


ガルドが言う。


剣はすでに抜いていた。


ジャサントは抜かなかった。後段は、前段が動いてから動く。彼女はガルドの背の動きを見ていた。脇腹のあたりではなく、肩甲骨の位置だった。振りの軌道が出るのは、肩からだった。


最初の中型が、林縁から飛んだ。


ガルドが踏み込んだ。


剣が斜め下から斜め上へ振り上げられる。深い角度。中型の腹から胸への入り方。一撃で深く入った。剣は深く入った分、戻りが遅れる。中型は崩れる方向を変えなかった。崩れる前に、ガルドは二撃目を入れた。喉に真っ直ぐ。今度は浅い。一撃目の戻りの遅れを、二撃目の浅さで補った形だった。


中型は鳴かずに崩れた。


「一」


ガルドが数える。


ジャサントは抜剣した。


小型二が、ガルドの左側を抜けようとしていた。彼女は剣を抜いた瞬間、踏み込みを半歩、左へ取った。剣の戻りだけで、最初の小型の頭を断つ。戻りの動作のまま、二体目の喉に剣の先を当てる。突きに近い角度。骨の浅い位置で抜けた。


「二と三」


ジャサントが言わなかった。

数えるのはガルドの仕事だった。


「三」


ガルドが続けて数えた。彼女の処理を、見ずに数えていた。


第二陣が、林縁の四本目の木のあたりから出た。


中型一、小型三。


ガルドが踏み込む。

中型の正面、距離五歩。

彼の振りは、また斜め下から斜め上だった。

今度は、振り抜きが深すぎた。


剣が中型の腹を斬り、胸を抜けてから、戻ってこなかった。剣の重みが、ガルドの腕の戻りより遅れた。脇腹の位置に、戻りの動作の遅れがそのまま負荷として乗った。彼の右肩が、半拍だけ下がった。


中型は崩れていた。

だが、二体目の中型は、まだ崩れていなかった。


二体目の中型が、ガルドの戻りの遅れている剣の側から、跳んだ。


ジャサントは動いていた。


ガルドの振りが深すぎた瞬間、彼女はもう斜め後ろから踏み込んでいた。剣の先を、ガルドの戻りの遅れている剣の軌道に重ねる。ガルドの剣の戻りに、彼女の剣の戻りを合わせる。ガルドの剣が引かれるのと同じ速さで、彼女の剣が前に出る。


二体目の中型の喉に、彼女の剣が真っ直ぐ通った。


骨の浅い位置で抜ける。

振り抜きではない。

戻りの動作だった。

ガルドの戻りを引き出すための、外側からの剣だった。


中型は、跳躍の途中で軌道を失い、地面に落ちた。


ガルドの剣が戻った。


「四」


ガルドが数える。声に、半拍の間があった。


ジャサントは数えなかった。

彼女の足は、最初の踏み込みから半歩しか動いていなかった。


小型の処理は、前段と中段の兵が行った。


中型四のうち二、小型十のうち四、ここまでで処理。

残り、中型二、小型六。


ガルドの脇腹は、まだ裂けていなかった。だが、革帯の下の白い線は、振り抜きの深さに耐えるためにあった。彼の右肩は、半拍下がったまま、戻り切っていなかった。振り抜きの深さが、戻りより先に出ている。


「ガルド」


ジャサントが言う。


「分かってる」


「戻りを早めてください」


「分かってる」


「もう一度入りすぎると、脇腹が裂けます」


「分かってる」


ガルドはそれだけ言った。剣の柄の位置を、深く握り直した。深く握る癖が、戻りの遅れの原因だった。だが、戦闘の途中では、握り方を変えるのは難しい。彼は深く握ったまま、次の踏み込みに入った。


第三陣が、林縁の五本目の木のあたりから出た。


中型一、小型三。


ガルドの第三撃は、中型一に対するものだった。


正面、距離六歩。


彼の振りは、また斜め下から斜め上だった。

今度は、振り抜きが、二度目より深かった。


剣が中型の胸まで入った。

入った位置で、戻ってこなかった。

ガルドの右肩が、また半拍下がった。今度は半拍では戻らなかった。

脇腹の位置に、戻りの遅れが二度ぶん重なって乗った。


革帯の下の白い線が、新しい色を持った。


赤だった。


ガルドの動きは止まらなかった。だが、剣を引く動作の途中で、彼の左手が脇腹を押さえた。剣を完全には戻しきれていなかった。剣の先は、中型の胸の中に半分残っていた。


ジャサントは動いていた。


ガルドの背後を取る。彼の左側、剣の戻りが遅れている方向の、外側。ガルドの剣の動きの軌道に、彼女の剣の動きを重ねないように、半歩ずらす。それから、中型の喉に、剣の先を真っ直ぐ通す。


突きに近い角度。

骨の浅い位置で抜ける。

ガルドの剣の戻りより先に、彼女の剣の戻りが終わる。

中型は崩れた。


ガルドの剣が、ようやく中型の胸から抜けた。


「五」


ガルドが数える。声は、もう半拍ではなく、一拍の間があった。


残りの小型は、前段と中段の兵が処理した。


最後の中型一は、後衛の兵が槍で止め、ジャサントが剣で喉を断った。前段に戻る動作の途中だった。剣の戻りは、いつも通りの速さだった。


戦闘終了。

中型四、小型十、すべて死亡確認。

損耗、軽傷三、ガルドの脇腹再裂傷一。

死亡、なし。


ジャサントは剣を布で拭いた。拭くまでの動作は、振るまでの動作と同じ拍だった。革鎧の右袖に、血の跳ねが二筋ついていた。中型の喉から跳ねた一筋と、二体目の中型の喉から跳ねた一筋。革帯にも一筋。洗浄が必要。帰還後の処理欄に入る項目だった。


ガルドは、街道脇の岩に座っていた。


左手は脇腹を押さえている。革帯の下の包帯から、新しい血が滲んでいた。深くはない。だが、再裂傷であることは、革帯を緩めなくても分かった。


「ジャサント」


ガルドが言う。


「はい」


「お前、二回も入ったな」


「補正です」


「補正、って」


「戻りの遅れを、外側から短くしました」


「外側、って」


「ガルドの剣の動作の、軌道の外。重ならない位置」


「重ならない、ね」


「重なると、ガルドの戻りがさらに遅れます」


ガルドは少しだけ間を置いた。

脇腹を押さえる左手の指が、革帯の下の白い線の位置を、もう一度確かめた。


「俺の振りの深さ、戻ってないな」


「はい」


「分かってたのか」


「朝、剣の柄の位置を確認しました」


「外側に置いてた」


「はい」


「それで、戻ってないと判断したのか」


「振り抜きの深さは、握り方で決まります」


「深く握れば、深く入る」


「はい」


「外側に置けば、戻りは早い」


「はい」


「俺は、深く握ることができていなかったってことか」


「はい」


ガルドはそれ以上は言わなかった。

脇腹を押さえる左手を、ゆっくり外した。革帯の下の包帯を、指で軽く押し直す。新しい血の滲みは、まだ広がっていなかった。だが、止まってもいなかった。


彼は剣の柄の位置を、自分で直した。


外側に。

深く握り込まない位置に。

朝、ジャサントが見て、書かなかった位置だった。


帰還の途中、ガルドは何度か脇腹に手をやった。


剣は鞘に戻されていた。鉈の柄の位置は、戦闘前と同じ真横のままだった。だが、剣の柄の位置だけが、外側に変わっていた。彼は歩きながら、その位置を二度、確かめた。


ジャサントは馬の手綱を引いていた。馬には、軽傷の兵を一人乗せていた。ガルドは歩いていた。脇腹のためだった。揺れの少ない移動が必要な咬傷者ではないが、再裂傷者の規定でもあった。


「ジャサント」


ガルドが言う。


「はい」


「お前、後段に下がるって言ったよな」


「はい」


「下がってなかったぞ」


「補正のたびに踏み込みました」


「足は、最初の踏み込みからほとんど動いてなかったな」


「半歩、二回」


「合計、一歩か」


「はい」


ガルドは少しだけ笑いかけて、笑い切らなかった。

笑える内容ではなかった。

だが、笑いかけたのは、戦闘の中で初めての動作だった。


砦が見えた頃、空はまだ昼の色だった。


東門で、ジャサントは止まった。ガルドの脇腹の処置が先だった。エルヴァが隔離棟の前で待っていた。ガルドの革帯を緩め、包帯を外す。新しい血の滲みは、止まりきっていなかったが、深くもなかった。


「ガルドさん、縫合二度目です」


「分かってる」


「振り抜きが深かったのですね」


「分かってる」


「明日からの軽務は、控えます」


「分かった」


「機動予備の指揮も、当分は外れます」


「……了解」


ガルドは、それだけ言った。怒鳴らなかった。エルヴァの言葉を、最後まで聞いた。脇腹を縫合される間、彼は岩のような姿勢で座っていた。動かなかった。


中庭の長机の左端には、リィナとノアが立っていた。


朝、見送った位置と同じだった。煮炊き場の女が、二人の脇に立っていた。ノアはリィナの脇から少しも離れていなかった。歩いた跡は、煮炊き場の脇までと、机の左端までの、二つだけだった。


エルヴァが、ガルドの処置を終えてから、机の左端まで来た。


「リィナさん、ノアさんはいかがでしたか」


「煮炊き場で、待ってた」


リィナが答える。


「泣きましたか」


「ううん」


「ずっと?」


「ずっと」


エルヴァは煮炊き場の女の方を見た。


「リィナさんの隣で、泣きませんでした」


煮炊き場の女が言う。


「何時間ですか」


「半日、ずっと」


「分かりました」


エルヴァはうなずいた。それから、記録帳の脇のジャサントの方へ歩いた。


「ジャサント」


「はい」


「所見を一つ、欄に上げてもよろしいですか」


「内容を」


「あの子は、リィナさんの隣にいると、泣きません」


ジャサントは少しだけ間を置いた。


「観察記録欄ですか」


「はい」


「書きます」


「お願いします」


エルヴァはそれだけ言って、隔離棟の方へ戻った。診断ではない。所見だった。書ける欄に、書く文言が増えた。それだけだった。


リィナはノアの脇から、少しだけ離れた。机の左端の角まで歩いて、ジャサントの方を見た。


「ねえ」


「何ですか」


「ガルドは」


「脇腹、再縫合」


「いたい?」


「処置済みです」


「ふらないで、っていわれたの?」


ジャサントは少しだけ間を置いた。


「振り抜きを控える、という意味です」


「ガルドにも?」


「はい」


「うん」


リィナはうなずいた。それから、机の左端のノアの方を見た。ノアはリィナの方を見ていなかった。机の左端のノアの札の方を見ていた。リィナはその札と、ノアの位置を、一度ずつ目で確かめた。


「ふらないでも、いい?」


「規定の範囲で」


「のこる?」


「ガルドの欄は、続きます」


「ノアの欄は」


「保護対象欄、机左端、据え置き」


「リィナの欄は」


「現状維持、保存登録継続、立ち会い欄、規定外追記済み」


「みんな、のこる?」


「保存期間内であれば」


リィナはうなずいた。

うなずいてから、ノアの脇に戻った。

ノアはリィナが戻ったのを、見ていなかった。だが、リィナが戻ったあと、ノアの足は、リィナの脇から半歩、内側に動いた。リィナの脇に、より近い位置だった。


煮炊き場の女が、それを見て、何も言わなかった。

書く欄ではなかった。


ジャサントは記録室へ戻った。


机の上に、新しい欄を書き加える。


王都街道、機動予備出動、本日。

担当指揮、ガルド、軽務復帰初日。

補助、ジャサント、後段。

兵三、軽傷三。

中型四、小型十、すべて死亡確認。

ジャサント、補正動作、二回。位置、ガルドの剣の戻りの遅れの外側。半歩、二回。

ガルド、振り抜き、深度過大、二回。

ガルド、脇腹、再裂傷、エルヴァにて再縫合済み。

処置、再縫合二度目。

損耗総数、軽傷三、再裂傷一、死亡なし。

立ち会い欄、リィナ、煮炊き場で待機、規定通り。

ノア、隔離棟経過観察解除後初日、煮炊き場で預かり、泣くこと、なし。

監督、煮炊き場の女、補助、リィナ。


その下に、もう一行。


エルヴァ所見、本日付。

あの子は、リィナさんの隣にいると、泣きません。

観察記録欄、追記。


書きながら、彼女は炭を一度、止めた。


書く欄ではあった。

書ける欄でもあった。

だが、書かれた内容が、規定の観察記録欄とは違う形をしていた。煮炊き場の女と、エルヴァと、二人の証言が重なった所見だった。所見は普通、医師一人で記す。今日の所見は、二人の名前が脇に書かれていた。


彼女は炭を再び動かし、最後の一行を加えた。


観察記録、追記、所見二者連名。

処理、現状維持、要継続観察。


砂を振る。

頁を乾かす。

閉じない。


ガルドは、装備棚の前まで歩いて戻ってきた。脇腹は処置済み、革帯の下の包帯は新しいものに替わっている。剣の柄の位置は、外側のままだった。彼は剣を棚に戻し、補助札を一度確認してから、振り返った。


「ジャサント」


「はい」


「補正、って書いたか」


「補正動作、二回、と書きました」


「俺の振り抜き、深度過大、と」


「事実です」


「うん」


「明日からは」


「軽務、機動予備の指揮も外れる」


「了解しました」


「お前」


ガルドは少しだけ間を置いた。


「半歩、二回」


「はい」


「足は、ほとんど動いてなかった」


「はい」


「俺は、剣を二回、深く入れた」


「はい」


「お前は、剣を二回、外から入れた」


「外側からです」


「重ならない位置に」


「はい」


「俺の戻りを、引き出すために」


「はい」


ガルドは、棚の上の補助札を、もう一度だけ整えた。指の位置は、外側のままだった。深く握り込まない位置に。


「次の戦闘で、お前の補正なしで届くかどうか、確かめる」


「了解しました」


「振り抜きを控える、ってのは、控えるんじゃない」


「はい」


「戻りを早める、って意味だ」


「はい」


「分かった」


ガルドはそれだけ言って、装備棚から離れた。怒鳴らなかった。今日も怒鳴らなかった。

彼の指の位置は、剣を棚に戻したあとも、外側のままだった。


夕刻、リィナとノアは机の左端に並んでいた。


リィナはノアの脇から、もう離れなかった。ノアはリィナの方を見ていなかった。だが、リィナが動くと、ノアも動いた。半歩。リィナが立ち位置を直すと、ノアも立ち位置を直す。同じ拍だった。


煮炊き場の女が、夕方の配給の準備のために棚を整える。リィナは、ノアの手を引かなかった。手を伸ばさなかった。ただ、机の左端の角の位置に、ノアの立ちやすい高さで、ノアの札の位置を整え直した。


その動作を、ジャサントは見ていた。

書く欄ではなかった。

だが、見たことは、見ない欄ではなかった。


夜が近づくと、中庭の声は少しずつ下がった。


煮炊き場の鉄鍋は片付けられた。配給帳の不足欄は閉じている。未配給繰り越し欄は、本日付ではなかった。リュドは隔離棟で、感染兆候のないまま夜を迎える。ノアは煮炊き場の女に再び預けられ、夜は煮炊き場の脇の小屋で眠ることになった。


「リィナさん、お疲れ様でした」


煮炊き場の女が言う。


「うん」


「明日も、お願いしてもよろしいですか」


「うん」


「ノアさん、リィナさんがいると、安心するみたいで」


「うん」


リィナはそれだけ言った。

胸の内側に手をやる動作はしなかった。

だが、ノアが煮炊き場の女に手を引かれていく時、リィナは机の左端の角に置かれたノアの札の位置を、もう一度だけ整え直した。


「リィナ」


ジャサントが言う。


「うん」


「東列の縄をくぐってください」


「あした、ここにいる」


「明日です」


「うん」


「今は戻ってください」


「うん」


リィナは机の左端から、半歩、離れた。半歩だけだった。それから、もう半歩、離れた。二歩で、机から離れた。振り返らなかった。胸の内側を押さえなかった。東列の縄の前で、一度だけ立ち止まり、首を振らずに中へ入った。


ジャサントは記録室の灯りを点けた。


明朝の業務予定を書く。


リュド・カイン、隔離棟経過観察、感染兆候なし、明朝再判断。

ガルド、軽務、機動予備指揮、当分外す。脇腹再縫合、経過観察。

ノア、保護対象欄、机左端、据え置き、煮炊き場仮預け継続。

リィナ、現状維持、立ち会い欄、規定外追記、煮炊き場補助。

種別未確認個体、本日確認なし、要注視継続。

北側外壁、隙間一、本日補修班により補修完了。

配給、半量継続。

担当者、ジャサント、変更なし。


その下に、もう一行。


観察記録、追記、所見二者連名。

あの子は、リィナさんの隣にいると、泣きません。

処理、現状維持、要継続観察。


砂を振る。

頁を乾かす。

閉じる。


机の上の帳面は、すべて閉じられた。


机の中央のベルハイムの束は、薄くなったままだった。

机の左端のノアの札は、束に入らないまま朝を待った。

机の右端のリュド・カインの欄は、夜間継続のままだった。

そして、新しい観察記録欄が、戦闘記録の頁の隣に立っていた。


書かれた欄だった。

書ける欄だった。

書かれない欄も、その隣に、半歩の距離で開きかけていた。


書かれない欄は、机の左端のノアの札の隣に、リィナがどう立つかという位置だった。今日、ノアはリィナの方を見なかった。だが、リィナが動くと、ノアも動いた。同じ拍で動いた。書く欄ではなかった。


ジャサントは、その動きを欄に書かなかった。

書かなかったが、見たことは、見ない欄ではなかった。


火床の方角で、煮炊き場の女が、夜の片付けの最後の桶を運んでいた。

廃棄欄の桶ではない。明朝の準備のための、空の桶だった。

名前のない欄は、もう昨日のうちに閉じている。

名前のある欄は、明朝も書き続ける。


外壁の通路は、本日のうちに隙間が塞がれた。

種別未確認の個体は、本日も確認されなかった。

だが、北東方角の欄は、まだ閉じていなかった。


ガルドは装備棚の前で、剣の柄の位置を最後にもう一度だけ確認してから、自分の天幕へ戻った。

リュドは隔離棟で眠っていた。

ノアは煮炊き場の脇の小屋で、煮炊き場の女の毛布の中に入った。

リィナは東列の縄の中で、眠ったか、眠っていないかは、書く欄ではなかった。

ジャサントは記録室の灯りを消した。


戦闘記録は閉じない。

観察記録は閉じない。

保存期間内は、書かれた名前は残る。

書かれなかった半歩の距離も、消えていなかった。


ノアが、リィナの隣で泣かない、という所見が、本日付で欄に立った。

書く欄ではあった。

書ける欄でもあった。

だが、その所見の隣に、まだ書かれない欄が、もう一つ、半歩の距離で開きかけていた。

ご拝読ありがとうございました。

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