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戦姫メイド  作者:
ひび割れ
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15/19

第15話 隣の欄

朝の鐘が一度、それきり鳴らなかった。


ジャサントは記録室の机の前に立っていた。机の上の帳面は、昨夜のまま閉じられている。配給帳、避難民登録、周辺集落記録帳。机の右端には、新しく立った欄が一つ。リュド・カイン、隔離棟経過観察、夜間継続、再判断予定。机の左端には、束に入らないままのノアの札が残っていた。


外はまだ薄い。

煮炊き場の煙はいつもより細い。

鐘が二度目を鳴らさないのは、配給用の油が減ったままだからだった。


ジャサントは椅子を引かなかった。立ったまま、新しい頁を開く。前夜書いた欄を読み直し、本日付の修正を整える。種別未確認、観察動作あり、要注視継続。氏名欄、なし。種別欄、未確認。最終消失方向、北東。文字は乾ききっていた。炭は新しいものに替えてある。


エルヴァは隔離棟の前で、桶を傾けていた。湯気はもう薄い。


「ジャサント」


「はい」


「リュドは、感染兆候現時点でなし。経過観察、継続します」


「水分摂取は」


「継続中。咬傷部の腫れはありません」


「歩行は」


「室内のみ可。屋外への移動は明朝再判断です」


「ノアは」


「経過観察、解除可です。発熱なし、咬傷なし、感染兆候なし」


「再配置先は」


「未定のまま」


「保護対象欄に据え置きます」


「分かりました」


エルヴァは桶を脇へ寄せた。


「机の左端のままですね」


「はい」


「あの位置は、束に入らない欄です」


「分かっています」


「あの子は、その隣に立つでしょう」


「立つことは、欄に入ることではありません」


「規定上は、そうです」


エルヴァはそれ以上は言わなかった。診断ではない。確認だった。

ジャサントは記録帳を閉じ、ノアの札の位置を、机の左端で半分だけ動かした。動かしたあと、リィナが朝に立つ位置を、少しだけ広げた。立ちやすい高さに札の角を揃える。書く欄ではなかった。


リィナは中庭の長机の左端に来ていた。


朝の配給前で、人の流れはまだ細い。札は服の内側にしまわれている。紐すら見えない。彼女はノアの札の隣に立ち、机の角を見た。札の角が朝より少しだけずれていることに気づいた顔だった。だが、何も言わなかった。


「ノアは」


リィナが言う。


「経過観察、解除」


「ここに、もどる?」


「保護対象欄、据え置き」


「机のはし」


「はい」


「ずっと?」


「再配置決定まで」


「きまらないと」


「動かない」


リィナはうなずいた。胸の内側に手をやる動作はしなかった。札の角を見ているだけだった。


ジャサントは記録室へ戻る前に、もう一度立ち止まった。


「ここは妨げにならない範囲で」


「うん」


「夜は宿泊区画です」


「うん」


「東列の縄をくぐってください」


「うん」


リィナはそれだけ言った。

彼女の「うん」は、答えではなく、聞いた、という確認の音だった。


午前の半ば、ガルドが装備棚の前を通った。


脇腹の包帯はもう外されていた。革帯の下に、白い線だけが残っている。歩行は問題ない。剣は持てる。振りはまだ控える方がよい、という診断のままだった。


「ジャサント」


「はい」


「俺、明日から軽務復帰だ」


「機動予備の方ですか」


「ああ」


「補助欄を更新します」


「うん」


「振り抜きは」


「まだ控える」


「了解しました」


ガルドはそれ以上言わなかった。怒鳴らない日だった。彼の怒鳴り方は、振り抜きが控えられている時にだけ、止まる。剣の柄に置かれた指の位置は、いつもより少し外側だった。深く握り込まない位置に変わっていた。


「あの子は」


ガルドが机の左端を見て言う。


「ここにいます」


「ノアの札の隣か」


「はい」


「あの位置、誰が決めたんだ」


ジャサントは少しだけ間を置いた。


「立つ位置は、本人が決めています」


「欄は」


「机の左端、束に入らない欄」


「俺の補助欄も、似たようなものだったな」


「保留扱いの時、二つの欄に名前が残りました」


「閉じる時は、片方が閉じる」


「規定上は」


「あの子は、両方とも閉じない側か」


ジャサントは答えなかった。

ガルドはそれ以上は問わなかった。

装備棚に手をかけ、明朝の機動予備の補助札を確認してから、その場を離れた。


午後、見回り班の交代が記録室に来た。


北側外壁、東側外壁、南側外壁、それぞれの引き継ぎが行われる。本日の見回り回数は、補修班転用の影響で、北側のみ通常より一回少ない。引き継ぎの欄には、その不足が書かれていた。


ジャサントは欄を開いて確認した。


北側外壁、見回り回数、本日三回。通常四回。

理由、補修班転用、東門前防衛強化のため。

補完、夜間巡回時に北側通路を一回追加。

担当、夜間巡回兼任。


夜間巡回は、彼女自身の業務に組まれていた。記録室と中庭、隔離棟の外、東門の灯り、それから北側外壁の通路。書ける範囲だけを巡る。書けない異常があれば、書く欄を立てる。手順は変わらない。


「ジャサント殿」


見回り兵の一人が言う。


「はい」


「北側外壁、夕刻の点検時に、土が削れている箇所がありました」


「位置を」


「北側、外壁の中ほど。地面の高さで、長さ二歩ほど」


「何が削ったか、判別できますか」


「分かりません」


「爪の痕跡は」


「浅い線が三本、あります」


「動物の通路ではありませんか」


「林との距離が遠すぎます。鼠や狸の動線ではない」


「中型ですか」


「中型なら、もう少し深い線が残ります」


「では」


「判別できません」


ジャサントは欄を立てた。


北側外壁、地面、削れ痕、長さ二歩。

浅い線、三本。

種別、判別不能。

処理、明朝、補修班に再点検要請。

夜間巡回時、要観察。


書きながら、彼女は前夜の欄を一度だけ目に入れた。種別未確認、観察動作あり、北東方角消失。位置は林の中だった。北側外壁の方角と、北東は、近くはあるが、同じ位置ではない。だが、近い。書ける欄ではないが、近い。


「ありがとうございました」


「は、はい」


見回り兵は記録室を出た。

ジャサントは欄を閉じなかった。閉じる前に、夜間巡回がある。


夜が降りる頃、中庭の声は静まった。


煮炊き場の鉄鍋は片付けられた。配給帳の不足欄は閉じている。未配給繰り越しの欄は、本日付ではなかった。リュドの隔離棟は灯りが点いている。ノアは煮炊き場の女に預けられたまま、机の左端のノアの札は、今日も束に入らないまま残っていた。


リィナは、東列の縄をくぐった後、しばらく出てこなかった。

だが、夜の半ば、ジャサントが記録室を出た時、彼女は中庭の長机の左端にいた。


規定外の時間だった。


「ここは夜間の宿泊区画ではありません」


ジャサントが言う。


「うん」


「東列の縄の中に戻ってください」


「あした、ここにいる」


「今は夜です」


「うん」


「戻ってください」


リィナは少しだけ黙った。

それから、机の左端のノアの札を見た。札の角は、朝、ジャサントが揃えた位置のままだった。リィナは指を伸ばしかけ、止めた。触れなかった。指は札の上の空気の高さで止まり、そのまま下りた。


「夜も、のこる?」


「保護対象欄、据え置き」


「あした、わたしも、ここ?」


「妨げにならない範囲で」


「うん」


「今は戻ってください」


「うん」


リィナはうなずいた。だが、すぐには動かなかった。


その時、北側外壁の方角で、低い音がした。


最初は、土の音だった。


外壁の地面が削れる音だった。夕刻に見回り兵が指摘した位置、長さ二歩の削れ痕の、その場所から。線が三本、また増えている、という種類の音だった。


ジャサントは振り向かなかった。

振り向く前に、音の数を数えていた。

一つ。二つには増えなかった。

種別、不明。位置、北側外壁中ほど。距離、十数歩。


「リィナ」


「うん」


「動かないでください」


「うん」


ジャサントは剣の柄を確認した。鉈の柄も確認した。両方の位置は変わっていない。彼女は中庭の長机の左端から、北側外壁通路の方角へ、足音を立てずに進んだ。リィナは机の左端で動かなかった。


通路の入口で、彼女は止まった。


通路の中は灯りが少ない。中ほどに灯り台が一つ、その先は暗い。地面の音は止まっていた。だが、止まったというより、土の上から、石の上に乗ったという音の変わり方だった。中で、何かが立ち止まっている。


ジャサントは半歩、内へ入った。


通路の壁の影に、低い気配があった。

中型。

口先が裂け、脚が長い。崖道で見た種と同じ。だが個体は違う。背の高さが、外周で見た中型より一段低かった。先日の家屋の中で見た中型に近い。


距離、八歩。


剣を抜いた。


抜く動作と、踏み込む動作は同じ拍だった。彼女は通路の壁の影に半歩入り、灯り台の脇を抜けた。中型は彼女の方を見た。見たというより、気配を捉えて顔を向けた。だが、向ける動作の途中で、跳んだ。


跳躍は、低かった。


通路の天井が低い。中型は上に跳べない。横に跳んだ。彼女の右側を抜けようとする角度。剣が間に合うかどうか、距離で判断した。間に合う。


剣は突き出しに近い角度で出た。

振り抜きではない。

跳躍の途中、喉の浅い位置に、刃の先が真っ直ぐ通った。

骨の浅い位置だった。

一撃で抜ける。


中型は跳躍の軌道を保てなかった。

横に跳んだまま、軌道が下がった。

落ちる前に、彼女は剣を引いた。

引く動作のまま、左足だけを半歩、後ろに引く。

落ちた個体の頭が、彼女の足元から半歩外の位置に来た。


第二撃。


剣の戻りで、首を断った。

振り抜きではなかった。

戻りの動作だけで、剣の重みが首を通った。

個体は鳴かずに崩れた。


二撃。

彼女の足は、最初の踏み込みから半歩しか動いていなかった。

呼吸は変わらなかった。


その時、通路の入口の方で、布の擦れる音がした。


ジャサントは振り向かなかった。

振り向く前に、誰かを把握していた。

リィナ。

位置、入口、外壁の影。

動いていた。

机の左端から、ここまで歩いてきていた。


剣の戻りはまだ終わっていなかった。

彼女は剣を中段に戻したまま、左手だけを背後へ伸ばした。

左手の指の腹が、リィナの肩の高さに当たる。

押す距離は、半歩。

それ以上は押さなかった。

リィナの足は、半歩、後ろへ下がった。


「動かないで」


ジャサントが言う。


声は変わらなかった。

リィナの返事はなかった。

返事の代わりに、息を吸う音だけがした。


通路の奥の気配は、もう一つもなかった。

中型は崩れたまま、動かない。

骨の鳴る音も、布の裂ける音もない。

彼女は剣を一度、布で拭いた。

拭くまでの動作は、振るまでの動作と同じ拍だった。


警報が鳴ったのは、戦闘が終わったあとだった。


夜間巡回の別の兵が、北側外壁の入口で気配の残りに気づいた。中型の死骸を発見し、警報を鳴らす。鐘の音が二度。三度目は鳴らない。事後発令の鐘だった。砦の中の灯りが、いくつか点き直す。中庭の方で、声がいくつか起きた。


ジャサントは剣を鞘に戻した。鉈は抜いていなかった。鉈の柄の位置を確認してから、振り返った。


リィナは、外壁の影に立っていた。


半歩、後ろへ下がった位置のまま、動いていなかった。彼女の両手は胸の前にあった。胸の内側、彼女の札と三つの半分の乾パンの位置だった。押さえていた。だが、強くはなかった。確かめる動作だった。


「リィナ」


「うん」


「怪我は」


「ない」


「動けますか」


「うん」


「中庭まで戻ります」


「うん」


ジャサントはリィナの肩を、もう一度だけ軽く押した。今度は前へ。半歩、通路の入口の外へ。リィナは前へ歩いた。彼女の足音は、通路の中の戦闘の前と、ほぼ同じ速さだった。乱れていなかった。


通路の入口を出る時、リィナは一度だけ、ジャサントの方を見た。

見たというより、ジャサントの右袖を見た。

革鎧の右袖に、血が一筋ついていた。

中型の喉から跳ねた一筋だった。


「ち、ついてる」


リィナが言う。


ジャサントは右袖を見た。


「洗浄欄に入ります」


「いま?」


「処理後に」


「うん」


リィナはそれだけ言った。

それから、机の左端の方へ、自分の足で歩き出した。

押さなくても歩いた。

ノアの札の隣に戻り、また立った。


エルヴァが隔離棟の方から走ってきた。


「ジャサント」


「はい」


「警報、北側外壁ですね」


「はい」


「死骸の確認は」


「中型一、死亡確認、即時処理」


「損耗は」


「なし」


「位置は」


「外壁通路、中ほど」


「ほかには」


「現時点でなし」


「リィナさんは」


「通路入口、外壁の影、後方へ移動済み」


エルヴァは少しだけ間を置いた。


「あの子は、そこに、いたのですか」


「はい」


「規定外の位置です」


「分かっています」


「戦闘の最中ですか」


「はい」


「処理は」


「片手で背後へ押しました」


「半歩ですか?」


「はい」


エルヴァは、机の左端のリィナを見た。リィナはノアの札の隣に立っていた。動いていなかった。胸の内側を押さえる動作も、もう止まっていた。


「あの子の位置は、欄に書きますか」


エルヴァが問う。


「立ち会い、リィナ、規定外の位置に存在、後方へ移動済み」


「そう書くのですね」


「はい」


「分かりました」


エルヴァはそれ以上は言わなかった。

診断ではない。観察だった。だが今夜の観察は、ジャサントの欄に直接入った。


別の見回り兵が、外壁の隙間を確認した。


「外壁、隙間一」


兵が言う。


「位置は」


「中ほど、地面から胸の高さまで」


「補修要請を」


「明朝、補修班」


「夜間補修は」


「不要、隙間は塞ぐより、見張りで対応」


「了解」


兵は欄に上げる札を一枚作って、装備棚の方へ運んでいった。中型の死骸も、回収用の布にくるまれて運び出された。通路の中は、灯り台の油が一度補充され、灯りの明るさが戻った。


ジャサントは記録室へ戻った。


机の上に、新しい欄を書き加える。


夜半、北側外壁、侵入個体一、中型、死亡確認、即時処理。

処理時間、二撃。

処理者、ジャサント。

発見者、ジャサント。

警報、未発令、事後発令。

損耗、なし。

立ち会い、リィナ、規定外の位置に存在、後方へ移動済み。

洗浄、革鎧右袖、剣、本日付。

外壁、隙間一、補修要請、明朝、補修班。

種別未確認個体、本日確認なし、要注視継続。


書きながら、彼女は炭を一度、止めた。


「立ち会い」と書く欄は、本来、補助兵の欄だった。クラ・タスのような、護衛として派遣された兵が立つ欄だった。今夜、その欄に、規定外の位置に存在、と書き足す形でリィナの名が入った。


書く欄ではあった。

書ける欄でもあった。

だが、書かれた内容が、規定の補助欄とは違う形をしていた。


彼女は炭を再び動かし、最後の一行を加えた。


立ち会い欄、規定外の追記。

処理、現状維持。

明朝、エルヴァに確認、必要があれば再評価。


砂を振る。

頁を乾かす。

閉じない。


リィナは机の左端で立っていた。


ノアの札の隣だった。動いていなかった。だが、今夜は座らなかった。立ったままだった。胸の内側を押さえる動作は、もう止まっていた。両手は脇に下ろされている。彼女は札を見ていた。札の角と、その隣の空間を見ていた。


「リィナ」


ジャサントが言う。


「うん」


「東列の縄をくぐってください」


「あした、ここにいる」


「明日です」


「うん」


「今は戻ってください」


「うん」


リィナはうなずいた。だが、立ち上がる動作の代わりに、もう一つだけ問いを出した。


「これ、のこる?」


ジャサントは少しだけ間を置いた。

リィナの問いは、机の中央のベルハイムの束ではなかった。札ではなかった。彼女が指で軽く示したのは、ジャサントの帳面の、新しく書かれた欄の側だった。戦闘記録の側だった。


「戦闘記録は閉じません」


「ずっと?」


「保存期間内であれば」


「のこるんだね」


「はい」


「わたしのことも」


「立ち会い欄に、書きました」


「なまえ?」


「リィナ、と書いてあります」


「ずっと?」


「保存期間内であれば」


リィナはうなずいた。

ノアの札の隣で、もう一度だけ、自分の胸の内側を軽く押さえた。それから、東列の方へ歩き出した。途中で一度、振り返った。


「あした」


「妨げにならない範囲で」


「うん」


リィナは東列の縄をくぐった。

くぐる前に、もう一度だけ振り返った。視線は机の左端のノアの札ではなかった。記録室の方だった。記録室の机の上、戦闘記録の欄が閉じていない方を見ていた。彼女がうなずいたのは、その欄に向けてだった。


それから、東列の中へ入った。


ジャサントは机の左端のノアの札の位置を、もう一度確かめた。

朝、揃えた位置のままだった。動いていなかった。


机の中央のベルハイムの束は、薄くなったままだった。

机の右端のリュド・カインの欄は、夜間継続のままだった。

机の左端のノアの札は、束に入らないまま、本日も残った。

新しく加わったのは、立ち会い欄だった。


立ち会い、リィナ、規定外の位置に存在、後方へ移動済み。

処理、現状維持。


書ける欄ではあった。

書かれた欄でもあった。

だが、書く欄の隣に、書かれない欄が一つ、新しく開きかけていた。


書かれない欄とは、リィナが立っていた位置のことだった。

机の左端でもなく、外壁通路の入口でもなく、その間の、半歩の距離のことだった。

規定上、欄が立たない位置だった。

だが、彼女の足音が往復した位置だった。


ジャサントはそこに、欄を立てなかった。

立てなかったが、書く動作はもう一度した。


立ち会い欄、補足。

規定外の位置、半歩、確認済み。


書いてから、彼女は炭を置いた。


夜が深くなる頃、エルヴァが最後にもう一度、記録室の前を通った。


「ジャサント」


「はい」


「立ち会い欄、書きましたか」


「はい」


「規定外の追記も」


「はい」


「明朝、再評価しますか」


「現時点では現状維持です」


「分かりました」


「あの子の位置は」


エルヴァが言う。


「机の左端のままです」


「夜間は」


「東列の縄の中です」


「規定通りに」


「規定通りに、です」


エルヴァはうなずいた。


「ジャサント」


「はい」


「片手で背後に押す距離は、半歩でしたね」


「はい」


「半歩だけでしたか」


「はい」


「分かりました」


エルヴァはそれ以上は言わなかった。

診断ではない。確認だった。だが、半歩、という距離を二度問うたのは、彼女の中で、その距離が立ち会い欄ではない位置に書かれていたからだった。書かれていたが、書く欄ではなかった。


エルヴァは隔離棟の方へ戻った。

リュドはまだ眠っていた。ノアも眠っていた。中庭の灯りは少しずつ消えた。煮炊き場の鉄鍋は冷えていた。


ジャサントは灯りを消す前に、明朝の業務予定を書いた。


リュド・カイン、隔離棟経過観察、再判断予定。

ノア、保護対象欄、机左端、据え置き。

リィナ、現状維持、保存登録継続、立ち会い欄、規定外追記済み。

北側外壁、隙間一、補修班、明朝点検および補修。

夜間巡回、北側通路、追加一、本日と同様。

種別未確認個体、要注視継続、本日確認なし。

ガルド、軽務復帰、明朝より、機動予備。

配給、半量継続、補充見込みなし。

担当者、ジャサント、変更なし。


砂を振る。

頁を乾かす。

閉じる。


机の上の帳面は、すべて閉じられた。

だが、戦闘記録の頁だけは、表紙の上に少しだけ厚みを持っていた。書き加えた分の砂と、追記の余白の分だった。閉じられているが、すぐ開ける厚みだった。


机の左端のノアの札は、束に入らないまま朝を待った。

机の右端のリュドの欄は、夜間継続のまま朝を待った。

机の脇のリィナの保存登録欄は、本日も継続だった。

そして、新しい立ち会い欄が、戦闘記録の頁の中に、もう一つ立っていた。

書かれた欄だった。

書ける欄だった。

書かれない欄も、その隣に、半歩の距離で開きかけていた。


それぞれは別の欄だった。

だが、同じ机の上にあった。


火床の脇では、煮炊き場の女が、朝の準備のために棚を整えていた。

廃棄欄の桶は、昨日のうちに運び出されている。

名前のない欄は、もう閉じている。

名前のある欄は、明朝も書き続ける。


外壁の通路は、灯り台の油が補充された。

隙間は明朝、補修班が塞ぐ。

種別未確認の個体は、今夜は確認されなかった。

だが、北東方角の欄は、まだ閉じていなかった。


リィナは東列の縄の中で、眠ったか、眠っていないかは、書く欄ではなかった。

ノアは隔離棟で眠っていた。

リュドも眠っていた。

ガルドは装備棚の前で、明朝の補助札を一度確認してから、自分の天幕へ戻った。

ジャサントは記録室の灯りを消した。


戦闘の欄は閉じない。

立ち会い欄は閉じない。

保存期間内は、書かれた名前は残る。

書かれなかった半歩の距離も、消えていなかった。

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