第15話 隣の欄
朝の鐘が一度、それきり鳴らなかった。
ジャサントは記録室の机の前に立っていた。机の上の帳面は、昨夜のまま閉じられている。配給帳、避難民登録、周辺集落記録帳。机の右端には、新しく立った欄が一つ。リュド・カイン、隔離棟経過観察、夜間継続、再判断予定。机の左端には、束に入らないままのノアの札が残っていた。
外はまだ薄い。
煮炊き場の煙はいつもより細い。
鐘が二度目を鳴らさないのは、配給用の油が減ったままだからだった。
ジャサントは椅子を引かなかった。立ったまま、新しい頁を開く。前夜書いた欄を読み直し、本日付の修正を整える。種別未確認、観察動作あり、要注視継続。氏名欄、なし。種別欄、未確認。最終消失方向、北東。文字は乾ききっていた。炭は新しいものに替えてある。
エルヴァは隔離棟の前で、桶を傾けていた。湯気はもう薄い。
「ジャサント」
「はい」
「リュドは、感染兆候現時点でなし。経過観察、継続します」
「水分摂取は」
「継続中。咬傷部の腫れはありません」
「歩行は」
「室内のみ可。屋外への移動は明朝再判断です」
「ノアは」
「経過観察、解除可です。発熱なし、咬傷なし、感染兆候なし」
「再配置先は」
「未定のまま」
「保護対象欄に据え置きます」
「分かりました」
エルヴァは桶を脇へ寄せた。
「机の左端のままですね」
「はい」
「あの位置は、束に入らない欄です」
「分かっています」
「あの子は、その隣に立つでしょう」
「立つことは、欄に入ることではありません」
「規定上は、そうです」
エルヴァはそれ以上は言わなかった。診断ではない。確認だった。
ジャサントは記録帳を閉じ、ノアの札の位置を、机の左端で半分だけ動かした。動かしたあと、リィナが朝に立つ位置を、少しだけ広げた。立ちやすい高さに札の角を揃える。書く欄ではなかった。
リィナは中庭の長机の左端に来ていた。
朝の配給前で、人の流れはまだ細い。札は服の内側にしまわれている。紐すら見えない。彼女はノアの札の隣に立ち、机の角を見た。札の角が朝より少しだけずれていることに気づいた顔だった。だが、何も言わなかった。
「ノアは」
リィナが言う。
「経過観察、解除」
「ここに、もどる?」
「保護対象欄、据え置き」
「机のはし」
「はい」
「ずっと?」
「再配置決定まで」
「きまらないと」
「動かない」
リィナはうなずいた。胸の内側に手をやる動作はしなかった。札の角を見ているだけだった。
ジャサントは記録室へ戻る前に、もう一度立ち止まった。
「ここは妨げにならない範囲で」
「うん」
「夜は宿泊区画です」
「うん」
「東列の縄をくぐってください」
「うん」
リィナはそれだけ言った。
彼女の「うん」は、答えではなく、聞いた、という確認の音だった。
午前の半ば、ガルドが装備棚の前を通った。
脇腹の包帯はもう外されていた。革帯の下に、白い線だけが残っている。歩行は問題ない。剣は持てる。振りはまだ控える方がよい、という診断のままだった。
「ジャサント」
「はい」
「俺、明日から軽務復帰だ」
「機動予備の方ですか」
「ああ」
「補助欄を更新します」
「うん」
「振り抜きは」
「まだ控える」
「了解しました」
ガルドはそれ以上言わなかった。怒鳴らない日だった。彼の怒鳴り方は、振り抜きが控えられている時にだけ、止まる。剣の柄に置かれた指の位置は、いつもより少し外側だった。深く握り込まない位置に変わっていた。
「あの子は」
ガルドが机の左端を見て言う。
「ここにいます」
「ノアの札の隣か」
「はい」
「あの位置、誰が決めたんだ」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「立つ位置は、本人が決めています」
「欄は」
「机の左端、束に入らない欄」
「俺の補助欄も、似たようなものだったな」
「保留扱いの時、二つの欄に名前が残りました」
「閉じる時は、片方が閉じる」
「規定上は」
「あの子は、両方とも閉じない側か」
ジャサントは答えなかった。
ガルドはそれ以上は問わなかった。
装備棚に手をかけ、明朝の機動予備の補助札を確認してから、その場を離れた。
午後、見回り班の交代が記録室に来た。
北側外壁、東側外壁、南側外壁、それぞれの引き継ぎが行われる。本日の見回り回数は、補修班転用の影響で、北側のみ通常より一回少ない。引き継ぎの欄には、その不足が書かれていた。
ジャサントは欄を開いて確認した。
北側外壁、見回り回数、本日三回。通常四回。
理由、補修班転用、東門前防衛強化のため。
補完、夜間巡回時に北側通路を一回追加。
担当、夜間巡回兼任。
夜間巡回は、彼女自身の業務に組まれていた。記録室と中庭、隔離棟の外、東門の灯り、それから北側外壁の通路。書ける範囲だけを巡る。書けない異常があれば、書く欄を立てる。手順は変わらない。
「ジャサント殿」
見回り兵の一人が言う。
「はい」
「北側外壁、夕刻の点検時に、土が削れている箇所がありました」
「位置を」
「北側、外壁の中ほど。地面の高さで、長さ二歩ほど」
「何が削ったか、判別できますか」
「分かりません」
「爪の痕跡は」
「浅い線が三本、あります」
「動物の通路ではありませんか」
「林との距離が遠すぎます。鼠や狸の動線ではない」
「中型ですか」
「中型なら、もう少し深い線が残ります」
「では」
「判別できません」
ジャサントは欄を立てた。
北側外壁、地面、削れ痕、長さ二歩。
浅い線、三本。
種別、判別不能。
処理、明朝、補修班に再点検要請。
夜間巡回時、要観察。
書きながら、彼女は前夜の欄を一度だけ目に入れた。種別未確認、観察動作あり、北東方角消失。位置は林の中だった。北側外壁の方角と、北東は、近くはあるが、同じ位置ではない。だが、近い。書ける欄ではないが、近い。
「ありがとうございました」
「は、はい」
見回り兵は記録室を出た。
ジャサントは欄を閉じなかった。閉じる前に、夜間巡回がある。
夜が降りる頃、中庭の声は静まった。
煮炊き場の鉄鍋は片付けられた。配給帳の不足欄は閉じている。未配給繰り越しの欄は、本日付ではなかった。リュドの隔離棟は灯りが点いている。ノアは煮炊き場の女に預けられたまま、机の左端のノアの札は、今日も束に入らないまま残っていた。
リィナは、東列の縄をくぐった後、しばらく出てこなかった。
だが、夜の半ば、ジャサントが記録室を出た時、彼女は中庭の長机の左端にいた。
規定外の時間だった。
「ここは夜間の宿泊区画ではありません」
ジャサントが言う。
「うん」
「東列の縄の中に戻ってください」
「あした、ここにいる」
「今は夜です」
「うん」
「戻ってください」
リィナは少しだけ黙った。
それから、机の左端のノアの札を見た。札の角は、朝、ジャサントが揃えた位置のままだった。リィナは指を伸ばしかけ、止めた。触れなかった。指は札の上の空気の高さで止まり、そのまま下りた。
「夜も、のこる?」
「保護対象欄、据え置き」
「あした、わたしも、ここ?」
「妨げにならない範囲で」
「うん」
「今は戻ってください」
「うん」
リィナはうなずいた。だが、すぐには動かなかった。
その時、北側外壁の方角で、低い音がした。
最初は、土の音だった。
外壁の地面が削れる音だった。夕刻に見回り兵が指摘した位置、長さ二歩の削れ痕の、その場所から。線が三本、また増えている、という種類の音だった。
ジャサントは振り向かなかった。
振り向く前に、音の数を数えていた。
一つ。二つには増えなかった。
種別、不明。位置、北側外壁中ほど。距離、十数歩。
「リィナ」
「うん」
「動かないでください」
「うん」
ジャサントは剣の柄を確認した。鉈の柄も確認した。両方の位置は変わっていない。彼女は中庭の長机の左端から、北側外壁通路の方角へ、足音を立てずに進んだ。リィナは机の左端で動かなかった。
通路の入口で、彼女は止まった。
通路の中は灯りが少ない。中ほどに灯り台が一つ、その先は暗い。地面の音は止まっていた。だが、止まったというより、土の上から、石の上に乗ったという音の変わり方だった。中で、何かが立ち止まっている。
ジャサントは半歩、内へ入った。
通路の壁の影に、低い気配があった。
中型。
口先が裂け、脚が長い。崖道で見た種と同じ。だが個体は違う。背の高さが、外周で見た中型より一段低かった。先日の家屋の中で見た中型に近い。
距離、八歩。
剣を抜いた。
抜く動作と、踏み込む動作は同じ拍だった。彼女は通路の壁の影に半歩入り、灯り台の脇を抜けた。中型は彼女の方を見た。見たというより、気配を捉えて顔を向けた。だが、向ける動作の途中で、跳んだ。
跳躍は、低かった。
通路の天井が低い。中型は上に跳べない。横に跳んだ。彼女の右側を抜けようとする角度。剣が間に合うかどうか、距離で判断した。間に合う。
剣は突き出しに近い角度で出た。
振り抜きではない。
跳躍の途中、喉の浅い位置に、刃の先が真っ直ぐ通った。
骨の浅い位置だった。
一撃で抜ける。
中型は跳躍の軌道を保てなかった。
横に跳んだまま、軌道が下がった。
落ちる前に、彼女は剣を引いた。
引く動作のまま、左足だけを半歩、後ろに引く。
落ちた個体の頭が、彼女の足元から半歩外の位置に来た。
第二撃。
剣の戻りで、首を断った。
振り抜きではなかった。
戻りの動作だけで、剣の重みが首を通った。
個体は鳴かずに崩れた。
二撃。
彼女の足は、最初の踏み込みから半歩しか動いていなかった。
呼吸は変わらなかった。
その時、通路の入口の方で、布の擦れる音がした。
ジャサントは振り向かなかった。
振り向く前に、誰かを把握していた。
リィナ。
位置、入口、外壁の影。
動いていた。
机の左端から、ここまで歩いてきていた。
剣の戻りはまだ終わっていなかった。
彼女は剣を中段に戻したまま、左手だけを背後へ伸ばした。
左手の指の腹が、リィナの肩の高さに当たる。
押す距離は、半歩。
それ以上は押さなかった。
リィナの足は、半歩、後ろへ下がった。
「動かないで」
ジャサントが言う。
声は変わらなかった。
リィナの返事はなかった。
返事の代わりに、息を吸う音だけがした。
通路の奥の気配は、もう一つもなかった。
中型は崩れたまま、動かない。
骨の鳴る音も、布の裂ける音もない。
彼女は剣を一度、布で拭いた。
拭くまでの動作は、振るまでの動作と同じ拍だった。
警報が鳴ったのは、戦闘が終わったあとだった。
夜間巡回の別の兵が、北側外壁の入口で気配の残りに気づいた。中型の死骸を発見し、警報を鳴らす。鐘の音が二度。三度目は鳴らない。事後発令の鐘だった。砦の中の灯りが、いくつか点き直す。中庭の方で、声がいくつか起きた。
ジャサントは剣を鞘に戻した。鉈は抜いていなかった。鉈の柄の位置を確認してから、振り返った。
リィナは、外壁の影に立っていた。
半歩、後ろへ下がった位置のまま、動いていなかった。彼女の両手は胸の前にあった。胸の内側、彼女の札と三つの半分の乾パンの位置だった。押さえていた。だが、強くはなかった。確かめる動作だった。
「リィナ」
「うん」
「怪我は」
「ない」
「動けますか」
「うん」
「中庭まで戻ります」
「うん」
ジャサントはリィナの肩を、もう一度だけ軽く押した。今度は前へ。半歩、通路の入口の外へ。リィナは前へ歩いた。彼女の足音は、通路の中の戦闘の前と、ほぼ同じ速さだった。乱れていなかった。
通路の入口を出る時、リィナは一度だけ、ジャサントの方を見た。
見たというより、ジャサントの右袖を見た。
革鎧の右袖に、血が一筋ついていた。
中型の喉から跳ねた一筋だった。
「ち、ついてる」
リィナが言う。
ジャサントは右袖を見た。
「洗浄欄に入ります」
「いま?」
「処理後に」
「うん」
リィナはそれだけ言った。
それから、机の左端の方へ、自分の足で歩き出した。
押さなくても歩いた。
ノアの札の隣に戻り、また立った。
エルヴァが隔離棟の方から走ってきた。
「ジャサント」
「はい」
「警報、北側外壁ですね」
「はい」
「死骸の確認は」
「中型一、死亡確認、即時処理」
「損耗は」
「なし」
「位置は」
「外壁通路、中ほど」
「ほかには」
「現時点でなし」
「リィナさんは」
「通路入口、外壁の影、後方へ移動済み」
エルヴァは少しだけ間を置いた。
「あの子は、そこに、いたのですか」
「はい」
「規定外の位置です」
「分かっています」
「戦闘の最中ですか」
「はい」
「処理は」
「片手で背後へ押しました」
「半歩ですか?」
「はい」
エルヴァは、机の左端のリィナを見た。リィナはノアの札の隣に立っていた。動いていなかった。胸の内側を押さえる動作も、もう止まっていた。
「あの子の位置は、欄に書きますか」
エルヴァが問う。
「立ち会い、リィナ、規定外の位置に存在、後方へ移動済み」
「そう書くのですね」
「はい」
「分かりました」
エルヴァはそれ以上は言わなかった。
診断ではない。観察だった。だが今夜の観察は、ジャサントの欄に直接入った。
別の見回り兵が、外壁の隙間を確認した。
「外壁、隙間一」
兵が言う。
「位置は」
「中ほど、地面から胸の高さまで」
「補修要請を」
「明朝、補修班」
「夜間補修は」
「不要、隙間は塞ぐより、見張りで対応」
「了解」
兵は欄に上げる札を一枚作って、装備棚の方へ運んでいった。中型の死骸も、回収用の布にくるまれて運び出された。通路の中は、灯り台の油が一度補充され、灯りの明るさが戻った。
ジャサントは記録室へ戻った。
机の上に、新しい欄を書き加える。
夜半、北側外壁、侵入個体一、中型、死亡確認、即時処理。
処理時間、二撃。
処理者、ジャサント。
発見者、ジャサント。
警報、未発令、事後発令。
損耗、なし。
立ち会い、リィナ、規定外の位置に存在、後方へ移動済み。
洗浄、革鎧右袖、剣、本日付。
外壁、隙間一、補修要請、明朝、補修班。
種別未確認個体、本日確認なし、要注視継続。
書きながら、彼女は炭を一度、止めた。
「立ち会い」と書く欄は、本来、補助兵の欄だった。クラ・タスのような、護衛として派遣された兵が立つ欄だった。今夜、その欄に、規定外の位置に存在、と書き足す形でリィナの名が入った。
書く欄ではあった。
書ける欄でもあった。
だが、書かれた内容が、規定の補助欄とは違う形をしていた。
彼女は炭を再び動かし、最後の一行を加えた。
立ち会い欄、規定外の追記。
処理、現状維持。
明朝、エルヴァに確認、必要があれば再評価。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じない。
リィナは机の左端で立っていた。
ノアの札の隣だった。動いていなかった。だが、今夜は座らなかった。立ったままだった。胸の内側を押さえる動作は、もう止まっていた。両手は脇に下ろされている。彼女は札を見ていた。札の角と、その隣の空間を見ていた。
「リィナ」
ジャサントが言う。
「うん」
「東列の縄をくぐってください」
「あした、ここにいる」
「明日です」
「うん」
「今は戻ってください」
「うん」
リィナはうなずいた。だが、立ち上がる動作の代わりに、もう一つだけ問いを出した。
「これ、のこる?」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
リィナの問いは、机の中央のベルハイムの束ではなかった。札ではなかった。彼女が指で軽く示したのは、ジャサントの帳面の、新しく書かれた欄の側だった。戦闘記録の側だった。
「戦闘記録は閉じません」
「ずっと?」
「保存期間内であれば」
「のこるんだね」
「はい」
「わたしのことも」
「立ち会い欄に、書きました」
「なまえ?」
「リィナ、と書いてあります」
「ずっと?」
「保存期間内であれば」
リィナはうなずいた。
ノアの札の隣で、もう一度だけ、自分の胸の内側を軽く押さえた。それから、東列の方へ歩き出した。途中で一度、振り返った。
「あした」
「妨げにならない範囲で」
「うん」
リィナは東列の縄をくぐった。
くぐる前に、もう一度だけ振り返った。視線は机の左端のノアの札ではなかった。記録室の方だった。記録室の机の上、戦闘記録の欄が閉じていない方を見ていた。彼女がうなずいたのは、その欄に向けてだった。
それから、東列の中へ入った。
ジャサントは机の左端のノアの札の位置を、もう一度確かめた。
朝、揃えた位置のままだった。動いていなかった。
机の中央のベルハイムの束は、薄くなったままだった。
机の右端のリュド・カインの欄は、夜間継続のままだった。
机の左端のノアの札は、束に入らないまま、本日も残った。
新しく加わったのは、立ち会い欄だった。
立ち会い、リィナ、規定外の位置に存在、後方へ移動済み。
処理、現状維持。
書ける欄ではあった。
書かれた欄でもあった。
だが、書く欄の隣に、書かれない欄が一つ、新しく開きかけていた。
書かれない欄とは、リィナが立っていた位置のことだった。
机の左端でもなく、外壁通路の入口でもなく、その間の、半歩の距離のことだった。
規定上、欄が立たない位置だった。
だが、彼女の足音が往復した位置だった。
ジャサントはそこに、欄を立てなかった。
立てなかったが、書く動作はもう一度した。
立ち会い欄、補足。
規定外の位置、半歩、確認済み。
書いてから、彼女は炭を置いた。
夜が深くなる頃、エルヴァが最後にもう一度、記録室の前を通った。
「ジャサント」
「はい」
「立ち会い欄、書きましたか」
「はい」
「規定外の追記も」
「はい」
「明朝、再評価しますか」
「現時点では現状維持です」
「分かりました」
「あの子の位置は」
エルヴァが言う。
「机の左端のままです」
「夜間は」
「東列の縄の中です」
「規定通りに」
「規定通りに、です」
エルヴァはうなずいた。
「ジャサント」
「はい」
「片手で背後に押す距離は、半歩でしたね」
「はい」
「半歩だけでしたか」
「はい」
「分かりました」
エルヴァはそれ以上は言わなかった。
診断ではない。確認だった。だが、半歩、という距離を二度問うたのは、彼女の中で、その距離が立ち会い欄ではない位置に書かれていたからだった。書かれていたが、書く欄ではなかった。
エルヴァは隔離棟の方へ戻った。
リュドはまだ眠っていた。ノアも眠っていた。中庭の灯りは少しずつ消えた。煮炊き場の鉄鍋は冷えていた。
ジャサントは灯りを消す前に、明朝の業務予定を書いた。
リュド・カイン、隔離棟経過観察、再判断予定。
ノア、保護対象欄、机左端、据え置き。
リィナ、現状維持、保存登録継続、立ち会い欄、規定外追記済み。
北側外壁、隙間一、補修班、明朝点検および補修。
夜間巡回、北側通路、追加一、本日と同様。
種別未確認個体、要注視継続、本日確認なし。
ガルド、軽務復帰、明朝より、機動予備。
配給、半量継続、補充見込みなし。
担当者、ジャサント、変更なし。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
机の上の帳面は、すべて閉じられた。
だが、戦闘記録の頁だけは、表紙の上に少しだけ厚みを持っていた。書き加えた分の砂と、追記の余白の分だった。閉じられているが、すぐ開ける厚みだった。
机の左端のノアの札は、束に入らないまま朝を待った。
机の右端のリュドの欄は、夜間継続のまま朝を待った。
机の脇のリィナの保存登録欄は、本日も継続だった。
そして、新しい立ち会い欄が、戦闘記録の頁の中に、もう一つ立っていた。
書かれた欄だった。
書ける欄だった。
書かれない欄も、その隣に、半歩の距離で開きかけていた。
それぞれは別の欄だった。
だが、同じ机の上にあった。
火床の脇では、煮炊き場の女が、朝の準備のために棚を整えていた。
廃棄欄の桶は、昨日のうちに運び出されている。
名前のない欄は、もう閉じている。
名前のある欄は、明朝も書き続ける。
外壁の通路は、灯り台の油が補充された。
隙間は明朝、補修班が塞ぐ。
種別未確認の個体は、今夜は確認されなかった。
だが、北東方角の欄は、まだ閉じていなかった。
リィナは東列の縄の中で、眠ったか、眠っていないかは、書く欄ではなかった。
ノアは隔離棟で眠っていた。
リュドも眠っていた。
ガルドは装備棚の前で、明朝の補助札を一度確認してから、自分の天幕へ戻った。
ジャサントは記録室の灯りを消した。
戦闘の欄は閉じない。
立ち会い欄は閉じない。
保存期間内は、書かれた名前は残る。
書かれなかった半歩の距離も、消えていなかった。




