第14話 名のない欄
ベルハイムの外周を出たのは、日が傾いてからだった。
ジャサントは馬の手綱を引き、リュドを鞍の上に乗せて歩いた。咬傷者を歩かせるのは規定外。揺れの少ない移動が必要だった。
出発時の編成は、担当者一、補助一の最小編成だった。だが午後、家屋三で咬傷が発生した時点で、彼女は伝令札を一枚出した。咬傷者搬送、夜間帰路、護衛強化要請。札は南の小道を逆に走り、砦に届いた。返答は速かった。前線経験のある兵を一名、林の縁まで派遣する、という内容だった。
派遣された兵は、林の縁で待っていた。
クラ・タス。三十代後半、前線経験のある男だった。ガルドのような怒鳴り方はしない。問いも少ない。ただ、後方の音だけを聞いている男だった。脇腹経過観察中の者は派遣対象外。残った前線兵から、最も静かな男が選ばれていた。
「ジャサント殿」
クラが言う。
「お待たせしました」
「咬傷者は鞍の上、左前腕、感染兆候現時点なし」
「了解」
「林の中、足音あり。歩幅から小型」
「了解」
「進路は変えません」
「了解」
短い男だった。報告すべきものだけを欄に上げる男だった。
「ジャサント殿」
クラが言う。
「はい」
「林の奥、音が止まりました」
「先ほどから」
「鳥も鳴かない」
「承知しています」
「進路は」
「変えません」
「了解です」
クラは剣の柄を握り直した。その動作は、緊張ではなく確認だった。
リュドは鞍の上で揺れていた。咬傷の痛みは止血具で抑えられているが、目の焦点はまだ完全には戻っていない。
「リュド」
ジャサントが言う。
「は、はい」
「呼吸を二拍に」
「はい」
「腕を動かさないでください」
「はい」
「揺れの中で剣を握らないでください」
「……はい」
リュドの右手は、左前腕の包帯の上に置かれていた。剣の柄ではなかった。ジャサントはそれを確認してから、前を見た。
林は、あと半刻ほどで抜ける位置だった。
最初の音は、足音ではなかった。
枝が鳴る音だった。
低い位置。一本ではない。三本、ほぼ同時。葉の擦れる速さから、生き物の通過と判断できた。距離、左前方、二十歩ほど。
ジャサントは馬を止めた。手綱を引いただけで、声は出さない。馬は止まった。クラもすぐ止まった。リュドだけが、半拍遅れて鞍の上で姿勢を整えた。
「数」
クラが小さく問う。
「四以上」
「位置」
「左前方、林縁」
「種別」
「足音から、小型」
「中型は」
「現時点で確認されません」
「了解」
クラは剣を抜いた。
ジャサントはまだ抜かなかった。
抜く前に、もう少し聞く時間が必要だった。
林の中で、また音がした。今度は二箇所。
左前方と、後方左。
挟まれかけている。
だが、まだ完全には囲まれていない。
進むか、戻るか、その場で迎えるか。三つの選択のうち、彼女は一つを取った。
「進みます」
「進む、ですか」
「林縁を抜けてから迎えます」
「了解」
「リュド」
「はい」
「鞍から下りないでください」
「はい」
「振らないでください」
「はい」
「私の指示が出るまで、剣は抜かない」
「はい」
馬がまた歩き出した。歩幅は変えない。だが、前より一拍だけ速い。クラはジャサントの斜め後ろについた。林の縁が見える距離まで、あと十数歩。
その十数歩のあいだに、左後方から最初の一体が飛んだ。
ジャサントは振り向かなかった。
振り向く前に、剣はもう抜けていた。
踏み込みは右足。
重心は左に残し、剣の戻りを優先する角度。
飛びかかった小型は、彼女の背中ではなく、馬の右後脚を狙っていた。
位置は読めていた。
剣が真横に通った。
首ではなかった。首は届かない位置だった。彼女は前脚の付け根を斬った。骨の浅い位置。一撃で抜ける。崩れた個体が地面に当たる前に、剣の戻りは終わっていた。
「クラ、後方」
「いる」
クラがもう一体を斬った音がした。剣の角度は深い。一撃では止まらない。彼は二撃目を入れて、ようやく止めた。それでも止めた。前線経験の音だった。
林の縁を抜ける。視界が開けた。
夕闇は始まりかけていたが、まだ完全な夜ではなかった。地面の起伏は見える。彼女は馬を広い場所まで進ませ、そこで止めた。
「ここで迎えます」
「了解」
「数を数えてください」
「左前方、四。後方、二。計六」
「中型は」
「見えない」
「足音は」
「軽い。すべて小型」
「了解」
クラの報告は短い。短いほうが速い。ジャサントは剣を中段に構えた。リュドは鞍の上で、鞘から剣を抜きかけて、止めた。指示はまだ出ていなかった。
最初の三体が、ほぼ同時に出た。
林の縁から飛び出してくる。脚は長く、口先は裂けている。崖道で見た種と同じ。だが個体は小さい。子の段階のものだった。
ジャサントは前へ出た。
一体目。
正面、跳躍の頂点で剣が首に通る角度。
踏み込みは半歩。
振り抜きではなく、突き出しに近い角度の入れ方。
首が落ちるのではなく、跳躍の軌道がそのまま地面に落ちる形だった。
二体目。
一体目が落ちる位置の左から飛んだ。
彼女は左足を引き、剣を引き戻す動作のまま、横へ振った。
振り抜きではなく、戻りの動作がそのまま二体目の喉に当たった。
個体は鳴かずに崩れた。
三体目。
右側から低い姿勢で飛んだ。
彼女は剣の戻りで右へ振り直した。
今度は振り抜き。
だが、深くは入らない。
首の浅い位置で止め、抜く。
個体は前のめりに崩れた。
三撃。
彼女の足は、最初の踏み込みの位置から半歩しか動いていなかった。
「クラ」
「後方、二、対応中」
「もう一は」
「左、まだ来ない」
「位置を保持」
「了解」
クラは後方の二体を、剣で順に処理していた。深く入る角度。彼の振り方だった。一体目を斬り、二体目をもう一度斬る。前線の振り方だった。ジャサントの戻りより遅いが、止まらないだけの確実さがあった。
残る一体は、左の林の縁で気配を消していた。
ジャサントは剣を一度、布で拭いた。
拭くまでの動作は、振るまでの動作と同じ拍だった。
布は左手の指の間に挟んだまま、剣を中段に戻す。
「出てこないか」
クラが言う。
「待っています」
「待ち?」
「私たちが動くのを」
「了解」
ジャサントは動かなかった。動かないことが、相手の動きを引き出す唯一の方法だった。
しばらくして、左の林の縁で枝が鳴った。
距離、十歩弱。
最後の一体が飛んだ。位置は低い。狙いは馬の前脚ではなく、鞍の上のリュドだった。
リュドが息を止める音がした。
ジャサントは動いた。
左足を踏み込み、剣を斜め下から斜め上へ振る。一撃の方向は決まっていた。飛んできた個体の腹から胸への角度だった。剣は深く入った。深く入った剣は、戻りが遅れる。だが、彼女は戻りの遅れを最初から計算していた。
戻りの遅れている剣を、左手の鉈で補った。
鉈の柄を引き抜いた瞬間、もう一体目の頭が斬れていた。
剣の戻りより、鉈の振り出しの方が早かった。
左手の動作だった。
彼女が普段、剣で見せる戻りの早さの、左手版だった。
個体は鳴かずに二段階で崩れた。
剣を引き抜き、鉈を布で拭く。鉈の方を先に拭いたのは、刃の長さが短く、布の動作が短いからだった。剣はあとで拭く。順番が決まっていた。
「終わりです」
ジャサントが言う。
「六、すべて」
クラが確認する。
「はい」
「了解」
リュドは鞍の上で、息を吐いていた。長く吐いた。吸う動作はまだ二拍に揃っていなかった。
「リュド」
「は、はい」
「呼吸を二拍に」
「はい」
「腕は」
「動いて、ない」
「結構です」
ジャサントは剣を布で拭いた。血の跳ねの位置を、目で確認する。革鎧、首元、左腕、それから今日は鉈の柄にも一筋。洗浄が必要。帰還後の処理欄に入る項目だった。
死骸の処理は、その場では行わなかった。
夜が近い。匂いを残しても、追加で寄ってくる時間帯ではない。明朝、別班が回収する。それが規定だった。彼女は死骸の位置だけを記憶し、馬を進めた。
林の縁を抜けてからは、音は静かになった。
夕闇は深まり、視界は半分以下に落ちた。月はまだ出ていない。星も見えない。雲が低い。
クラが言った。
「ジャサント殿」
「はい」
「あの最後の一体」
「はい」
「鞍を狙ってきましたね」
「はい」
「リュドの位置を、知っていた」
「気配で判断したのでしょう」
「咬傷の匂いか」
「可能性はあります」
「次から、咬傷者の搬送は、もっと囲んだ方がいい」
「規定の改定が必要です」
「上に上げますか」
「帰還後、欄に書きます」
「了解」
クラはそれ以上言わなかった。問わない男だった。だが、報告すべきことは欄に上げる男だった。
ジャサントの呼吸は、戦闘中も戦闘後も変わらなかった。
夜が完全に降りた頃、もう一度音がした。
今度は足音ではなかった。
枝でもない。
林の奥で、何かが擦れる音だった。低い位置。一定の速さ。歩いている。だが、走っていない。彼女は馬を止めた。クラも止まった。
「位置」
「右前方、距離不明、林の中」
「種別」
「足音だけでは判定できません」
「数」
「一」
「一だけ?」
「一です」
ジャサントは耳を澄ませた。林の中の足音は一つだけだった。歩幅は中型のものより小さく、小型のものよりは重い。中間。種別が判別できない。
「進路は」
クラが問う。
「変えません」
「迎えますか」
「向こうから来なければ」
「了解」
足音は、しばらく並走した。
馬と同じ速さで、林の中を歩いている。距離は近づきも離れもしない。観察されている、と判断するしかなかった。
ジャサントは剣を抜かなかった。抜けば、相手は引く。観察を続けるなら、抜かない方がいい。彼女は手綱を緩く握り直し、足音の位置を頭の中に置いたまま進んだ。
半刻ほど続いて、足音は消えた。
林が砦に近づくにつれ、地面が固くなる。固い地面では、足音は消えやすい。それだけのことかもしれない。だが、消えた位置は、ベルハイムの方角ではなかった。北東。砦の方角でもなかった。林の奥、未確認の方角だった。
「ジャサント殿」
クラが言う。
「はい」
「あれ、何でしょうね」
「未確認です」
「中型でも、小型でもなかった」
「はい」
「一体だけ、観察するように歩いた」
「はい」
「種別欄、空けますか」
「はい。種別未確認、観察動作あり、と書きます」
「了解」
リュドは鞍の上で、目だけを開いていた。怖がっていた。だが声は出さなかった。彼の呼吸は二拍にはまだ揃っていなかったが、動かなかったことだけは保てていた。
砦が見えたのは、夜の半ばを過ぎた頃だった。
東門の灯りは灯っていた。普段より数が少ない。配給用の油が減っている影響だった。門番の影が動き、入門の確認が始まる。
「ジャサント殿、お戻りで」
「はい」
「リュドは」
「咬傷一、感染兆候現時点なし」
「規定通り、隔離棟へ」
「お願いします」
門番はうなずいた。リュドは鞍から下ろされ、隔離棟の方へ運ばれていった。クラは護衛任務の終了を告げ、装備棚の方へ歩いた。
ジャサントは馬の手綱を厩舎の前で渡し、記録室へ向かった。
エルヴァは隔離棟の前で待っていた。
リュドの咬傷を改めて確認する。深さ、中。出血、止血済み。感染兆候、現時点なし。
「ジャサント」
「はい」
「咬傷の位置は、左前腕の二箇所ですね」
「はい」
「動脈には届いていない」
「はい」
「処置は規定通りでしたか」
「はい」
「分かりました」
エルヴァは手を拭いた。
「夜の道で、ほかには」
「小型六、戦闘で処理。
別個体一、種別未確認、観察動作あり」
「観察動作」
「並走、半刻」
「数は」
「一」
エルヴァは少しだけ間を置いた。
「それは、報告に上げてください」
「はい」
「中型でも、小型でもないのですね」
「足音の重さが中間でした」
「分かりました」
「リュドの経過観察は、夜間も継続です」
「承知しました」
「明朝、再判断します」
「はい」
エルヴァはリュドを連れて隔離棟へ入った。
リュドは振り返らなかった。
振り返らないことも、欄の上では同じだった。
———リィナは中庭の長机の左端にいた。
朝、見送った位置と同じだった。ノアの札の隣だった。動いていなかった。
リュドが隔離棟へ運ばれていく時、リィナはこの位置から、運ばれていく方角を目で追っていたはずだった。咬傷者が鞍から下ろされ、エルヴァが受け取り、隔離棟の布幕が一度揺れる。その動きは、机の左端からも見える位置にあった。
ジャサントは、リィナの前で一度立ち止まった。
「リュドは」
リィナが言う。
「隔離棟、夜間も経過観察」
「あした」
「再判断です」
「ちょうこうは」
「現時点でなし」
リィナはうなずいた。
リュドのことは、もう一度確認すれば足りる位置にあった。彼女はそれ以上は聞かなかった。胸の内側に手をやる動作もしなかった。札の隣で、ただ立っていた。
ジャサントは机の左端のノアの札の位置を、軽く直した。
保護対象欄、変動なし。
ノアの隔離棟経過観察も、明朝の再判断対象だった。
夜の道で起きたことは、彼女はリィナに伝えなかった。
小型六体との戦闘も、林の中で並走した一個体のことも、種別未確認のまま消えていった方角も、口にしなかった。帳面に書いた欄ではあったが、子どもの位置に置く話ではなかった。書ける欄と、伝える欄は、別の幅で並んでいる。彼女の中で、それは別の処理だった。
リィナの胸の内側には、彼女の札と三つの半分の乾パンがある。
それで足りる位置だった。
「ねえ」
リィナが言う。
「何ですか」
「あした、ここにいていい?」
「妨げにならない範囲で」
「うん」
リィナはそれだけ言った。
机の左端から、すぐには動かなかった。
ジャサントは記録室へ向かった。
机の上に帳面三冊。中央に避難民登録、左に配給帳、右に周辺集落記録帳。
新しい欄を書き加えていく。
帰路、南の小道。
夜半、戦闘発生。
小型六、死亡確認、種別欄。
氏名欄、なし、種別のみ。
回収、明朝、別班。
損耗、なし。
リュド・カイン、咬傷経過観察、夜間継続。
その下に、もう一行。
別個体一、種別未確認、観察動作あり。
並走時間、半刻。
位置、林の右側。
最終消失方向、北東、未確認の方角。
氏名欄、なし。
種別欄、未確認。
処理、なし。
備考、要注視。
ここで、ジャサントは炭を一度、止めた。
書く欄に名前のない個体が並んでいた。種別欄、小型、六。種別欄、未確認、一。氏名欄は、すべて空白だった。
書かれない欄ではなかった。書ける欄でもあった。だが、書く対象に名前がなかった。
彼女は炭を再び動かし、最後の一行を加えた。
種別未確認、観察動作あり、要注視。
担当者、ジャサント、変更なし。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
火床の脇で、エルヴァが立っていた。
棚の奥に、布で包まれた半分の乾パンが残っていた。規定の保存期間は、本日で過ぎる。名前は、最後まで書かれなかった。
「ジャサント」
「はい」
「これは、本日付で廃棄欄ですね」
「はい」
「氏名欄は」
「空白のままです」
「未配給繰り越しの欄は」
「閉じます」
「分かりました」
エルヴァは布を解いた。中の乾パンは乾ききっていた。彼女はそれを廃棄用の桶へ入れた。桶の底には、ほかにも本日付で廃棄になった食材がいくつか入っていた。乾パンは、その上に並んだ。一番上に置かれた。沈みもしなかった。
「氏名欄が空白のまま閉じる、という処理ですね」
エルヴァが言う。
「規定の処理です」
「分かっています」
「閉じます」
「はい」
エルヴァは桶を持ち上げ、煮炊き場の奥へ運んでいった。
廃棄欄に書かれるのは、桶の番号と、本日の日付と、内容物の量だった。氏名欄は最初から立っていなかった。
ジャサントは記録帳の未配給繰り越し欄を開いた。
未配給繰り越し、一、本日付で閉鎖。
氏名欄、空白、保存期間満了。
処理、廃棄。
書く。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
机の中央には、ベルハイムの束が残っていた。
机の左端には、ノアの札が残っていた。
机の右端には、リュド・カインの経過観察欄が新しく立っていた。
机の脇には、リィナの保存登録欄が残っていた。
未配給繰り越し欄だけが、本日付で閉じた。
名前のないまま閉じた。
リィナはまだ机の左端にいた。
火床の方角で、桶が置かれる音がした。煮炊き場の女が、廃棄欄の桶を運んでいる音だった。リィナはその音を聞いて、机の左端から少しだけ顔を上げた。
「ねえ」
「何ですか」
「あれ、すてたの」
「未配給繰り越しの分です」
「なまえは」
「最後まで書きませんでした」
「かかないと、きえるの?」
「廃棄欄に、桶の番号と量だけが残ります」
リィナは少しだけ黙った。
それから、自分の胸の内側を、軽く押さえた。
押さえる動作は、確認だった。
「これ、のこる?」
「保存登録、継続です」
「なまえは」
「リィナ、と書いてあります」
「ずっと?」
「保存期間内であれば」
リィナはうなずいた。
ノアの札の隣で、もう一度、胸の内側を軽く押さえた。それから、東列の方へ歩き出した。
途中で一度、振り返った。
「リュドは、なまえあるの?」
「あります」
「じゃあ、いるね」
「現時点では」
「うん」
リィナはそれだけ言って、東列の縄をくぐった。
夜が深くなる頃、ジャサントは記録室の灯りを点け直した。
明朝の業務予定を書く。
リュド・カイン、隔離棟経過観察、再判断予定。
小型六、死骸回収、別班、明朝。
種別未確認、観察動作あり、要注視継続。
ベルハイム、外部所在未確認二、保留継続。
ノア、隔離棟経過観察解除予定、再配置先、未定。
リィナ、現状維持、保存登録継続。
未配給繰り越し、本日付で閉鎖、廃棄処理済み。
配給、補充見込みなし、半量継続予定。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
机の上の帳面は、すべて閉じられた。
だが、机の上の札の数は、朝より増えていた。
氏名のある札と、氏名のない札と、種別だけの欄と、未確認の欄。
別の幅で並んでいた。
だが、同じ机の上にあった。
火床の方角で、桶が置かれる音は、もうしなかった。
廃棄処理は終わった。
名前のない欄は、本日付で閉じた。
名前のある欄は、明朝も書き続ける。
書かれた欄、書けなかった欄、書かなかった欄。
それぞれが、別の位置で並んでいた。
林の奥で並走した一個体は、種別未確認のまま、北東の方角へ消えていた。
名前はなかった。
だが、欄には残った。
欄に残ったものは、消えていなかった。
ジャサントは灯りを消した。
リィナは東列の縄の前で、首元ではなく胸の内側を、軽く押さえてから中へ入った。
ノアの札は、机の左端で、束に入らないまま朝を待った。
ご拝読ありがとうございました。




