第19話 細い線
ジャサントは記録室の机の前に立っていた。机の上の帳面は、昨夜のまま閉じられている。配給帳、避難民登録、周辺集落記録帳。机の中央にはベルハイムの束、その隣にヴィスタの束。机の左端には、束に入らないままのノアの札。机の右端には、リュド・カインの軽傷者欄、軽務復帰可。机の脇には、観察記録欄の三日連続所見。
そして、新しく書かれた欄が一つ。
ヨル、死亡確認、自死、本日付、氏名欄閉鎖。
昨日の夕方、本日付で閉じた欄だった。今朝の修正欄に、別班による遺体搬送の完了報告が加わる。エルヴァが朝のうちに札を切り替えた。
エルヴァは隔離棟の前で、湯を捨てていた。
「ジャサント」
「はい」
「ヨルさんの遺体搬送、夜半完了しました」
「氏名欄、閉鎖済み」
「死亡確認済みの束に移しました」
「了解です」
「ジャサント」
「はい」
「炭の戻り、本日は」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「現時点では、変わりません」
「分かりました」
エルヴァはそれ以上は言わなかった。
診断ではない。観察だった。
「半拍」という言葉は、今朝は使われなかった。だが、使わなかったことが、エルヴァが見ていた、ということを示していた。
伝達札が記録室に届いたのは、配給前のことだった。
封は赤糸ではなかった。今朝も青糸だった。緊急報告の伝達。
「ダグラス殿より」
「承知しました」
ジャサントは札を受け取り、糸を切った。
王都街道、第二派、前哨報告。
偵察兵二名、本日未明に出発。
帰還予定、本日午刻。
午刻時点、一名のみ帰還。
帰還者、トール・ヴェン。
未帰還者、別偵察兵、サド・カル。
位置、王都街道前哨地点、林の縁。
状態、未確認。
追走班、編成検討中。
担当者、ジャサント、本日午後より、前哨配置。
編成、機動予備、前線兵四、ジャサント、トール再投入。
ガルド、軽務継続、配属外。
決定者、ダグラス。
ジャサントは札を二度読んだ。
トールが帰還し、サド・カルが帰っていない。トールは口数の少ない男だった。報告すべきものだけを欄に上げる男だった。彼が一人で帰ってきたという事実が、未帰還者の状態の説明そのものになっていた。
ダグラスは中央会議室にいた。
トールが地図の前に立っていた。指は地図の上の一点を押さえていた。林の縁、王都街道の前哨地点、五本目の木の少し東。位置を示す指の腹は、深く押さえていなかった。前線経験のある男の指の位置だった。
「ジャサント」
ダグラスが言う。
「はい」
「サド・カル、未帰還」
「位置、林の縁、前哨地点」
「トール、状況を」
「林の縁、敵影、中型五、小型多数。先頭群、林の中で停滞。前進していない」
トールが言う。
「サド・カルは」
「林の中で別行動」
「目視は」
「最後の目視、出発から二刻後、林の二本目の木のあたり」
「以降」
「目視なし。声、なし。枝の音、なし」
「林の奥の音は」
「鳥、鳴かない。獣の足音、なし。種別未確認の気配、現時点でなし」
ジャサントは欄を頭の中に書いた。書ける欄だった。だが、書く対象に、まだ確定がなかった。
「追走班の編成は」
ジャサントが問う。
「機動予備、前線兵四、お前、トール再投入」
ダグラスが答える。
「七名」
「七名だ」
「サド・カルの最終目視位置までの距離は」
「徒歩半刻」
「進路上の敵影は」
「林の縁、中型五、小型多数」
「停滞しているなら、迂回は」
「林の中を迂回すると、二刻」
「了解しました」
ダグラスは少しだけ間を置いた。
「ジャサント」
「はい」
「お前は、後段だ」
「指揮は」
「機動予備の指揮はマトス。前線兵四の指揮もマトス」
「了解です」
「お前は、敵影と接触したら処理。サド・カルの捜索は、トールが先頭」
「進入の限界は」
「林の二本目の木、最終目視位置まで」
「以降は」
「進入しない」
「未帰還者の確認は」
「目視できる範囲のみ」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「目視できなければ」
「未確認のまま、撤収」
「捜索は」
「進入の限界を越えない」
「サド・カルが、限界の先にいた場合は」
「未確認、保留」
「了解しました」
書く欄ではあった。書ける欄でもあった。だが、書かれる対象が、人であった。氏名のある人だった。
ジャサントは、異議申立欄を開いた。
開いてから、しばらく動かなかった。
異議申立欄に、彼女自身の名を書いたことは、これまでなかった。書かれた名は、これまでガルドのものだけだった。ベルハイム保留、王都街道優先、と決まった日の欄に、ガルドの名が一つ。記録のみで処理された。
書く欄ではあった。
書ける欄でもあった。
規定上、担当者欄の者が、決定に対する異議を上げる権限はあった。
ジャサントは炭を取った。
異議申立、ジャサント。
理由、未帰還者捜索の進入限界について。
内容、最終目視位置を越える進入の許可申請。
処理、判断保留、ダグラス殿による。
書きながら、彼女は炭を一度、止めなかった。
だが、書き終えてから、書いた文字を、しばらく見た。
書かれた名は、彼女自身のものだった。
書く対象に、自分の名を書く欄は、これまで担当者欄と補助欄だけだった。
異議申立欄に、自分の名が並んでいる。
書く動作は変わらなかった。
だが、書かれた欄が、これまでと違う形をしていた。
ダグラスが、欄を見た。
「上げるか」
「はい」
「却下する」
「理由を」
「進入の限界は規定だ」
「規定改定の対象に」
「明朝の議題に追加」
「明日では遅い場合」
「サド・カルが目視できれば、進入する」
「目視できない場合は」
「未確認のまま、撤収」
「了解しました」
却下、と書いた。
処理、却下、ダグラス。記録のみ。
書く動作は、変わらなかった。
だが、書かれた欄が、彼女自身の名を持って、本日付で立った。
リィナは中庭の長机の左端にいた。
ノアもいた。煮炊き場の女が、ノアの脇に立っていた。今朝のリィナは、机の左端の角にも、ノアの札の角にも、手を伸ばさなかった。立っていただけだった。
ジャサントが机の左端を通った時、リィナは言った。
「ねえ」
「何ですか」
「いくの」
「王都街道、前哨」
「サドは」
「未帰還」
ジャサントは少しだけ間を置いた。リィナが、サド・カルの名を知っているという事実は、書く欄ではなかった。砦の中で、伝達は早い。誰かから聞いたのだろう。誰から聞いたかは、書く欄ではなかった。
「さがすの」
「目視範囲のみ」
「みつからなかったら」
「未確認のまま、撤収」
「うん」
リィナはうなずいた。
胸の内側に手をやる動作はしなかった。
ノアの方も見なかった。
机の左端のノアの札の角を、整え直す動作も、今朝はしなかった。
「あなたは」
「現時点では」
「うん」
リィナはそれだけ言った。
彼女の「うん」は、答えではなく、聞いた、という確認の音だった。
王都街道前哨地点までは、徒歩半刻だった。
機動予備の指揮はマトスだった。三十代後半、王都街道の前線経験が長い。声は低い。前線兵四は、彼の判断に従う者ばかりだった。トールは先頭で、足跡と気配を読む役。ジャサントは後段、敵影との接触処理。後衛は前線兵二。
午後の風は弱かった。林の縁の三本目の木のあたりで、トールが止まった。
「ジャサント殿」
「はい」
「先頭群、まだ林の中」
「数を」
「中型五、小型多数。前進していない」
「位置」
「五本目の木の奥、二十歩」
「停滞の理由は」
「不明」
「サド・カルの最終目視位置は」
「林の二本目の木のあたり」
「現在地は」
「三本目の木」
「進入は」
「最終目視位置まで」
「了解です」
マトスが指示を出した。前線兵四を扇状に展開。トールが先頭、ジャサントが後段、後衛が左右。林の縁から二本目の木のあたりまで、慎重に進む。地面は乾いている。足音は消しやすい。
二本目の木に着いた時、トールが立ち止まった。
地面に、痕跡があった。
引きずられた跡。長さ、五歩ほど。林の奥の方へ、引きずられている。傍に、靴の片方が落ちていた。サド・カルのものだった。彼が出発時に履いていた靴だった。
トールは、靴を拾わなかった。
位置だけを目で確認した。
「ジャサント殿」
「はい」
「引きずり跡、林の奥へ」
「方向」
「先頭群の位置と一致」
「最終目視位置は」
「ここから三歩」
「サドの目視は」
「現時点でなし」
「林の奥は」
「進入限界の先」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
地面の引きずり跡は、最終目視位置から、林の奥へ続いていた。先頭群の停滞している位置の方角と、ほぼ重なっていた。サドが、先頭群の方へ引きずられた、という事実が、地面の上に残っていた。だが、サド本人の目視は、ない。
進入限界は、最終目視位置までだった。
彼女は、その位置に立っていた。
進入限界の先は、規定上、進入できない。
「マトス」
ジャサントが言う。
「ああ」
「進入限界の先、敵影と接触の場合は」
「処理」
「処理範囲は」
「敵影のみ。捜索は、目視範囲」
「目視できない場合は」
「未確認のまま、撤収」
「了解しました」
書く欄ではあった。
書ける欄でもあった。
だが、書かれる欄に、サドの目視は、入らなかった。
その時、林の奥で、枝が鳴った。
一つではない。
二つ、三つ。
乾いた葉の擦れる速さから、複数の生き物の動き。
中型のものと、小型のものが混ざっていた。
「来るぞ」
マトスが言う。
「数を」
「中型四、小型七」
「先頭群か」
「先頭群の半分」
「停滞、解除」
「処理、開始」
剣はすでに抜いていた。
ジャサントは抜いた。後段の位置から、敵影の進路を見た。中型四は扇状に展開、小型七は中型の脇から散発的に出る。林の縁を抜けて、こちらへ来る。
最初の中型が、林の縁を抜けた。
マトスが踏み込んだ。中型一、剣で深く入り、二撃で止める。前線兵四も同時に動いた。中型二、小型三を、それぞれの位置で処理。
ジャサントは後段で待った。
中型一が、扇の左端から、後段の方へ抜けようとした。
彼女は剣を中段に構えた。
半歩、左へ動いた。
半歩だけだった。
中型の進路は、その半歩の差に対応できなかった。
彼女の正面を抜けようとした個体の喉に、剣が真っ直ぐ通った。
突きに近い角度。骨の浅い位置で抜けた。
個体は鳴かずに崩れた。
第二撃。
別の中型が、扇の右端から、後衛の方へ抜けようとした。
後衛の前線兵が槍を出したが、浅い。中型の動きは止まらなかった。
彼女は半歩、右へ動いた。
剣の戻りで、中型の前脚の関節を断つ。
個体の進路が変わった。崩れる方向に、もう一撃。喉に真っ直ぐ。
骨の浅い位置で抜けた。
戦闘は、続いていた。
彼女の足は、最初の踏み込みから、合計で二歩しか動いていなかった。
戦闘の途中、ジャサントの視線が、一度だけ、遠くの林の縁に置かれた。
林の二本目の木の奥、引きずり跡の続く方向だった。
中型四、小型七のうち、まだ林の奥に残っている個体がいる。先頭群の残り半分。サドが、その奥にいる可能性があった。
だが、進入限界は、二本目の木までだった。
進入限界の先は、規定上、進入できない。
彼女は視線を、引きずり跡の方向から、戻した。
動作は、止めていなかった。
剣の戻りも、変わらなかった。
ただ、視線だけが、半拍、遠くに置かれた。
半拍だった。
トールが、それを見ていた。
彼の指は、剣の柄の外側のままだった。
深く握り込まない位置。
彼は、ジャサントの視線が遠くに置かれた瞬間を、欄には書かない位置で見ていた。
戦闘終了。
中型四、小型七、すべて死亡確認。
損耗、軽傷二、重傷なし。
死亡、なし。
林の奥の先頭群の残り半分は、後退した。引きずり跡の方向と、同じ方向だった。サドの目視は、最後までなかった。
「マトス」
ジャサントが言う。
「ああ」
「敵影の処理、完了」
「サドは」
「目視なし」
「進入限界の先は」
「進入していないです」
「了解だ」
「撤収」
「了解です」
マトスは指示を出した。前線兵四は撤収準備。後衛が殿を取る。トールは先頭で、林の縁の音を最後にもう一度確認した。
ジャサントは、最後にもう一度、引きずり跡の方を見た。
靴は、落ちたままだった。
拾わなかった。
位置だけを、頭の中に書いた。
書く欄ではあった。
書ける欄でもあった。
書かれる対象は、靴だった。サド本人ではなかった。こういう時、ガルドはどうしていたのだろう———
砦が見えた頃、空はまだ夕方の前だった。
東門で、ジャサントは止まった。マトスと前線兵四は装備棚の方へ歩いた。トールは、ジャサントの脇に残った。
「ジャサント殿」
トールが言う。
「はい」
「視線、林の奥に置きましたね」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「半拍です」
「半拍、ですね」
「動作は止めていません」
「動作は止まっていません」
「書く欄ですか」
「書く欄ではないです」
「了解です」
トールはそれだけ言った。
彼の指は、剣の柄の外側のままだった。
報告すべきものだけを、欄に上げる男だった。
半拍は、報告すべきものではなかった。
だが、見たことは、見ない欄ではなかった。
リィナは中庭の長机の左端にいた。
ノアもいた。煮炊き場の女が、二人の脇に立っていた。
「もどったの」
リィナが言う。
「はい」
「サドは」
「目視なし、未確認」
「みつけられなかったの」
「進入限界の先には、進入していません」
「いったら、いた?」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
リィナの問いの形は、確認だった。だが、書く欄ではなかった。
進入限界の先に、サドがいたかどうかは、現時点では未確認だった。
彼女は答えを、欄の中に持っていなかった。
「未確認です」
「うん」
「規定の範囲では、進入できませんでした」
「規定」
「進入限界、二本目の木まで」
「サドは、それより奥」
「可能性があります」
「うん」
リィナはうなずいた。
うなずいてから、机の左端のノアの札の角を、ようやく整え直した。今朝、整えなかった分の動作だった。整えたあと、彼女は半歩、机から離れた。
ノアは、リィナの動作と同じ拍で、半歩離れた。
「ねえ」
「何ですか」
「あなた、みた?」
「何を」
「サドが、いたかもしれないところ」
ジャサントは答えなかった。
「みた?」
リィナがもう一度問う。
「視線を、置きました」
「半拍?」
ジャサントは、また少しだけ間を置いた。
リィナが、半拍、という言葉を、どこから持ってきたかは、書く欄ではなかった。エルヴァが昨日、その言葉を使った。リィナは机の左端で、その会話を聞いていたかもしれない。聞いていなかったかもしれない。書く欄ではなかった。
「半拍です」
「うん」
「動作は、止めていません」
「うん」
リィナはうなずいた。
ノアの方は見なかった。
だが、ノアの手が、リィナの手の上に、もう一度乗った。今度は、リィナの方から、ノアの手の下に、自分の手を置いていた。今朝の動作と同じだった。
リィナは、ノアの手を、外さなかった。
ジャサントは記録室へ戻った。
ガルドが装備棚の前で待っていた。脇腹の包帯はまだ残っていた。剣は持っていない。鉈も持っていない。軽務継続、機動予備指揮当分外、の札を首にかけたままだった。
「ジャサント」
ガルドが言う。
「はい」
「サドは」
「未確認」
「進入限界の先か」
「可能性あり」
「規定」
「規定です」
ガルドは少しだけ間を置いた。
「お前」
「はい」
「異議申立、上げたんだろ」
「はい」
「却下、聞いた」
「規定改定の議題、明朝」
「明日では遅い場合がある、って書いたか」
「書きました」
「却下されたな」
「はい」
ガルドは、それだけ言った。装備棚に手をかけ、首にかけた札を一度だけ、軽く整えた。
「お前」
「はい」
「今度は、お前が止められた側か」
ジャサントは答えなかった。
ガルドはうなずかなかった。だが、欄を確認するような視線で、装備棚の上の補助札の位置を見た。彼の名前は、機動予備指揮当分外、の欄に書かれている。彼自身も、止められた側にいた。
止められた側にいる二人が、同じ装備棚の前で、しばらく動かなかった。
「ジャサント」
ガルドが言う。
「はい」
「お前、後段に下がった」
「はい」
「敵影の処理、二歩」
「半歩、二回」
「視線」
「林の奥」
「半拍」
「半拍です」
「サドが、いたかもしれない方角」
「はい」
ガルドは、それだけ言った。装備棚の上の補助札を、もう一度だけ整えた。指の位置は外側のままだった。深く握り込まない位置。第16話の戦闘後に、自分で直した位置だった。彼はその位置を、もう変えていなかった。
「俺、振らなかったぞ」
「装備していません」
「装備しても、振らなかった」
「了解です」
「お前は」
「振りました」
「処理範囲、敵影のみ」
「規定の範囲です」
「視線は」
「半拍です」
ガルドは、それだけ言った。
それから、装備棚から離れた。
怒鳴らなかった。
今日も怒鳴らなかった。
ジャサントは記録室で、新しい欄を書き加えた。
王都街道前哨、本日午後。
担当指揮、マトス。
補助、ジャサント、後段。
偵察先頭、トール・ヴェン。
編成、機動予備、前線兵四、ジャサント、トール再投入。
中型四、小型七、すべて死亡確認。
損耗、軽傷二、重傷なし、死亡なし。
処理時間、ジャサント、半歩二回、合計二歩。
未帰還者、サド・カル、目視なし、未確認のまま撤収。
進入限界、二本目の木、規定通り。
引きずり跡、地面、林の奥へ、最終目視位置から方向一致。
靴、片方、最終目視位置に残置、回収せず。
種別未確認個体、本日確認なし、要注視継続。
その下に、もう一行。
異議申立、ジャサント。
理由、未帰還者捜索の進入限界について。
処理、却下、ダグラス。
記録のみ。
明朝、規定改定議題、追加。
書きながら、彼女は炭を一度、止めた。
書かれた欄に、彼女自身の名が、二つ並んでいた。
担当者欄、ジャサント。
異議申立欄、ジャサント。
書かれた動作は、変わらなかった。
だが、書かれた欄の形が、これまでと違っていた。
彼女は炭を再び動かし、最後の一行を加えた。
戦闘中、視線、林の奥に半拍。
動作は止まらず。
書く欄ではないが、本人記載。
ジャサント、本日付。
書きながら、炭の戻りが、また半拍遅れた。
昨日と同じ半拍だった。
書く動作の中の半拍だった。
戦闘の動作には、半拍はなかった。
だが、書く動作には、半拍があった。
書く動作と、戦闘の動作は、別の幅で並んでいた。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じない。
明朝、規定改定議題で、欄が書き換わる可能性がある。
エルヴァが記録室の前を通った。
「ジャサント」
「はい」
「異議申立欄、本日付、確認しました」
「はい」
「却下、ですね」
「規定改定議題、明朝」
「分かりました」
エルヴァは少しだけ間を置いた。
「ジャサント」
「はい」
「炭の戻り、本日も半拍ですか」
「半拍です」
「書く時に」
「書く時に」
「戦闘中は」
「変わりません」
「分かりました」
エルヴァはそれだけ言った。
診断ではない。観察だった。
半拍、という言葉を、二日連続で、彼女が使った。書く動作の半拍が、二日連続で、欄の脇に残った。
「あの子は」
エルヴァが言う。
「机の左端、ノアと一緒です」
「ノアさんは」
「リィナさんの隣で、泣きません」
「本日も」
「四日連続です」
「分かりました」
「観察記録欄、追記します」
「お願いします」
エルヴァは隔離棟の方へ戻った。
リィナは机の左端で、ノアの脇に立っていた。
「ねえ」
リィナが言う。
「何ですか」
「サドの欄、書いた?」
「未確認、と書きました」
「いる?」
「氏名欄は残っています」
「いない、じゃないんだね」
「未確認です」
「うん」
リィナはうなずいた。
机の左端のノアの札の角を、もう一度整え直した。
ノアは、リィナの手の動作を見ていなかった。だが、ノアの手は、リィナの手の上に乗ったままだった。リィナはその手を、外さなかった。
「ねえ」
「何ですか」
「あなた、みたかったの」
「何をですか」
「サドが、いたかもしれないところ」
ジャサントは少しだけ間を置いた。
「視線を置きました」
「みたかった?」
「現時点では、確認できません」
「うん」
リィナは、うなずいた。
それ以上は問わなかった。
胸の内側に手をやる動作は、しなかった。
だが、机の左端のノアの札の角に置いた指の位置を、いつもより半拍長く、置いていた。
夕方、配給は半量で行われた。
リュドは軽傷者として、配給を受けた側にいた。左前腕の包帯は薄く、汚れていない。彼は配給台の脇で、振り抜きの控えた位置から、列を見ていた。剣の柄の外側に、指を置いていた。
未配給は、繰り越し一名のままだった。火床の脇の棚の奥には、昨日からの半分の乾パンが、まだ布に包まれて残っていた。氏名欄は、空白のままだった。書く対象が、まだ決まっていなかった。
ヨルの天幕は、片付けられていた。
リィナは、配給を受け取り、半分を口に入れて、半分を布に包んだ。胸の内側に入れる。今夜は、彼女の保存登録欄の三つの半分の隣に、もう一つ加わった。四つになった。彼女はそれを誰にも見せなかった。
ジャサントはそれを見ていた。
保存欄に追記する。
リィナ。保存登録、変動。
乾パン半、三から四へ。
自己保管、継続。
書きながら、彼女はリィナの方を見ない。書く欄を、見ていた。
夜が近づくと、中庭の声は少しずつ下がった。
煮炊き場の鉄鍋は片付けられた。配給帳の不足欄は閉じている。未配給繰り越しの欄は、まだ一のままだった。火床の脇の棚の奥に、半分の乾パンが一つ残っていた。誰の名で書かれるかは、決まらない。
ジャサントは記録室の灯りを点けた。
明朝の業務予定を書く。
規定改定議題、明朝、会議室、進入限界について。
サド・カル、未確認、保留、追加捜索、未定。
ヴィスタ、別班帰還、本日中、明朝報告予定。
ベルハイム、別班帰還、本日中、明朝報告予定。
ヨル、死亡確認済み欄、整理完了。
リュド・カイン、軽傷者欄、軽務復帰可、明朝より。
ガルド、軽務継続、機動予備指揮当分外、脇腹経過観察。
ノア、保護対象欄、机左端、据え置き、煮炊き場仮預け継続。
リィナ、現状維持、保存登録、四、立ち会い欄、規定外追記済み。
種別未確認個体、本日確認なし、要注視継続。
配給、半量継続、補充見込みなし。
担当者、ジャサント、変更なし。
その下に、もう一行。
観察記録、追記、本日付。
あの子は、リィナさんの隣にいると、泣きません。
所見二者連名、四日連続。
処理、現状維持、要継続観察。
その下に、もう一つ。
異議申立、ジャサント、本日付、却下処理済み。
書く動作中、炭の戻り、半拍遅延、二日連続。
戦闘動作中、半拍、なし。
記録、本人記載。
砂を振る。
頁を乾かす。
閉じる。
机の上の帳面は、すべて閉じられた。
机の中央のベルハイムの束は、薄くなったままだった。
机の中央の隣のヴィスタの束は、署名札のないまま立っていた。
机の左端のノアの札は、束に入らないまま朝を待った。
机の右端のリュド・カインの欄は、軽傷者欄、軽務復帰可だった。
机の脇の観察記録欄は、四日連続の所見が並んでいた。
そして、新しく書かれた欄が二つ。
未帰還者、サド・カル、未確認、保留。
異議申立欄、ジャサント、却下、記録のみ。
書かれた欄だった。
書ける欄だった。
書かれた名は、彼女自身のものだった。
規定の中で、書く側だった彼女が、書かれる側にも、もう一段、近づいた。
進入限界の先に、サド・カルがいたかどうかは、未確認のままだった。
靴は、最終目視位置に残っていた。
引きずり跡は、林の奥へ続いていた。
彼女の視線は、戦闘中、半拍、その方向に置かれた。
動作は止まらなかった。
だが、視線は止まった。
書く欄ではなかった。
だが、書いた。
本人記載で、欄の隣に。
書かれた半拍は、消えなかった。
火床の方角で、煮炊き場の女が、夜の片付けの最後の桶を運んでいた。
保存欄の半分の乾パンは、棚の奥に残ったまま、明日も繰り越される。
リィナの保存登録は、四になった。胸の内側に、彼女の札と四つの半分の乾パンが並んでいる位置だった。
ノアは煮炊き場の脇の小屋で、煮炊き場の女の毛布の中に、また入った。
リュドは軽傷者の天幕で眠っていた。
ガルドは脇腹の包帯を新しいものに替え、自分の天幕で休んでいた。
リィナは東列の縄をくぐる前に、机の左端のノアの札の角を、もう一度だけ整え直した。
「リィナ」
ジャサントが言う。
「うん」
「東列の縄をくぐってください」
「あした、ここにいる」
「明日です」
「うん」
「今は戻ってください」
「うん」
リィナはうなずいた。
机の左端から半歩、離れた。それから、もう半歩、離れた。二歩で、机から離れた。振り返らなかった。胸の内側を押さえなかった。だが、東列の縄の前で、一度だけ立ち止まった。
「ねえ」
リィナが言う。
「何ですか」
「サド、いる?」
「氏名欄は残っています」
「いた?」
「現時点では、確認できません」
「うん」
リィナは、それだけ言った。
振り返らずに、東列の縄をくぐった。
ジャサントは記録室の灯りを消した。
戦闘記録は閉じない。
異議申立欄は、本日付で却下、記録のみで残った。
サド・カルの氏名欄は、未確認のまま、保留欄に残った。
ヨルの氏名欄は、死亡確認済みの束に残った。
名前のあった人が、名前のあったまま、別の欄に移った。
名前のあった人が、名前のあったまま、未確認の欄にも残った。
書かれた名前は、消えなかった。
戦闘の動作には、半拍は、なかった。
書く動作には、半拍があった。
視線にも、半拍があった。
半拍は、書く欄ではなかった。
だが、書いた。
本人記載で、二日連続で。
書かれた欄。
書ける欄。
書かなければならない欄。
そして、書く時に半拍遅れた欄。
さらに、戦闘中に視線が半拍置かれた欄。
それぞれが、別の位置に並んでいた。
サド・カルは「未確認」と書かれた。
ジャサントの異議申立欄は、却下と書かれた。
進入限界の先に、彼の靴だけが残っていた。
書く対象に名前があった人が、書く欄の中で、別の位置に移っていく。
規定の中で、書く側だった彼女が
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