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荒野に命令は生きている  作者: ほらほら
第十七前進補給デポ
6/9

主体なき命令

再生医療補助区画の脇には、小さな前室があった。

本来は洗浄や簡易診断に使う場所だったのだろう。

今はベッドが一つ、折りたたみ椅子が二脚、乾いた布と古い医療箱が残るだけだ。


クロムウェルは女をそこへ移した。

エミリが毛布を持ってくる。

女はそれを受け取ろうとして、途中で手を止めた。

クロムウェルを見る。


「使用許可を」


エミリが眉をしかめた。


だが、女は真顔だった。


「支給品の使用許可を求めます」


クロムウェルは短く言う。


「許可する」

「了解しました」


それでようやく、女は毛布を肩へ掛けた。


エミリが小声で言う。


「……何これ」


クロムウェルは答えない。

女はまだ少し震えていた。

覚醒直後の低体温なのか、別のものなのかは分からない。

目だけは妙に静かだった。

静かすぎた。


クロムウェルは向かいの椅子に座った。


「識別番号以外に、名前はあるか」


女は少しだけ目を伏せる。


「登録上の呼称は未付与です」


「お前自身の認識は」


わずかな間。


「……ミナ」


言ったあとで、女は少しだけ首を傾げた。


「いえ」


すぐに訂正する。


「R-09-17-Aです」


エミリが口を挟む。


「今、ミナって言ったじゃん」


女はエミリを見た。

その視線には敵意も困惑もなかった。

ただ、問いの意味が分からない者の目。

「発話誤差です」

「誤差って」

「命名情報の残留片と思われます」


エミリが何か言いかける。

だが、言葉が出なかった。


クロムウェルが問う。


「覚醒前の記憶はあるか」


女はしばらく黙った。

視線が、どこにも定まらないまま揺れる。


「保全槽」


「それ以前だ」


「……白い天井」


「それ以前」


「声」


クロムウェルは待つ。

女の口が、少しだけ開く。


「西部第九区画、移送遅延、登録照合、被験……」


そこで言葉が切れた。

女の眉間に薄い皺が寄る。


「すみません」


謝る口調だけが、妙に自然だった。


「記憶の整列が不完全です」


エミリが腕を組む。


「整列って、あんた……」


女は視線だけ向けた。


「記憶領域に混線があります」


「それ、自分で分かるの」


「はい」


「嫌じゃないの」


女は少し考えた。

その間の取り方まで、どこか訓練されていた。


「……不便です」


エミリは口をつぐむ。


AIの声が前室にも届く。


『人格安定性試験を開始します』

『再生個体R-09-17-A、現地責任者の指示を待ってください』


女は即座に背筋を伸ばした。


「了解」


クロムウェルのこめかみがわずかに動く。

エミリが天井を睨む。


「誰も開始しろなんて言ってないけど」


『確認事項の完了を優先します』


「それやめろって言ってんの」


『入力を認識できませんでした』


「認識しろよ」


AIは返さない。


クロムウェルが立ち上がる。


「中央端末へ戻る」


女の目が上がる。


「同行します」

「必要ない」

「上官殿の安全確保と当該個体の引継ぎ完了が未達です」

「命令か」

「残置手順に基づく行動です」


クロムウェルは少しだけ黙った。

それから背を向ける。


「ついてこい」


女はためらわず立ち上がった。

毛布を整え、その端を腕に巻きつける。

動きは不安定だが、妙に無駄がない。


エミリがそれを見て、低く呟いた。


「……ほんとに従うんだ」


女は答えなかった。

あるいは、その言葉を自分に向けられたものと認識しなかったのかもしれない。



中央区画へ戻るあいだ、女はクロムウェルの半歩後ろを歩いた。

距離が一定だった。

足音も、歩幅の乱れのわりには規則的だ。

それがかえって不自然だった。


エミリは何度か振り返っては、女を見る。

最後には我慢できなくなったらしい。


「ねえ」


女は少し遅れて視線を向ける。


「はい」


「はい、じゃなくてさ。あんた、ほんとに自分でそうしたいの?」

「そう、とは……何を指しますか」


「だから、その上官殿とか言ってついてくるの」


女は少し考えた。


「命令系統の確認は安定に寄与します」


「安定?」

「行動指針が明確になります」

「それって、楽だからってこと?」

「……近いです」


エミリは顔をしかめる。


「楽じゃなくても、自分で決めたほうがよくない?」


女はその問いに、今度は長く沈黙した。

通路の青い灯りが、頬の線を薄く浮かび上がらせる。

やがて彼女は言った。


「自分、という単位が、まだ安定していません」


エミリの足が一瞬止まる。

女は続けた。


「なので、命令があるほうが誤差が少ない」


その声は静かだった。

静かすぎて、かえって嫌だった。


クロムウェルは前を向いたまま問う。


「複製元の記憶が残っているのか」


女の歩調がわずかに乱れる。


「……断片的に」


「誰のものだ」


「不明です」


「自分ではないのか」


「不明です」


女は少しだけ唇を湿らせた。


「ただ、ときどき」


「何だ」


「知らないはずの場所に、懐かしさがあります」


エミリが何も言わなくなる。

女はさらに低く言った。


「あと、人の死をひとつ知っています」


クロムウェルの足が止まりかける。


「誰のだ」


女は首を振った。


「顔がありません」


その言い方が、なぜかひどく生々しかった。


中央区画に戻ると、端末の待機灯が強くなった。

管理AIが彼らの接近を認識したのだろう。

画面に文字が走る。


再生個体R-09-17-A

人格安定性 試験中

命令受容性 良好

移送状況 保留

残置命令 有効


クロムウェルはその最後の表示を見た。


「残置命令」


『はい』


「内容を表示しろ」


画面が切り替わる。

古い文書形式。

差出元は文字化けし、署名欄の半分は消えていた。

だが本文は読めた。


再生個体R-09-17-Aは西部接続線移送計画凍結に伴い、第十七前進補給デポ内保全待機とする。

代行責任者到着まで施設離脱を禁ず。

引継ぎ未了の場合、現地責任者は当該個体を資産区分に基づき現状維持せしめること。

命令解除権は上位照会による。


エミリが吐き捨てる。


「資産区分」


クロムウェルは黙って文面を読む。

女はその横で直立していた。

まるで自分のことではない書類を見せられているみたいに。


「解除権限はあるのか」


クロムウェルがAIに問う。


AIはすぐには答えなかった。


『上位照会を実施します』


画面に横線。

接続失敗。

再照会。

失敗。


しばらくして、平板な声が返る。


『中央ノードとの接続は存在しません』


エミリが言う。


「じゃあ無効じゃん」


『命令の無効化は確認できません』


「は?」


『有効期限の失効記録が存在しないため、残置命令は保留状態で継続します』


「継続って、誰もいないのに?」


『記録上、命令は残存しています』


エミリは両手を広げた。


「頭おかしいだろ」


『入力を認識できませんでした』


「便利だねその返し」


クロムウェルは端末から目を離さない。

文面の下。

署名欄の脇に、薄く別の手書きが残っていた。


急ぎ戻る。移送は後日再開。個体は保全優先。


それだけ。

走り書き。

書いた人間の名も、もうない。


女が静かに言う。


「上官殿」


クロムウェルは振り返る。

女は背筋を伸ばしたまま、しかし目だけが少し揺れていた。


「当該命令は有効です」

「そうだな」

「よって、私は本施設に残置されます」


エミリが即座に言い返す。


「いや、だからそれ無効みたいなもんでしょ」


「無効の確認が取れていません」


「取れないだけじゃん」


「はい」


「だったら出ればいい」


女はエミリを見る。

その視線の先に、困惑はなかった。

むしろ、理解しかねるものを見る静かな距離があった。


「施設離脱は命令違反に該当します」


「誰にとっての違反よ」


「……私にとって」


エミリの口が止まる。

クロムウェルはその言葉を聞いて、視線を落とした。



簡易居住区画で、三人はしばらく黙っていた。

AIが支給した保存水と携行食が、金属机の上に並んでいる。

女は水を前にしても、許可を求めた。

クロムウェルが頷くと、ようやく口をつける。

飲み方まで、妙に丁寧だった。


エミリが苛立ったように言う。


「疲れないの、それ」


女は水筒を置く。


「何がですか」


「いちいち許可取るの」


「必要な手順です」


「必要じゃなくてもやってるでしょ」


女は答えなかった。

少ししてから、静かに言う。


「やらないと、輪郭が薄れます」


エミリが眉をひそめる。


「輪郭?」

「自分のです」


部屋が静かになる。

クロムウェルは水の栓を閉めたまま、女を見た。


女は視線を机の上へ落としていた。

そこにあるのは、配給皿、乾燥肉、毛布。

補給デポのありふれた備品。

ありふれているのに、彼女にとっては全部がまだ仮のものらしかった。


「たまに」


女がぽつりと言う。


「違う名前が浮かびます」


エミリが顔を上げる。


「ミナ?」


女の指先が、わずかに止まる。


「……はい」

「それが、複製元の名前?」

「不明です」

「でも気になるんでしょ」


女は少し考えてから首を横に振った。


「気になる、ではなく」


そこで言葉を探すように口を閉じる。


「戻り先のように感じます」


エミリは何も言えなかった。


クロムウェルが低く問う。


「なら、その名で呼ばれたいか」


女は顔を上げた。

一瞬だけ、その目に揺れが走る。

期待に似たもの。

だが、それはすぐに消える。


「……不適切です」

「なぜだ」

「当該個体はR-09-17-Aです」

「それは識別番号だ」

「はい」

「名前じゃない」


女は少しだけ首を傾げた。

その仕草が、奇妙に幼く見えた。


「違いが、まだ確定していません」


クロムウェルは口を閉じる。

それ以上、何も言えなかった。

その夜、エミリはなかなか眠らなかった。

寝具に入っても何度も寝返りを打ち、天井を見ていた。

女は入口の近くの椅子に座り、眠ろうとしなかった。

いや、眠る必要が薄いのかもしれない。

時々、廊下の音に耳を向ける。

誰かを待つみたいに。

クロムウェルは壁際で目を閉じていた。

だが、眠ってはいない。


暗い部屋の中で、エミリが小さく言った。


「ねえ」


返事はない。


「クロムウェル」

「何だ」

「命令、解けないの」

「分からん」

「やる気になれば?」


クロムウェルはしばらく黙った。


「……できるかもしれん」

「じゃあやればいいじゃん」


その言葉に、すぐ返事はなかった。

やがて、低い声が落ちる。


「それが救いとは限らん」


エミリが身を起こす。


「なんで?」

「命令だけで形を保っている相手から、それを奪うことが、だ」


そこで彼は言葉を切った。

エミリは怒ったように息を吐く。


「だからこのまま置いてくの?」


クロムウェルは目を開けない。


「……分からん」


その返答が、たぶん一番ましな、正直さだった。



朝、女はすでに起きていた。


というより、夜のあいだ一度も姿勢を変えたように見えなかった。


簡易居住区画の外、中央区画の棚の前に立っている。



棚のラベルを読んでいた。

保存水。予備フィルター。止血剤。

その一つひとつを確認し、整えている。

誰に言われたわけでもなく。


エミリが近づく。


「何してんの」


女は振り向く。


「在庫確認です」

「なんで」

「残置手順の一環です」

「まだ言ってる」


女は少しだけ間を置いた。


「……やることがあるほうが、安定します」


エミリは何か言い返そうとして、やめた。


代わりに棚から靴下の束をひとつ掴み、女へ投げる。

女は反射的に受け取る。


「それ、支給」

「許可を」

「私がする」


女は少し考え、頷いた。


「了解」


そのやりとりが妙に可笑しくて、エミリは笑いそうになる。

だが笑えなかった。


クロムウェルは中央端末の前に立っていた。

画面には相変わらず残置命令の文面。

彼はしばらくそれを見ていたが、やがてカードを差し込み、何かを入力した。


命令解除。

確認。

上位権限照会。

失敗。

再入力。

失敗。


次に、命令保留の追認。

こちらにはすぐ応答が返る。


『記録を更新しました』


クロムウェルの顔に、何の感情も浮かばない。


エミリはその背中を見ていた。

何をしたのか、察したらしい。

何も言わなかった。

言えば何かが壊れる気がしたのだろう。


出発の準備は短かった。

水。携行食。記録資料。

整備したライフル。

エミリの工具袋。


それだけだ。


荒野へ戻るには十分で、誰かを一人連れ出すには足りない量だった。


女はデポの入口まで二人を見送った。

もう毛布ではなく、簡素な作業衣を着ている。

支給棚にあったものをAIが許可したのだろう。

サイズは少し大きい。

だが、見た目だけなら、ただの施設要員に見えた。


朝の光が扉の隙間から差し込む。

荒野の砂色が、青白い通路の奥に細く伸びている。


女はその境目の手前で止まった。

それ以上は出ない。

出られないのではなく、出ないのだと分かる立ち方だった。


「上官殿」


クロムウェルが振り返る。

女はまっすぐに立っていた。


「第十七前進補給デポ、再生個体保全番号R-09-17-A」


少しだけ間。


「残置命令に従い、施設待機を継続します」


声は静かだった。

泣きもしない。

縋りもしない。


ただ報告する。


エミリがたまらず言う。


「ねえ」


女の目が向く。


「もしさ」


エミリは言葉を探した。


「もし命令とか関係なくなったら、そのときは……出なよ」


女は少しだけ考えた。

その表情に、初めて人間らしい迷いが浮かぶ。

だがそれも、すぐ静かな形に戻った。


「検討します」

「硬いなあ」


エミリは無理に笑った。

女はその笑いを、うまく理解できないものみたいに、見ていた。


クロムウェルが扉へ手をかける。

女が最後に言う。


「照会番号をお持ちでしたら、次回提示をお願いします」


エミリが顔をしかめる。


「最後までそれ?」


女はほんの少しだけ目を伏せた。


「……そういう話し方しか、まだうまくできません」


その一言で、エミリの口が閉じる。


クロムウェルはしばらく女を見ていた。

R-09-17-A。

あるいは、ミナ。

それとも、どちらでもない何か。


彼は何か言うべきだったのかもしれない。

命令のこと。名前のこと。

あるいは、待つ必要などないと。

だが結局、口から出たのは別の言葉だった。

下らない、優しさ。

人は、どうでも良いことほど、そして大事なことほど……

それすら、蛇足だ。


「水の配分を間違えるな」


女は即座に頷いた。


「了解」

「棚の左列、下から二段目に予備フィルターがある」

「確認済みです」

「夜間は中央区画より奥へ下がれ。入口は風を拾う」

「了解」


クロムウェルはそれ以上言わなかった。

言えなかった。


エミリが先に外へ出る。


朝の荒野はもう明るい。

風が砂をさらっていく。


クロムウェルも一歩、外へ出た。


背後で、防爆扉がゆっくり閉まり始める。

その隙間の向こうに、女はまだ立っていた。

青白い通路の中、まっすぐに。

待機姿勢のまま。

まるで、自分が人間ではなく、未完了項目の一つであることを受け入れたように。


扉が閉まる直前。

女の口がわずかに動いた。

音は届かなかった。

だがクロムウェルには、なぜかその形が読めた気がした。


さようなら、ではない。

了解、でもない。

たぶん、もっと前の、誰か別の口癖だ。


防爆扉が閉じる。

重いロック音。

それで終わった。


荒野には風しかない。


エミリはしばらく何も言わずに歩いた。


やがて、低く言う。


「……置いてきたね」


クロムウェルは答えない。


「助けたんじゃなくて、確認して終わっただけだ」


返事はない。

エミリは唇を噛む。


「最低」


クロムウェルは前を向いたまま歩く。



その背中に向けて言ったのか、自分に向けて言ったのか、エミリにも分からなかった。


しばらくして、デポの内部から、かすかな館内放送が風に乗って聞こえた。

遠すぎて途切れ途切れだ。

だが言葉の断片だけは届く。


『……在庫確認を開始します』

『……待機を継続してください』

『……未実施項目、三百二十一件』


エミリは振り返らなかった。

クロムウェルも、振り返らなかった。


ただ、二人のあいだに、ひとつのことだけが残った。


命令がなければ立っていられない人間がいる。

そして、自分たちはそれを置いていける。


朝の荒野は明るい。

明るすぎて、何も救わない。

その光の中を、二人は歩いていった。

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