未処理個体
物流記録室を出ると、通路の空気はさっきより少しだけ冷えていた。
気のせいではない。
デポの深部で、止まっていたどこかの空調系か、保全系統のひとつが息を吹き返したのだろう。
青白い灯りの下、細かな埃が流れるように動いている。
クロムウェルは紙束を脇に抱え直した。
道路計画図。住民登録要綱の抜粋。西部接続線第九区画の停止報告。
エミリはその横で顔をしかめている。
「ねえ」
「何だ」
「このデポ、さっきからちょっとずつ起き«・・»てない?」
クロムウェルは答えず、中央区画へ目を向けた。
棚の陰。端末の待機灯。通路の先。
どこも見た目は変わらない。
だが、聞こえる音が増えていた。
遠くで、規則正しい低い駆動音。
周期の短いリレーの切り替え。
配電が、どこか別の系統へ回り始めている。
管理AIの声が、天井のスピーカーから落ちてくる。
『未実施項目の一部を再開します』
『保全優先順位を再評価中です』
『人員配置状況を確認……現地責任者一名、補助技術軍属一名を検出』
エミリが顔を上げた。
「嫌な言い方」
クロムウェルは足を止める。
「再評価再開はどの系統だ」
『再生医療補助区画における未処理案件を確認しました』
エミリの眉が上がる。
クロムウェルの目が細くなる。
『確認事項、三百二十六件中、三百二十二件を留保』
『残件四件を順次処理します』
「待て」
クロムウェルが低く言う。
「再生医療補助区画だと?」
『はい』
「この施設に、生体設備があるのか」
『第十七前進補給デポは復興支援拠点への再指定に伴い、再生個体一時保全槽を増設されています』
エミリが小さく息を呑んだ。
「それって、どういう……」
『西部接続事業における移送待機個体の短期安置を目的とします』
クロムウェルはすぐに中央端末へ向かった。
紙束を机へ置き、画面に手をかざす。
「該当区画を表示しろ」
モニターが点灯する。
施設簡略図。
物資庫、整備室、簡易居住区画、物流記録室。 そのさらに奥。
通常の補給デポには不要な、細長い付属区画が表示された。
再生医療補助区画一時保全槽。
エミリが画面を覗き込む。
「そんなの、最初から出てた?」
「出ていない」
『上位照会に基づき、限定開示を実施しました』
「勝手にか」
『未処理案件の遂行には現地責任者の関与が必要です』
クロムウェルの口元がわずかに硬くなる。
その顔を見て、エミリが低く言った。
「……ねえ、不穏な気配しかしないんだけど、行くの?」
「行く」
「やめたほうがいい、って言っても?」
「未処理のままにしたほうが悪い」
エミリは少しだけ黙った。
それから肩をすくめる。
「ほんと、そういうとこ真面目」
「そうしないと死ぬ」
「はいはい」
彼女の声は、少し、乾いている。
*
再生医療補助区画は、中央区画のさらに奥にあった。
兵器庫側とは逆。
物流記録室の裏を抜け、薄い隔壁を二枚越えた先。
通路は狭く、壁の色が違う。
補給デポ本体のくすんだ灰色ではなく、わずかに青みを帯びた白。
ところどころに、古い衛生標識が残っている。
生体資産取扱区画
無認証接触を禁ず
汚染防止手順を遵守
エミリがその文字を見て、口元を歪めた。
「生体資産」
クロムウェルは何も言わない。
区画の入口には、半分だけ沈んだ認証パネルがあった。
カードスロットは古く、周囲には乾いたひび。
クロムウェルが認証カードを差し込む。
一瞬の沈黙。
つづいて、奥でロックが外れる音。
扉はゆっくり左右に開いた。
中は寒かった。
補給デポの冷え方とは違う。
湿度が抑えられ、空気が薄い。
細長い部屋の壁際に、透明な保全槽が四基並んでいた。
うち三基は暗い。
内部の液体は抜かれ、配線だけが垂れている。
一基だけ、淡い緑色の警告灯が点いていた。
エミリが一歩、足を止める。
「……入ってる」
クロムウェルは答えない。
保全槽の前へ進む。
透明なカバーの向こうに、人影があった。
女だった。
年齢は二十前後に見える。
痩せている。
肌は白いというより、長いあいだ光を知らなかった色だ。
黒髪が液体の中でゆるく揺れている。
身体には最低限の保護布だけ。
鎖骨の下、首筋、肋骨の脇に、小さな接続端子の痕跡が残っていた。
目は閉じている。
だが死体には見えなかった。
胸郭が、ほんのわずかに上下している。
エミリが小声で言う。
「……生きてるの?」
『未処理案件、再生個体保全番号R-09-17-A』
AIの声が部屋の隅から流れた。
『移送凍結に伴い、長期保全待機状態へ移行』
『最終確認後、覚醒手順が未完了です』
「待て」
クロムウェルが言う。
心なしか、声が少し高い。
「覚醒させるつもりか」
『確認事項を完了するために必要です』
「必要ない」
『当該個体の状態確認、人格安定性試験、命令受容性評価、および引継ぎ手順が未実施です』
エミリが顔をしかめた。
「気持ち悪いな……」
クロムウェルは保全槽を見たまま言う。
「凍結を継続しろ」
『現地責任者権限を確認中』
わずかな間。
次に返ってきた声は、少しだけ機械的な硬さを増していた。
『保全槽の継続運用には消耗資材が必要です』
『当該施設の縮退維持モードにおいて、継続保全は推奨されません』
「推奨の問題ではない」
『未処理案件の完了を優先します』
警告灯が黄色から白に変わった。
保全槽の内部で、液体がゆっくり排出を始める。
エミリが一歩前へ出る。
「ちょっと!」
クロムウェルはとっさにカバーへ手をかけた。
だがもう遅い。
内部の液が足元の排水溝へ落ち、細い蒸気が立つ。
女の身体が前へ傾く。
クロムウェルは迷わずカバーを開け、倒れてきた身体を受け止めた。
冷たかった。
妙に軽い。
女はかすかに咳き込み、喉の奥から液を吐いた。
閉じていた瞼が震え、ゆっくり開く。
濡れた黒い瞳が、焦点の定まらないまま天井を見た。
視線が揺れる。
エミリ。
クロムウェル。
壁。
灯り。
そして、クロムウェルの肩章の痕跡。コートの内側に残る、古い階級記章の留め具。
女の目が止まった。
数秒。
それから、反射のように身体が動く。
彼女は無理に体勢を起こそうとし、片膝をついて失敗し、床に手をついた。
それでも、頭を下げる。
「……再生個体保全番号、R-09-17-A……」
声は掠れている。
だが発音は妙に明瞭だった。
「覚醒確認。現地責任者権限照合を要求します」
クロムウェルは黙って見ていた。
AIが即座に応じる。
『当該施設における最上位有効権限を確認』
『連合軍第三方面軍司令部付き特技戦術官、クロムウェル特務中尉』
『未移送再生個体R-09-17-Aの暫定指揮権を付与します』
女の姿勢が、ほんのわずかに固まる。
次の瞬間、彼女は胸に片腕をついた。
背筋を伸ばし、顔を上げる。
動きはぎこちない。
だが、形式だけは正確だった。
「……上官殿、ご命令を」
エミリが息を止める。
クロムウェルの顔から、表情が消えた。




