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9 絡め取る指先

 これが最後になるからと、花園の世話は敢えて手袋を嵌めずに行った。庭師が見たら卒倒するだろうか。戻ったら、土と緑の匂いにまみれたこの手は薔薇の香りのするソープで綺麗に洗ってしまえばいい。植え替えも水遣りも完璧なまでに終わらせた。柔らかな陽射しに照らされて機嫌が良いのか、美しい庭は躍起になって彼女を閉じ込めようとする。後ろ髪を引かれながら、心の拠り所であったその場所に別れを告げた。蒼々と咲く薔薇を一輪だけ手折り、棘に触れぬようそっと摘んで連れて行く。

 透明度の高い硝子の花瓶は蒼を一層美しく見せる。屋敷の使用人は皆明日の準備に忙しなく、自分の出る幕はもう当日までほぼ無いと言ってもいい。どこか他人事のようにぼんやりとその様子を眺め、部屋に戻って暫くの間無造作に活けた蒼薔薇を見つめていた。

 命を懸けてまで自分を永らえさせてくれたあのひとに、してあげられる事が何一つ無いのが悔やまれてならない。彼の願いは、望みは、ただ自分が生きていてくれれば良い、それだけだったのだから。ならば己の願いは?

 ――コンコン。重厚な扉を叩く音は思ったよりも軽やかだった。覚えのない訪問者に思考を中断し、戸惑いながら返事を返す。

「息災か、セレスティア。久しいな」

「お父様!」

 輿入れまでに戻ると暫く仕事で家を空けていた父が帰ってきたようだ。いつもなら召使が父の部屋に来るよう呼びにくるのに、わざわざ娘の自室に訪ねて来るのは珍しい。

「嫁入り前の娘と二人で話がしたかっただけなのだ。召使に、体調が芳しくないと聞いたが……」

「少し休んだら良くなりました。明日までには調えます」

「そうか」

 普段から父は多忙で、なかなかこうして話す機会もこれまでに無かった気がする。血を分けた家族なのに、物心ついてからは一歩引いたように接していたようにも思う。嫁ぎ先は交流の深い侯爵家とはいえ、この家を去ればもう戻ることも叶わない。

「おまえは、これで良かったのか」

「……お父様?」

「あちらからの申し出に、母や召使らと共にこの世の春とばかりに喜ばしく思い、おまえも同じ気持ちなのだと疑わず快諾した。だが、本当にこの家からおまえが去ると思うと、今更ながらに構ってやれなかった後悔が押し寄せるのだ。仕事にかまけて、娘の本当の気持ちを汲み取ってやれていなかったのではないかとな」

 セレスティアは驚きに目を丸くした。父は、自分の事を良家と姻族になる為の道具として見ているのだと思っていた。嬉しく思うと同時に虚しさも込み上げる。今更どうしようも出来ないではないか。

「明日、なのですよ」

 少しばかり非難が含まれた物言いとなってしまったが、父は咎めない。ハッと気付いて、言葉を続ける。

「わたくしに異存はございません。お父様がお気になさることは、何も」

 心配してくれたことに素直に感謝の言葉を告げながら、まるで感情が籠もらないことに自分でももどかしくなる。ほんの僅かな声の震えを、父は感じ取っただろうか。

「望むのであれば、如何様にも出来る」

 最後にそう言い残し部屋から出て行く父の背は、幼い頃に縋り付きたくても出来なかった畏怖を変わらず感じさせた。ただ、以前のような近寄り難さは今はもう微塵も感じられなかった。


 晩餐の迎えが来るまでの記憶がぷっつりと途切れていた。と言うよりは、ただ一つのことしか考えられなかったのだ。それに付随するいくつかの物思いは結局は全て同じ方向に集約される。せっかく決意したのに、惑わせないで。でも、まだ、今ならば。相反する気持ちがせめぎ合い、その度にフォークやスプーンを取り落としては母に心配させる。何も余計なことは言わず新しいものを持ってきてくれる召使達も内心は心穏やかでなさそうだ。

 食事を終え、父母と子以外の者は部屋から居なくなった。最後の夜を家族で過ごせるようにとの配慮なのだろう。少しお酒の入った母は上機嫌で良く喋る。上の空で聞き流していると、今まで沈黙を貫いていた父が口を開く。

「覚えているか。幼い頃に、酷い発作が起こって三日ほど寝込んだ事を」

「……はい」

「ようやく目が覚めたその日、召使が目を離した隙におまえはいなくなってしまった」

 忘れるはずもない。運命と呼ばれるものがあるならば、分かれ道はきっとそこだった。

「だがいつの間にかおまえは戻ってきていて、泥まみれの傷だらけで肝を冷やしたが……そこからの回復は医者も舌を巻くほどだった。今、ここまで立派に育ったおまえを目の前にすると、感慨深いものがある」

 まるで促すような穏やかな声音だった。歩き始めようとする赤子を、手を大きく開いて導くかのように。

「……お父様、お母様」

 言葉だけはしっかりと紡いでも、身体の震えだけは禁じ得なかった。心の中に押し留めるはずだった感情が勝手に零れ出していく。

「わたくしは、あの日、死んだも同然だったのです。今、ここに在るのは奇跡でも何でもない、……ここにいてはいけない存在なのです」

 身を乗り出そうとする母を父が制するのが見える。全てを曝け出す事は、全てを否定する事なのだ。八年前そのまま命を落としてしまえれば、親不孝も一度で済んだだろうに。

「この命を、わたくしは返さねばなりません。全てを与えてくれたあの方に」






 ゆるやかな部屋着姿も、少し乱れた髪の毛の先がふわりと揺れるのも、まるで切り取った記憶をそのまま再生したかのようだった。ただ確かに違うのは、目の前の少女はあの時よりもずっと大人になって、泥にも血にもまみれずにいた。この場所まで駆けて来ていたのか、頬がほんのりと紅潮し息も上がっているようだ。

「何故、呼んだ」

 路地裏の暗がりで対峙する男と女の姿は、夜闇に紛れて互いしか見えない。眉根を寄せた青年の表情には困惑が見て取れる。辺りに充満する強い香りが思考すらままならなくさせる。少女の足元は、無惨とも言えよう程に粉々に散った硝子の破片で覆われていた。覚えの有る花の細工に、いつも愛用していた美しい香水瓶を思い出す。ベッドサイドでランプの輝きを上品に反射していた記憶が鮮明に現れる。

「何も、要らないの」

 子ども染みた口調を乗せる唇は、反してひどく扇情的で、目を逸らそうにも逸らせない。

「……もう、戻れないぞ」

 元より戻すつもりも無いと、聡い彼女であれば解っているだろう。骨張った指先でそっと顎を持ち上げれば、柔らかく微笑む姿に胸が熱くなるのを感じる。

「連れて行ってくれるでしょう?」

 しなやかに触れた彼女の手を取り、唇を押し当てる。掌に懇願の口付けを、指先に賛美を。

「その前に、貴方の名前を呼びたいわ」

 背中に回された腕は緩む事無く、耳元で小さく呟かれた言葉に少女は目を細めて笑う。

「いい名前ね。……シルヴェスター」


 辻風が砂塵を巻き上げ、硝子の欠片が夜空に溶けて星になる。二つの影も共に掻き消え、そこにあるのはただ静謐な光を放つ月明かりだけだった。

 星を象った小さな紫色の花が数輪、風の残り香に優しく揺れた。


『行きましょう、わたくしの吸血鬼さん』






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