第42話:22階における自己補修、および応急焼灼執行
22階には、古びたノーカーボン複写紙の饐えた臭いと、リノリウム床の洗浄用工業溶剤の饐えた臭いが立ち込めていた。そこはビルの「デッドゾーン(死の領域)」だった。半ば解体された裏帳簿用の経理オフィスが広がり、ひっくり返された机や、天井から露出した腱のように垂れ下がるLANケーブルが寒々しく放置されていた。
山田は主荷重柱の根元にその身体を預けるようにドサリと座り込んだ。彼の三トンの質量が衝突した衝撃でコンクリート床板が激しく振動し、上の梁から石膏の粉塵が雨のように降り注いだ。
左脇腹には、骨スキ包丁の折れた刃が突き刺さったまま残されていた。第九肋骨と、不死鳥のサイバネティクス骨格の上縁との間に完全に挟み込まれていたのだ。それは決して綺麗な傷口ではなかった。1階ロビーの残留冷気によって急激に熱収縮を起こした高炭素鋼の刃は、内部で三つの湾曲した破片へと自ら粉砕しており、それが微視的な楔となってケラチン質の表皮組織が傷口を閉鎖するのを物理的に阻害していた。
互助会コートの裂け目からは、液状ホウ素がもはや滴るのではなく、一定の脈動を伴った濃厚な奔流となって湧き出していた。その蛍光オレンジのリンパ液は、安物のテラゾータイルの床に触れた瞬間、ジュウジュウと激しい音を立てて骨材を融解させ、アンモニアと硫黄の混ざり合う悪臭を放ちながら小さな煙るクレーターを次々と穿っていった。胸骨の精神の不死鳥は、致命的な熱質量喪失を警告する特有の低い紫色の明滅を繰り返していた。
山田には救急箱も、モルヒネも、そして時間もなかった。彼にあるのは、脳裏に完全に焼き付けられた『労働安全衛生規則第四十二条』の条文と、一本の太いグラファイトの鉛筆だけだった。
彼は灰色のコートに残されていた最後の3つのボタンを毟り取るように外した。その生地は極道たちの返り血と彼自身の冷却流体によって硬化し、板のように突っ張っていた。 (手榴弾)によって親指が砕けた右手を使い、彼は床に転がっていた古い五十センチメートルの木製定規の木製ノブを強引に掴み取った。それをそのまま口の奥へとねじ込み、石灰化した奥歯でそのニス塗りのブナ材を凄まじい力で噛み締めた。彼の玄武岩の歯茎がミシミシと軋んだ。
そして、彼は左の ſh 指を脇腹の開いた傷口へと直接突き入れた。
闇の中に響いたのは、ケラチン質が金属や人工肉組織と擦れ合う、鈍いグチャリとした不気味なマシニング音だった。悲鳴は一切なかった。しかし、彼の口の中で木製の定規は木っ端微塵に噛み砕かれ、玄武岩の歯茎に無数の鋭利な木片が突き刺さった。彼の指先は自らの横隔膜の暗闇を手探りで狂ったように這い回り、その指頭が最初の鋼鉄の破片を捉えた。山田は水道配管用のペンチ(プライヤー)のごとき容赦のない手首の回転で、それを力任せに引き抜いた。続いて二つ目。最後の包丁の破片が、温度によってすでに凝固し始めた黒い血の塊を纏って、チリンと高い金属音を立てて床へと転がり落ちた。
その瞬間、ホウ素の瀉血(出血)は倍加した。噴出する超高熱の熱流は二メートル離れたメラミン化粧板の机の脚にまで到達し、それを瞬時に不気味な青白い火炎で燃え上がらせた。
山田は脇腹から手を引き抜いた。右の眼窩は未だ虚ろで白煙を上げていたが、彼は唯一残された人間の左眼を、自らの右手のひらへとじっと据えた。彼は拳を極限まで硬く握り締め、前腕の通気管を完全に閉塞させることで、不死鳥のコアが発生させるカウンター圧力をその四肢の毛細管へと強制的に転流させた。
「……独自の手段による……、補完的調整(自己修復)」――口の中の噛み砕かれた木片の隙間から、彼はそう低く呪文のように呟いた。
電磁パルスが、一連の機械的な痙攣となって彼の腕を伝わっていった。右手の玄武岩の皮膚が徐々に半透明へと変わり、チェリーレッドの輝きを経て、わずか五秒の間に摂氏九百五十度の白熱化へと達した。拳の周囲の大気は激しい熱勾配によって完全に歪み、主荷重柱の影を陽炎のように不気味に揺らめかせた。
山田は一瞬の躊躇もなかった。彼はその九百五十度で白熱する自らの手のひらを、脇腹の開いた溶融穴へと直接、力任せに圧着した。
――ッス、ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス、ス。
22階の廊下は、木材の燃焼によるものではない、彼自身の細胞組織の気化(蒸発)から生じた濃厚な白煙で一瞬にして満たされた。その臭気は凄まじいものだった。焦げた毛髪、重機用の潤滑グリース、そして焼き尽くされる角質の臭いが混ざり合った、耐え難い悪臭。人工肉組織とケラチンプレートは彼の生命(熱量)の圧力の下でドロドロに融解し、エポキシ樹脂のように流動した後に、傷ついた肋骨の穴を完全に密閉する、黒くザラついた「硝子化」した硬い拒絶の外殻へと急速に凝固していった。
山田の肉体(構造体)が、激しいせん断振動の連鎖によって大きくガクガクと震えた。彼は左手の爪を主荷重柱のコンクリートへと深く突き立て、システムが内部の質量収支を再計算する間、柱の表面からコンクリートの塊をベリベリと引き剥がし続けた。
やがて、胸部の不死鳥の輝きは、消え入りそうな、しかし途切れることのない一定のオレンジ色へと安定した。紫色の明滅は完全に停止した。彼の喉からのガスの緊急排出は、氷点下三度の工業団地に停車する、ペガソ社製の大型ディーゼルトラックのアイドリングのごとき規則正しい排気音へと落ち着いていった。
彼は口の中から、完全に炭化した定規の残骸をテラゾーの床へとペッと吐き出した。たった今、自らを焼き切るトーチとして使用し、指先に自分自身の皮膚の融解組織を付着させたままの煙る右手で、彼は床から青いゴム引きのノートを静かに拾い上げた。手のひらの残り熱がページの端を黒く焦がしたが、赤ペンで書かれた記述は未だ完全に判読可能だった。
彼は23階へと続く階段の手すりに体重を預けた。左足の引きずりは先ほどよりも確実に軽減していた。焼灼の超高熱が、左脚の破断した腱を荒々しいスラグの溶接によって一時的に結合させていたのだ。
――カン、カン、カン。
非常階段の吹き抜けに響くエコーの音質が、先ほどとは明らかに変化していた。それはもはや、引きずられる金属ゴミの音ではなかった。それは、石の台座の上に容赦なく打ち下ろされる「金床」の物理音だった。
34階。内藤慶次は、22階のコンクリート床板が急激な冷却によってミシミシと爆裂を立てて収縮していく音を、その耳で確かに捉えていた。互助会の公務員は、自らの身体に対する「応急自主補修調書」への署名を完了し、再び冷徹にその行進を再開したのだ。
【作者より一言】
第42話をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は山田先生の執念と「公務員としての異常な耐久性」が限界突破したエピソードです。麻酔も医療機器もない絶望的な状況下で、労働安全衛生規則第42条を脳内に浮かべながら、950度の熱を帯びた自らの手で脇腹の傷口を「硝子化(ガラス化)」させて強制密閉するシーン。そのディテールと工業的な悪臭の描写は、読んでいてこちらまで熱痛が伝わってくるような緊迫感でした。
折れた定規を噛み締め、船舶用ディーゼルのようなアイドリング音を響かせながら復活する山田先生。もはや「金属ゴミを引きずる音」から「石を打つ金床の音」へと変わった階段の足音が、内藤への絶対的な死の宣告として響き渡ります。
「950度で肉体を焼き溶かしてセメントのように固める発想が凄すぎる」「Pegasoのトラックに例えられる山田先生の駆動音が渋い!」など、皆様からの熱い感想、評価、ブックマークをお待ちしております!
次回第43話、残るフロアを一気に踏破。34階の内藤慶次、ついに監査官を視界に捉えるか!?




