第37話:丙号画地の飽和、および化学的揮発度の差押執行
長田区の公営団地C棟を包む沈黙は、決して穏やかなものではなかった。それは、五十年間も線路から吐き出される煤煙を吸い込み続けてきた、安物のコンクリート建築特有の重苦しい静寂だった。午前三時四十分、裏路地で響く唯一の音は、エアコンの室外機から滴り落ちる凝縮水の音と、都市ガスの低圧供給弁にかけられたモンキーレンチが立てるカチリという金属音だけだった。
内藤の息の (配下)である3人の男たちは、廃車置場の重機を解体して育った者たちの機械的な手際で、暗闇の中で作業を進めていた。彼らは大型トラック用の強化高圧ホースを、三十キログラム入りの工業用液化プロパンボンベに接続し、その反対側の端を、外付けの非常階段からアクセスできる3階の浴室換気口の隙間へと直接突っ込んでいた。
気体の注入が始まった。人間の耳には知覚できないほどの微細な風切り音(シューという音)を立てて、目に見えない濃密な流れが、重力に従って山田の部屋のテラゾー床(人造大理石)の表面を這うように覆い尽くしていった。床すれすれの酸素を致命的なまでの緩慢さで押し出しながら、ガスは部屋を満たしていく。
---
ホースを介して伝わってくる、プロパンが内部へと流動していく微かな振動だけが、内藤の計画が順調に進行していることを示す唯一のインジケーターだった。実行犯の極道たちは、突き当たりの階段の踊り場で息を潜め、ライターを握りしめながら、薄い合板のドアの隙間に視線を釘付けにしていた。
1.【地表の飽和】午前3時45分
大気よりも重いプロパンガスが、部屋の廊下を水没させていく。ガスはドアの隙間を抜けてキッチンへと侵入し、デコラ板のテーブルの脚と、喘息のような駆動音を響かせるナショナル製の古い冷蔵庫の底部を包み込んだ。浴室内の爆発下限界メーターは2.1%に達した。
2.【異常体の検知】午前3時52分
奥の居間で、山田は教職互助会のグレーの上着をキッチンの椅子の上に几帳面に畳んで眠っていた。彼は人間のような呼吸をしてはいなかった。彼の胸部は鈍い鼓動、すなわち綿の敷布団を正確にマイナス16.4度に維持する熱力学的なパルス(熱交換)を刻んでいた。寄生体は、廊下の大気の分子量(比重)が変化したことを敏感に察知した。
3.【熱の逆転】午前3時5分
ガスの風切り音が止まった。内藤のボンベは、C棟の心臓部に向けてその全容量を排出し尽くしたのだ。六十立方メートルに及ぶ極めて揮発性の高い炭化水素が、コンクリートを鉄片へと変えるための最小の電気火花――冷蔵庫のコンプレッサーのリレー、あるいは深夜に目覚めた人間の電気スイッチの火花――を今か今かと待ち受けていた。
---
鼻梁を潰されたナイロンジャンパーの男が、ポケットからデジタルストップウォッチを取り出した。鉱物油の汚れがこびりついた彼の指先が、微かに震えていた。警察の臨検を恐れているわけではなかった。非常階段の周囲で、奇妙なほど気圧が低下し始めているのを感じていたからだ。いつもなら排水溝の生臭い湿気で満ちている踊り場の大気が、異常なほど乾燥し、あまりにも清浄なものへと変化しつつあった。
幹部:――4号室の木製ドアに耳を押し当て、短波の無線機に向かって低く囁きながら――「ガスはもうキッチンまで回ったはずだ。棟のガスメーターは完全にロックしてある。天井裏の配管スペースまで飽和するよう、あと五分待て。あのハゲが尿意で起き上がって、ウールの靴下の静電気でも散らせば、団地ごと一発でオシャカだ」
もう一人の男:――非常階段の最下部から、手元に消火用バーナーのノズルを隠し持ちながら、長田の鉛色の空を見上げて――「アニキ、上の様子が変です。外壁の配管(ガス管)が……汗をかいてやがる。水じゃねえ。霜だ」
それは見間違いではなかった。
公営団地の室内において、宇宙の不死鳥は怒りの咆哮とともに目覚めたわけではなかった。それは純粋な『質量保存の法則』によって起動していた。内藤によって強制注入された炭化水素は、山田の自宅という名の「教室」における熱力学的平衡を乱す不純物だった。
恒星系のエントロピーを制御する高次元の存在にとって、プロパンガスは引火性の危険物などではなかった。それは、居住空間の官僚的な規律(秩序)を乱す「過剰な位置エネルギー(余剰リソース)」に過ぎなかったのだ。
鉄製の簡易ベッドの上で、闇の中で山田の黄色の眼球が開いた。白いチョークの箱の隣、夜間用テーブルの上に置かれた眼鏡の、唯一残された綺麗なレンズの向こう側で、街頭の街灯(水銀灯)のどれとも異なるコバルトブルーの光彩がギラリと収縮した。
山田:――喉の奥から、潤滑を失って軋む玄武岩の角質をパキパキと鳴らし、澱んだ、しかし明確な文官の口調で呟きながら――「プロパン……。一立方メートルあたり、三点六キログラム。居住専用地域における揮発性物質の過剰保有……。これは、県が定める建築物安全管理条例(管理規約)に対する明白な違反行為です……。この事象は……、管理組合による直接のペナルティ(制裁措置)の対象となります」
彼の胸の寄生体がうねりを上げた。横須賀の縦穴から吸い上げられていたホウ素のエネルギーが、教師のケラチン質の毛細血管を巡り始めた。それはガスを燃焼させるためではなく、――内藤の仕掛けた燃料の『化学的反応性(揮発度)』そのものを、絶対零度によって法的に差し押さえる(フリーズさせる)ための巡回だった。
【作者より一言】
第37話をお読みいただき、ありがとうございます!
深夜の長田区公営団地、内藤の放った刺客たちによるプロパンガス暗殺作戦が実行に移されます。部屋を満たしていく爆発寸前の高濃度プロパンガス。
しかし、山田先生(と宇宙の不死鳥)の反応は極道たちの想像の斜め上をいっていました。「引火して爆発する危険物」ではなく、「管理規約に違反した過剰な位置エネルギー(ゴミ)」としてプロパンを認識する山田先生。次回の第38話、団地を吹き飛ばそうとしたプロパンの化学結合そのものが、山田先生の絶対零度によって「凍結(没収)」される、物理法則の書き換えが始まります!
「ガス管が霜を吹く描写の不気味さがたまらない」「『管理組合の制裁対象』というセリフに公務員としての山田先生の魂を見た」など、皆様からの感想、評価、ブックマークをぜひお願いいたします!
次回第38話、Arco 3 の最高潮へ!「差し押さえられた熱量」の行方をお見逃しなく!




