第36話:長田区丙号画地、および都市ガスによる監査執行妨害
内藤ビル34階に漂うジャワ葉巻の煙は、もはや濃密というよりは、古びて酸えていた。縁に唾液の跡が残った冷え切ったコーヒーカップが、内藤がかつてフィリピンから取り寄せさせたマホガニーのテーブルの上に幾つも放置されていた。そこにはもう、仕立てのいいスーツを着た顧問弁護士も、小奇麗な技術取締役の姿もなかった。金融端末のモニターの光は消え失せ、代わりに卓上のハロゲンランプだけが、長田区の都市計画図――在来線の線路が1970年代の公営住宅(団地)のブロックを切り裂くように走る、あの労働者の街の登記簿――を冷酷に照らし出していた。
内藤は社長椅子から立ち上がりさえしなかった。シャツのボタンを3つ目まで外し、胸骨に走る古い天然痘の痕を剥き出しにしながら、長田区の地図の上に両の手のひらを平らに押し当てていた。その指先が指し示すのは、赤のサインペンで印がつけられた一点。――『C棟3階4号室』。山田武の自宅だった。
内藤:――ダミ声で、坂出の港湾労働者の汚い訛りを引きずりながら――「一般請負資格の永久指名停止……、国家防衛インフラの破壊工作……。あのハゲはノートにそう書きやがったのか? そう判を押しやがったんだな?」
窓際の薄暗がり、卓上ランプの光が届かない影の中に、イタリア製の高級ウールスーツとは無縁の3人の男が立っていた。彼らは港湾の下請け荷役会社のロゴが消えかけた黒いナイロンジャンパーを羽織り、両手をポケットに深く突っ込んでいた。そのうちの一人、釜山のドックでの抗争でバールによって鼻梁を叩き潰された男が、絨毯の上に噛みタバコのカスをペッと吐き捨てた。
幹部:「社長、査察調書は午後四時に港湾検察庁の事件受付(令状部)に登録されました。保釈金の適用(執行猶予)はありません。明日朝一番で地方整備局が構造的故意を正式に追認すれば、最高裁の命令で内藤重工業の全口座が凍結されます。燃料カードがシステムエラーを起こし、プラントからミキサー車一台すら出庫できなくなります」
内藤は短く、乾いた嘲笑を漏らしたが、それはすぐに喘息特有の激しい咳へと変わった。彼は老眼鏡を外すと、それを黒色ガラスのデスクの上に乱暴に投げ捨てた。
内藤:「つまり、東京の役人どもは、支給されたデジタルバッジを持ったどこぞの非常勤が『セメントにゴミが混ざってる』と言い出したからという理由だけで、俺のサイロをタダで没収しようってわけだ。税関長どもの宴会代を三十年間どっちが支払ってきたと思っていやがる。あの食い詰め者の臨時雇いが、俺の土地の支持力(強度)について能書きを垂れに来やがって」
彼は前方に身体を傾け、紙の計画図に指を食い込ませてクシャクシャに引き裂くように握りつぶした。
内藤:「サインされた調書(紙切れ)がなけりゃ、監査は成立しねえんだよ。そして、監査官が明日の朝、地方政府の窓口に調書の原本を提出しに来なけりゃ、その案件は正午までに書類の形式不備(不配備)で自動的に却下(お流れ)になる。仮処分の申し立て(法律論争)なんて生ぬるい真似はもう要らん。海底への隠蔽圧送も中止だ。――今夜、あのハゲの部屋へ行け」
ナイロンジャンパーの男は眉をひそめ、握りつぶされた地図を見つめた。
幹部:「社長……『犬』の稲葉は、顔半分を死んだ石膏の塊にされて組織の私立病院に転がっています。あの老いぼれはただの監査官じゃありません。SATの報告じゃ『グループAの熱力学的異常体』だ。九ミリ弾じゃ、奴の皮膚に届く前に上着の繊維で潰されちまいますよ」
内藤:――椅子を金属音とともに激しく蹴散らし、突如として立ち上がりながら――「グループAがどうした、知るかそんなもん! あの化け物は教職互助会のベッドで眠り、コンビニの冷えた握り飯を食って生きてるんだ。国から俸給を貰っている以上、奴は今でもこの地面の重力に縛られてるんだよ。役所の支給品でハチの巣にしろと言っているわけじゃない。長田の都市ガス(インフラ)の供給元へ回れ。C棟の低圧ラインを遮断しろ。奴が眠っている間に、風呂場の換気口からプロパンを直接流し込むんだ」
内藤は両の拳をデスクに叩きつけた。その顔面は怒りとタバコの毒素でどす黒く充血していた。
内藤:「家庭内の不慮の事故(ガス爆破)に見せかけるんだ。古くなった給湯器のガス漏れ、深夜に小便へ立った時にキッチンのスイッチを入れた瞬間の火花……、それで団地のブロックごと木端微塵に吹き飛ばせ。あのクソ不死鳥が何かを燃やしたがってるんなら、兵庫県の都市ガスで自分ごと焼け死にやがれ。明日、内務省の役人どもが長田で目にするのは、瓦礫の山と、側溝の中で炭化した4枚の出荷伝票(証拠物件)だけだ。――赤ペンなら地獄の底で用意して待ってろ。監査はこれでお終いだ」
3人の男たちは陰鬱に頷き、ウールのニット帽を目深にかぶり直すと、足音を立てずに執務室から消え去った。
夜明けまで残り六時間。
内藤ビルの34階で、内藤慶次は再びジャワ葉巻に火をつけ、闇に包まれた六甲アイランドの輪郭を冷酷に見つめていた。神戸の極道は、その原点へと回帰した。――ガスバーナーによるサボタージュ、ガス管の引き回し、そして仕組まれた心不全(事故)。入札のテーブル(利権の行方)は、裁判所で決まるのではない。それは、市営住宅の片隅に漂う硫黄とプロパンの悪臭の中で、物理的に処理されるのだ。
【作者より一言】
第36話をお読みいただき、ありがとうございます!
ついに物語は最終決戦のイブへ。国家公務員法という「究極のシステム」によって外堀を埋められた内藤重工業。しかし、90年代の産廃利権の闇を生き抜いてきた内藤は、司法の場での敗北を悟るや否や、山田先生の自宅である長田区の公営団地を「都市ガスによる爆破」という、最悪の物理的サボタージュで抹殺しようと動きます。
「どれほど神のごとき異形であっても、コンビニの飯を食い、重力に縛られている」という内藤の冷徹な現実主義と、ヤクザとしての狂気が光る一話です。山田先生が命をかけて守ろうとした「職務の正当性」と、内藤の放つ「プロパンガスの悪臭」が深夜の長田区で交錯します。
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次回第37話、深夜のC棟4号室。絶対零度と都市ガスの爆炎が激突します!




