第12話:奪われたパスワードと、ロンドンから迫る黒い秒針
バー「ル・キャバレー」を後にし、神戸ナンバーの黒いタクシーが静かに発車した。サラは後部座席に深く身体を沈めた。手の中のボイスレコーダーは未だに熱を帯びている。丸刈りにした50代ほどの無口な運転手は、アクセルを踏み込んで高速道路へと車を走らせる間、一言も発しなかった。
窓の外を、街の景色がぼやけた光のシミのように通り過ぎていく。飲料のネオンサイン、すでに翌日の営業に向けてシャッターを下ろした店舗の群れ。遠く工業港の丘の向こうには、夜勤の工場がシフト制で稼働している溶鉱炉の絶え間ない輝きが見えていた。
サラはスマートフォンを取り出し、ケンジに短いメッセージを送った。
【今夜はホテルに戻らないで。あなたの名前がブラックリストに載ったわ】
それからWhatsAppを開き、ロンドンの番組「ニュースウォッチ」のチーフプロデューサーに直接電話をかけた。国際回線のスピーカーからは、疲弊しながらも警戒を怠らないサイモン・ウィリアムズの声が響いた。
サイモン:「――サラか……そっちは今何時だ? 一体何があった?」――濃厚なブリティッシュアクセント。
サラ:「……爆発的なネタを掴んだわ。山田が贈集会の直接、あるいは間接的な命令を受け、組織に対する法的な証拠を消滅させるために動いたことを確認した」――声を潜めて告げる。
サイモン:「クソっ……そいつはすべての前提をひっくり返すぞ」――短く間を置き、戦略的に息を呑む気配が伝わってきた。――「証言はあるのか? 録音は? 何か決定的な証拠は?」
サラはデータが限界まで詰まったデジタルレコーダーに目を落とした。
サラ:「ええ……すべて揃ってるわ」
サイモンは深くため息をついた。国際電話越しでも、彼が世界規模のスクープに向けて思考を巡らせ、深く息を吸い込んだのが分かった。
サイモン:「よし、準備をしておけ。明日、これを全世界に向けて一斉に放映する」
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その頃、神戸の片隅で、山田はシーツも敷かれていないシングルベッドの上で浅い眠りの中にいた。仰向けになり、ひび割れた天井を見つめながら眠る彼の骨張った背中には、冷や汗が伝っていた。密閉された鉄のコンテナの中で、誰かがベトナム人の名前を次から次へと叫び続けている――そんな悪夢を何度も繰り返していた。
夢の中で、山田は彼らに向かって「静かにしろ」と怒鳴り散らそうとしていた。お前たちのむせび泣く声のせいで、2年B組の再試の採点に集中できないじゃないか、と。しかし、彼が口を開けても、そこから這い出るのはヘリウムガスの漏れるような音と、乾いた灰だけだった。
筋肉の激しい痙攣が起き、彼は一気に目を覚ました。ひび割れたアパートの天井は相変わらずそこにあり、大通りにあるキリンの看板が放つ青い明滅に照らされていた。山田はゆっくりと身体を起こした。口の中は不快に粘つき、こめかみでは錆びついたピストン 婚約 のように心臓が激しく脈打っている。両手で顔をこすると、枕元のサイドテーブルに置かれたメガネのツルを固定している、あの工業用ガムテープのザラザラとした感触が伝わってきた。
目覚まし時計の隣には、内藤から送られた特上の和牛弁当がすでに冷め切った状態で置かれていた。神戸牛の高級な脂質が、白くゼラチン質の層となって米の輪郭を覆い、まるで壊死した有機組織のような不気味な外見を呈している。
山田は素足を伸ばしたまま腕を伸ばし、冷えた肉の一片を指でつまんで口に放り込んだ。何も味わうことなく機械的に咀嚼しながら、部屋の隅で電源が入りっぱなしになっている古いデスクトップパソコンの画面を虚ろに見つめる。
モニターの右下で、彼の個人掲示板からのダウンロードを管理する小さなデジタルカウンターが二度点滅した。
【ダウンロード完了:0。ネットワーク管理者によってファイルが暗号化されました。ソース:IPアドレス - 贈集会本部】
山田は肉の破片を半分飲み込んだまま、完全に硬直した。彼は馬鹿ではない。そのシステムメッセージが何を意味しているか、すぐに理解できた。ヤクザは彼のハードディスクを洗浄しただけではなかった。パスワードを変更したのだ。自分の人生の錠前であり、最高刑の刑務所にぶち込まれないための唯一の切り札(鍵)は、もはや彼の手元にはなかった。――それは今や、内藤慶介の掌中にある。
突然、胸が激しく焼けるように痛んだ。宇宙的な啓示などではない。安物の肉の脂と、純粋な恐怖が引き起こした激しい胃食道逆流(逆流性食道炎)の痛みだ。彼は擦り切れたセーターを押しつぶすように、胸骨に手を当てた。
山田:「明日……明日は、三角関数の追試だ……。白いチョークを……チョークを買いに行かなきゃ……」――暗闇の中で、裏返った声で ぽつりと呟く。
開け放たれた窓の向こうから、贈集組の建設会社が手配した最初のミキサー車たちの鈍い轟音が湾岸に響き渡り、第七埠頭へと列をなして進んでいくのが見えた。何千トンもの新鮮なコンクリートが、日本の歴史上、最も利益を生むことになる「集団墓地」を今まさに永久に封印しようとしていた。
そして、ここから1万キロ離れたロンドン。絨毯が敷き詰められたBBCの編集室では、壁掛け時計の秒針が、日曜日の午後九時に向かって冷酷に進み続けていた。
神戸の方程式は単純化されたかに見えた。しかし山田は今、ヤクザも、国家政府も、決して「解く」ことのできない新たな変数を、その計算式の中に引きずり込んだのだ。
山田は素足を伸ばしたまま腕を伸ばし、冷えた肉の一片を指でつまんで口に放り込んだ。何も味わうことなく機械的に咀嚼しながら、部屋の隅で電源が入りっぱなしになっている古いデスクトップパソコンの画面を虚ろに見つめる。
モニターの右下で、彼の個人掲示板からのダウンロードを管理する小さなデジタルカウンターが二度点滅した。
【ダウンロード完了:0。ネットワーク管理者によってファイルが暗号化されました。ソース:IPアドレス - 贈集会本部】
山田は肉の破片を半分飲み込んだまま、完全に硬直した。彼は馬鹿ではない。そのシステムメッセージが何を意味しているか、すぐに理解できた。ヤクザは彼のハードディスクを洗浄しただけではなかった。パスワードを変更したのだ。自分の人生の錠前であり、最高刑の刑務所にぶち込まれないための唯一の切り札(鍵)は、もはや彼の手元にはなかった。――それは今や、内藤慶介の掌中にある。
突然、胸が激しく焼けるように痛んだ。宇宙的な啓示などではない。安物の肉の脂と、純粋な恐怖が引き起こした激しい胃食道逆流(逆流性食道炎)の痛みだ。彼は擦り切れたセーターを押しつぶすように、胸骨に手を当てた。
山田:「明日……明日は、三角関数の追試だ……。白いチョークを……チョークを買いに行かなきゃ……」――暗闇の中で、裏返った声で ぽつりと呟く。
開け放たれた窓の向こうから、贈集組の建設会社が手配した最初のミキサー車たちの鈍い轟音が湾岸に響き渡り、第七埠頭へと列をなして進んでいくのが見えた。何千トンもの新鮮なコンクリートが、日本の歴史上、最も利益を生むことになる「集団墓地」を今まさに永久に封印しようとしていた。
そして、ここから1万キロ離れたロンドン。絨毯が敷き詰められたBBCの編集室では、壁掛け時計の秒針が、日曜日の午後九時に向かって冷酷に進み続けていた。
神戸の方程式は単純化されたかに見えた。しかし山田は今、ヤクザも、国家政府も、決して「解く」ことのできない新たな変数を、その計算式の中に引きずり込んだのだ。
【作者より一言】
第12話をお読みいただきありがとうございます!
これにて第1章「埠頭融解・国家隠蔽編」が完結となります!
すべてを隠蔽し、山田を「今月の最優秀社畜」として完璧に囲い込んだと思ったヤクザの内藤。しかし、山田の唯一の生命線である「3TBのパスワード」を奪ったことで、山田の精神的ストレスは限界へ。さらに、遠くロンドンではBBCによる世界同時告発のカウントダウンが始まっています。
金、権力、暴力、そして宇宙の神の力。すべての思惑が絡み合う中、月曜日の高校のチャイムが鳴り響きます。
「和牛の脂が固まってる描写がリアルで最高」「山田、パスワード変えられててワロタ、もう逃げられねえな」など、皆様からの第一章完結の感想をコメント欄でぜひお聞かせください!
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