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カナミ彗星—光は必ず届く  作者: リンダ


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居場所

 第八章 居場所

 ① わかってもらえる場所


 週末の午後、金沢の空は淡く曇っていた。


 栄子は、もう迷いなく《真光の輪》の相談会会場へ向かっていた。

 最初に足を踏み入れた時の緊張は、だいぶ薄れている。

 今ではむしろ、そこへ向かう道のりのほうが、少しだけ気持ちが軽くなるようになっていた。


 会場の扉を開けると、すぐに笑顔が向けられる。


「真田さん、待っとったよ」

「今日は顔色ちょっと疲れとるね」

「大丈夫? 無理してない?」


 その言葉を聞いただけで、栄子の胸がふっとほどける。


 家では、そこまで細かく見てもらえることはない。

 圭一はやさしいが、どこか現実的で、すぐに「考えすぎや」と言う。

 香奈美も茂之も、母の苦しさを真正面から受け止める年齢ではない。


 けれどここでは、栄子が何も言わなくても、

「しんどかったんやね」

 と先に気づいてくれる。


 その“気づいてもらえる”感じが、栄子にはたまらなくありがたかった。


 ② 家庭で感じる、わかってもらえなさ


 その日の会でも、話は自然と家庭のことへ流れていった。


「この前、娘さんどうでした?」


 進行役の女性が、やわらかく尋ねる。


 栄子は少し迷いながら答えた。


「この前、“最近なんか変わったことあった?”って娘に聞かれて」

「うんうん」

「別に何もないって言うたんですけど……なんか、見透かされたみたいで」


 隣の女性が、静かにうなずく。


「家族って、不思議と敏いよね」

「でも、いちばん近い人ほど、ほんとの苦しさはわかってくれんこともあるし」


 その言葉に、栄子は少し息をのんだ。


 ほんとの苦しさ。

 そう、まさにそれだった。


 香奈美は心配してくれた。

 でも、“何かあった?”と聞かれただけで、その奥の不安や、言葉にしにくい苦しさまでは伝わらなかった。


 圭一も違和感を抱いているようだった。

 でも、きっと本気では理解していない。

 せいぜい「誰かの影響受けとるんかな」と思っている程度だろう。


 栄子は、うつむいたまま言った。


「うち、変なことしとるつもりはないんです」

「ただ、少し考え方を整えたいだけで」

「家庭がよくなればって思っとるだけなのに……」


 すると進行役の女性は、きっぱりとした口調で言った。


「真田さん、それは間違ってませんよ」


 その言葉が、栄子の胸にまっすぐ届く。


 ③ 堕落した人たちは理解しない


 会の後半、話は一段深いところへ進んでいった。


 そこでは、これまでより少し露骨に、“外の人たち”について語られた。


「人はね、堕落した状態に慣れてしまうと、正しいものを見ても違和感としてしか受け取れないんです」


 進行役ではない、別の年配の女性が静かに言う。


「乱れたままの心で生きとる人には、整おうとする人がむしろ異質に見える」

「それで、“なんか変わった”とか、“前と違う”とか言い出すんよ」


 栄子の背筋が、ひやりとした。


 まるで、さっき自分が話したことへの答えのようだったからだ。


「家族だからといって、必ずしも真実をわかってくれるわけではないんです」

「むしろ、いちばん近い人ほど、堕落した日常にどっぷり浸かっとると、変化を怖がるんです」


 “堕落した日常”。


 少し前までの栄子なら、そんな言い方を嫌っていただろう。

 家庭をそんなふうに切り分けるなんて、おかしいと思っただろう。


 でも今は、完全には否定できなかった。


 圭一は現実的すぎる。

 香奈美も、見た目の変化しか見ていない。

 自分がどれだけ苦しみ、どれだけ家庭を思ってこの場に来ているか――そこまでは見えていない。


「こちらが正しいことをしていても、周りから異質な目で見られてしまうことはあります」

「それは、あなたが間違っとるからじゃない」

「むしろ、真実に近づき始めた人にだけ起きる試しなんです」


 真実に近づく。

 その言葉が、栄子の中に静かに根を張っていく。


 ④ あなたは選ばれた人


 その日、会の終わりに、栄子は別室へ案内された。


 湯気の立つお茶。

 小さな焼き菓子。

 向かいに座るのは、前にも個別で声をかけてきた女性だった。


「真田さん、最近の話を聞いていて、あらためて思ったんです」


 女性はゆっくりと言葉を選ぶように続けた。


「あなたは、ほんとうに選ばれた方やと思います」


 栄子は、思わず息を止めた。


「前にも言ったけれど、誰にでもこういう変化は起きません」

「家族の空気の乱れ、言葉の荒み、人の心の濁り……それを“何かおかしい”と感じ取れる人は限られとるんです」


「うちが、ですか」


「そうです。真田さんは、神と出会う道に導かれとるんですよ」


 その瞬間、栄子の胸の奥がどくんと鳴った。


 神。

 いよいよ、そこまで来た。


 けれど不思議と、拒否感よりも先に、“意味づけられた安心”が広がった。


 自分の不安には意味がある。

 自分の敏さには意味がある。

 苦しみも、気にしすぎも、弱さではなく“導き”なのだと。


「選ばれた人には、役目があるんです」

「周りの人を救済する役目です」

「家族を、まだ気づいていない人たちを、真実へ近づける役目」


 女性の声は穏やかだった。

 だが、その穏やかさこそが、深く入り込んでくる。


「真田さんが立派になればなるほど、周りの人も救われていく」

「そのために、今この道に出会わされたんですよ」


 栄子は、うなずきそうになる自分を止められなかった。


 ⑤ 家族を救いたいという罠


 帰り道、栄子の胸は奇妙に熱かった。


 これまでなら、“宗教くさい”と笑ってしまいそうな言葉だった。

 なのに今は、それがまるで自分だけに与えられた使命のように感じられてしまう。


(うちが変われば、家族もよくなるんやろか)


 その考えは、恐ろしく甘い力を持っていた。


 自分のためではない。

 家族のため。

 香奈美のため。

 圭一のため。

 茂之のため。


 そう思えば思うほど、自分がこの場に通う理由は“正しいもの”に変わっていく。


 もし家族に反対されたとしても、それは自分が間違っているからではなく、

 まだ向こうが気づいていないから。

 まだ堕落した日常の中にいるから。

 まだ救済を必要としているのに、それに気づけていないから。


 そう考えた時点で、もう栄子の中には一本の線が引かれていた。


 “わかってくれる側”と、

 “まだわかっていない側”。


 その線はまだ細い。

 けれど、確実に引かれ始めていた。


 ⑥ 家に戻ると生まれる軋み


 その日の夕飯時。


 圭一が何気なく言った。


「最近、土日ちょこちょこ出かけとるな」


「まあ、少しね」


「どこ行っとるんや」


 栄子は箸を止めた。


 本来なら、ここで「相談会みたいな集まり」と言えば済むはずだった。

 けれど、その瞬間、会で言われた言葉が頭をよぎる。


 “理解されないこともある”

 “真実に近づく人は異質に見られる”

 “近い人ほど、堕落した日常から抜けられない”


 栄子はほんの少しだけ表情を固くした。


「ちょっと話聞いてもらえるとこやわ」

「子育てのこととか、いろいろ」


 圭一は眉を寄せる。


「相談会みたいなもんか?」


「そんな感じ」


「ふーん……」


 それ以上は聞かなかったが、圭一の中にはまた小さな違和感が残った。

 “そんな感じ”

 “ちょっと”

 “いろいろ”


 曖昧な言葉ばかりが増えている。


 香奈美も、そのやりとりを黙って聞いていた。


 すると栄子が、少し思い詰めたような声で言った。


「でも、こういうのって、わかる人にはわかるけど、わからん人にはわからんもんやし」


 圭一が顔を上げる。


「何がや?」


「いや……心のこととか、家庭の流れとか」


「流れ?」


 栄子は自分でも言いすぎたと思ったのか、すぐに首を振った。


「別に、大した話じゃないわ」


 だが、その場の空気はほんの少しだけ硬くなった。


 ほんの少し。

 本当にそれだけ。


 けれど、こういう小さな軋みが、のちに家族の会話全体をゆがめていく。


 ⑦ 香奈美の反発未満


 夕食のあと、香奈美は流し台のそばで皿を拭いている栄子に、できるだけ普通の調子で言った。


「お母さん、最近さ、“救い”とか“堕落”とか、そういう言葉よく使うよね」


 栄子の手が、一瞬止まる。


「そうけ?」


「うん。なんか前と違う」


 栄子は、皿を見つめたまま答えた。


「人間、ちゃんとせんと、すぐ楽なほうに流れるやろ」

「そういうの、今の時代みんな忘れとる気がするし」


 香奈美は眉をひそめた。


「いや、そういう意味じゃなくて」

「なんか……宗教っぽいっていうか」


 その言葉に、栄子の表情が初めて少し強張った。


「宗教なんて、そんな大げさなもんじゃないわ」


 声はきつくなかった。

 でも、前より少しだけ冷たかった。


「うちは、家族のこと思って言うとるだけやよ」


 そのひと言に、香奈美は言い返せなくなった。


 家族のことを思って。

 その言葉を出されると、反発した側が悪いような空気になる。


「……別に責めとるわけじゃないし」


 小さくそう言って、香奈美は黙った。


 この時点ではまだ、母娘が激しくぶつかるわけではない。

 でも、たしかにそこには、今までなかった種類の壁ができ始めていた。


 ⑧ 団体に近づき、家族から離れる


 その夜、《真光の輪》金沢支部では、栄子の様子が共有されていた。


「家族が少し違和感を持ち始めています」

「いい傾向です」


 支部長・野々村千鶴は静かに答える。


「焦って対立を煽る必要はありません」

「ただ、“理解されない苦しみ”はしっかり受け止めてあげてください」

「そこをこちらが拾えば、本人の居場所はますますこちら側になる」


 報告した女性がうなずく。


 野々村は続けた。


「次の段階では、本人に“家族を救いたい”という意識を強めさせます」

「それがもっとも自然に献身へつながりますから」


 救済という言葉は、相手を支配する時、とても便利だ。


 自分のためではなく、相手のため。

 わがままではなく、使命。

 依存ではなく、献身。


 そう言い換えられた時、人は自分が深くはまり込んでいることに気づきにくくなる。


 栄子は、まさにその入口に立っていた。


 ⑨ 少しずつ開く距離


 真田家の夜は、見た目にはいつも通り静かだった。


 圭一は明日の勤務に備えて早めに寝室へ行き、

 茂之はゲームの音を小さくして切り上げ、

 香奈美は宿題を終えて部屋の明かりを落とす。


 栄子もまた、台所を片づけ、明日の弁当の下ごしらえをして、母としての役目を果たしている。


 なのに、家の中には少しずつ距離が生まれていた。


 栄子にとって、いま一番深いところを話せるのは家族ではない。

 《真光の輪》の仲間たちだ。


 家族のために通っているつもりなのに、

 その結果として、家族に本音を言えなくなっていく。


 そのねじれが、静かに真田家を締めつけていく。


 まだ誰も壊れていない。

 でももう、きしみは始まっていた。


 ごく普通の食卓の上に、

 ごく普通の会話の中に、

 少しずつ、宗教の言葉が混じっていく。


 そしてその言葉は、

 家族を救うためではなく、

 家族の間に見えない壁を立てるために働き始めていた。

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