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カナミ彗星—光は必ず届く  作者: リンダ


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なんか変わった?


第七章 なんか変わった?


① ほんの少し違う母親


四月に入った金沢は、春めいた空気の中にも、まだ冷たい湿り気を残していた。


真田家の朝も、いつも通り始まる。


圭一は早番の日で、少し早く制服に着替えている。

茂之は寝ぐせをつけたままパンをかじり、香奈美は眠そうな顔で牛乳を飲んでいた。


栄子は味噌汁をよそいながら、やわらかな声で言った。


「朝はちゃんと食べんなんよ。体が資本やし」


それ自体は、いつもの母親らしい言葉だった。

けれど、次のひと言に、香奈美はふと顔を上げた。


「人間って、気が緩むとすぐ堕落するさけね。日々きちんとせんと」


圭一が味噌汁をすすりかけたまま、わずかに目を動かした。


香奈美も、箸を止める。


「……堕落?」


栄子は気づかないまま、平然と続ける。


「ほら、生活が乱れると心も乱れるやろ。心が乱れると、家の空気も悪うなるし」


「まあ……そうやけど」


香奈美はそう答えたものの、胸の奥に小さな引っかかりが残った。


“堕落”なんて言葉、前のお母さん、こんなふうに使ったっけ。


圭一も、何も言わなかった。

ただ、いつもより少し長く栄子を見た。


② 香奈美の「なんか変わった?」


その日の夕方。


栄子は台所でじゃがいもの皮をむいていた。

窓の外では、薄曇りの空の下、風が洗濯物を揺らしている。


香奈美は冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注いだあと、しばらく黙って母の背中を見ていた。


前と同じエプロン。

前と同じ手つき。

前と同じ、台所に立つ姿。


でも、何かが少しずつ違ってきている。


それは目に見える変化ではない。

髪型でも服装でもない。

ただ、言葉の選び方とか、ものの言い回しとか、ふとした時の視線の置き方とか――そういう、ごく薄い膜のような違いだった。


香奈美は意を決して口を開いた。


「お母さん」


「ん?」


「最近、なんか変わったことあった?」


栄子は包丁を止めて振り向いた。


「変わったこと?」


「うん」


「なんでまた急に」


香奈美は少し迷った。

自分でも、何をどう言えばいいのかわからなかったからだ。


「なんか……ちょっとだけ、前と違う感じする」


栄子は一瞬きょとんとして、それから軽く笑った。


「何にもないけど?」


その返しは、あまりにも自然だった。

とぼけている感じも、嘘をついている感じもない。

本当に本人は“何も変わっていない”と思っているのだと、すぐにわかった。


「そう?」


「そうやよ。仕事行って、家のことして、いつも通りやわ」


そう言って、またじゃがいもに向き直る。


香奈美はそれ以上、何も言えなかった。


もし明らかにおかしなことが起きているなら、もっと強く聞けたかもしれない。

でも今の母は、見た目にも生活にも破綻はない。

少し言葉が変わった気がするだけ。

少し空気が違う気がするだけ。


それだけで問いつめるのは、かえって自分のほうが変に思える。


「まあ、別にいいんやけど」


香奈美はそう言って、麦茶を一口飲んだ。

だが、喉を通る冷たさの奥に、説明できないざらつきが残った。


③ 父もまた、言葉にできない


その夜。


食後、圭一は新聞を広げながら、ちらちらと栄子の様子を見ていた。


栄子は洗い物を終えると、食卓を拭きながらこんなことを言った。


「家族って、ほんと、心の持ち方で全然変わるもんやね」

「救われる家もあれば、崩れる家もあるし」


圭一が新聞から顔を上げた。


「急にどうした」


「いや、なんとなく思っただけ」


「……救われるって、何からや」


栄子は少し考えてから答えた。


「いろんな乱れからやよ。今の世の中、みんな心がささくれとるし。人として大事なもん失っとる気がするわ」


圭一は新聞をたたんだ。


たしかに、栄子はもともと真面目な性格だ。

家庭のこともきちんとやるし、人の痛みにも敏い。

だから多少、そういう話をすること自体はおかしくない。


でも、今の言い方には、どこか妙な“借り物感”があった。


自分の言葉で話しているようでいて、微妙に違う。

誰かに教わった言い回しを、まだ完全には自分のものにしきれていない感じ。


圭一はそこに、職業柄の小さな違和感を覚えた。


市民相談の現場でも、ときどきいる。

自分の経験を話しているようで、実際はどこか別の思想や集団の言葉をそのままなぞっている人が。


とはいえ、この段階では、危険だとは思わなかった。


せいぜい、


“誰かの影響受けとるんかな”


その程度だった。


④ 真綿みたいに入ってくる言葉


相談会に通うたび、栄子の中には新しい言葉が増えていった。


それは最初から露骨ではない。


いきなり「教団」だの「信仰」だのと言われたら、さすがの栄子でも身構えただろう。

そうではなく、


「心を整える」

「家庭の空気を浄める」

「人としての本来の道」

「救いに気づける人、気づけない人」


そんな言葉が、少しずつ日常に混ざり始める。


ある日、茂之がゲームばかりして宿題を後回しにしていると、栄子は前なら


「はよ宿題しなさい」


で済ませていたはずなのに、今は少し違った。


「人間は楽なほうに流れると、だんだんだめになるんよ」

「神様はちゃんと見とるし、自分を律せんなん」


茂之は顔を上げて目をぱちぱちさせた。


「神様?」


「え?」


栄子自身も、その言葉が自然に出たことに一瞬気づいたようだった。

だが、すぐに笑ってごまかした。


「いや、そういう例えやわ。ちゃんとしなさいってこと」


茂之は「ふーん」としか言わなかったが、その場にいた香奈美は明らかに引っかかった。


“神様”

前のお母さん、そんな言い方したことあった?


数日後には、こんなこともあった。


ニュースで物価高や事件の話題が流れた時、栄子がぽつりと言ったのだ。


「今の世の中、人間が堕ちるとこまで堕ちとるんかもしれんね」

「ほんとに救済が必要な時代なんやろな」


圭一がすぐにテレビから視線を外し、栄子を見た。


「救済?」


「いや、だから……みんな心が荒んどるってこと」


まただ。


言い換えている。

自分でも、その言葉が少し浮いていると感じたのだろう。

でも、一度口にしたものは消せない。


圭一と香奈美は、同じタイミングで、同じ種類の違和感を抱き始めていた。


⑤ 香奈美の戸惑い


その夜、香奈美は自室のベッドに座り、スマホを見ながらも集中できずにいた。


別に、お母さんが怒鳴るようになったわけじゃない。

ご飯を作らなくなったわけでも、家を空けがちになったわけでもない。

暴力もなければ、露骨な異常行動もない。


でも、だからこそ不気味だった。


“普通”の形を保ったまま、中身の言葉だけが少しずつ変わっていく。


しかも、それがいかにも正しそうな言葉だから、余計に言い返しにくい。


心を整える。

人としての道。

堕落。

救い。

神様。

救済。


どれも単語だけなら変じゃない。

でも、家の会話の中に混ざると、どこか冷たい。


まるで誰か別の人の考えが、少しずつ母の口を通して家の中に流れ込んでくるみたいだった。


香奈美はためらいながら、階下へ降りた。


圭一はまだ起きていて、湯呑みにお茶を入れていた。


「お父さん」


「ん?」


「最近、お母さん……ちょっと変じゃない?」


圭一はすぐには答えなかった。

香奈美の顔を見て、それから静かに言う。


「お前もそう思うか」


そのひと言で、香奈美の胸が少しざわついた。


自分の気のせいではなかった。


「なんかさ、言うことが前と違う」

「ちょっと……変に立派っていうか」

「うまく言えんけど」


圭一は小さくうなずく。


「俺も、少し違和感はある」


「何なんやろ」


「そこまではわからん」


圭一はそう言って、湯呑みを置いた。


「ただ、今のところ、何か明らかに危ないことしとるわけでもない」

「誰かに金貸したとか、変な契約したとか、そういう話でもないやろ」


香奈美は黙った。


それはその通りだった。


違和感はある。

でも、まだ“危険”と呼べる証拠は何もない。

だから、強く止めることもできない。


⑥ 圭一の警察勘


香奈美が部屋へ戻ったあと、圭一は一人で考えていた。


警察官として、圭一は「微妙な異変」に慣れている。

事件になる前の小さな違和感。

相談に来た人の、説明しづらい口ぶりの変化。

そういうものが積み重なって、あとから大きな問題につながることもある。


だが今、自宅で起きていることは、そこまで明確ではない。


栄子は働いている。

家事もしている。

家族を放り出してはいない。

生活も回っている。


ただ、言葉が少し変わった。

考え方が少し“外から入ってきたもの”っぽくなった。

それだけだ。


それだけなのに、妙に引っかかる。


(誰かの影響は受けとるな)


圭一はそこまでは確信していた。


問題は、それが何なのかだ。


自己啓発か。

よくある人生相談か。

近所の集まりか。

それとも、もっと別のものか。


だがこの時点では、まだ

“狂った宗教”

なんて発想まではいかなかった。


まさか自分の家に、そんなものが入り込んでいるとは思わない。

普通の家庭というものは、だいたいそうやって遅れる。


明らかな異変が出てから、ようやく気づく。

その前段階では、違和感を違和感のまま飲み込んでしまうのだ。


⑦ 真綿で締まっていく家


翌朝。


栄子はいつも通り弁当を作り、圭一のシャツを整え、香奈美と茂之を送り出した。


見た目には、何ひとつ壊れていない。


けれど、家の中にはもう、見えないものが入り始めていた。


それは怒鳴り声でも、暴力でもない。

祈祷のような異様な儀式でもない。

ましてや、最初から高額な献金でもない。


もっと静かで、もっと日常に溶け込んだもの。


“正しそうな言葉”

“人を裁くような視線”

“救われる側と、気づけない側を分ける感覚”


そういうものが、栄子の口を通して、少しずつ家の空気を変えていく。


まだ誰も、はっきりとは言えない。


でも香奈美も、圭一も、もう感じ始めていた。


何かが、家の中に入ってきている。

それは目には見えない。

音も立てない。

けれど、真綿で首を締めるように、少しずつ、確実に家庭を侵していく。


そして一番恐ろしいのは、

その中心にいる栄子自身が、

それを“悪いもの”だとまったく思っていないことだった。



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