家族に言えないこと
第六章 家族に言えないこと
① まだ秘密のつもりはなかった
日曜の夕方。
金沢の空は、どんよりとした灰色に覆われていた。
雨が降るのか降らないのか、はっきりしないまま、湿った風だけが家の周りを流れている。
真田家の台所では、栄子が夕食の準備をしていた。
包丁で野菜を刻む音。
鍋の中で煮物が静かに揺れる音。
換気扇の低い回転音。
どれも、いつもと同じ音だ。
だが栄子の頭の中は、少しだけ違っていた。
(あの話、もうちょっと聞いてみてもいいかもしれん)
相談会で言われた言葉が、ふと浮かぶ。
“あなたは感受性が高い方です”
“そのままにしておくと、苦しさが続くかもしれません”
“整えていけば、家庭も変わります”
ただの会話のはずなのに、妙に残っている。
栄子は手を止め、鍋の火加減を弱めた。
(でも……別に、変なことしとるわけじゃないし)
そう、自分に言い聞かせる。
宗教に入ったわけでもない。
誰かに強制されているわけでもない。
ただ話を聞いてもらっているだけだ。
それなら、わざわざ家族に話す必要もない。
“隠している”つもりはなかった。
ただ、“言うほどのことじゃない”と思っているだけだった。
② 言葉の選び方が変わる
夕食の時間。
いつも通り、四人で食卓を囲む。
「今日、遅かったな」
圭一が味噌汁をすすりながら言う。
「ちょっと寄るとこあって」
栄子は何気なく答えた。
それは嘘ではない。
相談会に寄ってきただけだ。
けれど、“どこに”という部分は、自然に省かれていた。
「スーパーの人と?」
「まあ、そんな感じやね」
言葉が、少しだけ曖昧になる。
圭一は特に気にしなかった。
仕事の付き合いだと思ったからだ。
香奈美は、箸を止めて一瞬だけ栄子を見た。
“まあ、そんな感じ”。
前の栄子なら、もっと具体的に話していた気がする。
誰と、どこで、何をしたか。
細かく説明するタイプだった。
だがその違和感も、すぐに流れていく。
「今日の煮物、ちょっと味濃いかも」
香奈美がそう言うと、
「ほんとけ?ちょっと火入れすぎたかも」
と栄子は笑って答えた。
見た目は、何も変わっていない。
③ 「言わなくていい」が積み重なる
その夜。
圭一が風呂に入り、茂之が宿題をしている間、栄子は一人でリビングに座っていた。
テーブルの上には、相談会でもらった小さな紙が置かれている。
“心の整え方”
“家庭の流れを良くするために”
そんな言葉が並んでいる。
(これ、見せたらどう思うやろ)
圭一の顔が浮かぶ。
「そんなもん気にしすぎや」
きっと、そう言う。
香奈美ならどうだろう。
「なんそれ?」
「怪しくない?」
そう言うかもしれない。
そう思った瞬間、栄子は紙をそっと裏返した。
(まだ、そこまで大げさな話でもないし)
“まだ”という言葉が、自分の中にあることに、栄子は気づかなかった。
言わなくていい理由が、一つ増える。
たったそれだけのこと。
けれど、その小さな判断が、次の一歩を軽くする。
④ 家族の外にできた場所
翌週。
栄子はまた相談会に行っていた。
「真田さん、来てくれてうれしいわ」
そう言われると、自然と笑顔になる。
家では“気にしすぎ”と言われることも、
ここでは“ちゃんと見ている証拠”になる。
その違いは大きかった。
「この前の話、どうでした?」
「少し、娘への見方変えてみようと思って」
「それ、大事ですね」
“正しいかどうか”ではなく、
“受け止めてもらえるかどうか”。
栄子にとって、ここは少しずつ居心地のいい場所になっていた。
(ここでは、ちゃんと話せる)
その感覚が芽生える。
同時に、
(家では、あんまり話せん)
という気持ちも、静かに生まれていた。
⑤ 香奈美の違和感
数日後の夜。
香奈美は、自分の部屋のドアを少し開けたまま、階下の気配を感じていた。
母の声。
父の声。
テレビの音。
全部、いつも通りだ。
でも――
(なんか、ちょっと違う気がする)
はっきりとは言えない。
怒っているわけでもない。
優しくなくなったわけでもない。
むしろ逆だ。
少しだけ、“よそ向きの優しさ”が混ざっている気がする。
「……気のせいかな」
そうつぶやいて、ドアを閉めた。
香奈美はまだ知らない。
この違和感が、
これからどんどんはっきりした形になっていくことを。
⑥ 見えない線が引かれる
その夜、相談会の関係者の間では、静かにやり取りが行われていた。
「真田さん、家族にはまだ話してないみたいです」
「いい流れですね」
画面の向こうで、
《真光の輪》金沢支部支部長・野々村千鶴
がうなずく。
「この段階では、それで構いません」
「むしろ、家庭で完全に共有されていない状態のほうが、本人の内面に集中できます」
冷静な声だった。
「“理解されない可能性”を少しずつ意識させてください」
「ただし、家族を敵にする必要はまだありません」
段階は、すでに決められている。
栄子の気持ちの動きは、すべて“想定内”だった。
⑦ ほんの少しの距離
夜遅く。
栄子は布団に入る前、少しだけ二階を見上げた。
香奈美の部屋の灯りがついている。
(ちゃんとしとるんやけどね……)
そう思う。
心配しすぎなのかもしれない。
でも、何か引っかかる。
その“引っかかり”を、今はもう家族ではなく、別の場所で解消しようとしている。
それがどれほどの変化なのか、栄子はまだ気づいていない。
同じ屋根の下で暮らしながら、
少しずつ、見えない線が引かれていく。
話すことと、話さないこと。
共有することと、しないこと。
その小さな積み重ねが、やがて大きな隔たりになる。
だがこの時の真田家は、まだ穏やかだった。
誰も怒っていない。
誰も壊れていない。
ただ、
“少しだけ言わなくていいことが増えた”
それだけだった。




